1980年代後半は、新しいタイプの女性シンガーの台頭で始まった―――1985年3月の『ニューズウィーク』には“ロック界のニューウーマン”という特集が載った。強烈なイメージをもつ彼女たちがポップ音楽のチャートばかりかビデオまで席巻していることに、マスコミ大手もやっと気がつきはじめたのだ。1985年が明けたとき、一番インパクトをもつようになるのがだれかはほとんど疑う余地がなかった―――シンディ・ローパーである。その名もふさわしいデビュー・アルバム<シーズ・ソー・アンユージュアル>は、シングル・カットされた4曲がトップ・ファイブ入りするという前代未聞のヒットとなった。そして、“あたしたち楽しいことしたいだけ”と言う彼女のモットーは、保守的な80年代に年ごろを迎えて規則に辟易するティーンのあいだで大いに受けた。ローパーとともにこのムーヴメントの陣頭に立っていたマドンナだが、彼女のほうは、バイタリティあふれる平均的アメリカ女性にとっての“楽しいこと”を再構築できないものかと模索していた。

 新しい“ウーマン・パワー”のパフォーマーの顔ぶれは、チャカ・カーン、ザ・ポインター・シスターズ、パット・ベネター、ジョーン・ジェット、ザ・ゴーゴーズ、ザ・バングルズ、イーナ・イーストン、ローラ・ブラニガン、クリッシー・ハインド、アニー・レノックス、シーラ・E。そして、彼女たちが束になってもかなわない脅威の存在が、マドンナも下から覗きあげたことがあるミニスカートのベテラン・ロッカー、ティナ・ターナーだった。トリプル・プラチナとなる<プライヴェート・ダンサー>アルバムをひっさげた彼女は、45歳で驚異のカムバックを果たした。アルバムからシングルカットされた<穂わっツ・ラブ・ゴット・トゥ・ドゥ・イット>(邦題「愛の魔力」)はグラミー賞を受賞した。

 激しい競争のなかでも、その中心がマドンナとローパーにあることは疑う余地がなかった。二人の類似点は明らかだった―――古着を集めたとんでもない衣装、派手なマルチカラーの髪、その姿勢。世の常識と異性を嘲笑う点は共通していたが―――一つだけ違うところがあった。ローパーのヒット曲の一つ<シー・バップ>は、あきらかに女性のマスターベーションに捧げる歌だったが、ローパーのしぐさは、いってみれば無害なおどけだ。度肝を抜くオレンジのかつらとライムグリーンのタイツに身を固めた、風変わりな都会の悪がきにすぎなかった。それに比べ、マドンナのイメージは露骨なまでに猥褻だった。ローパーがベティー・ブープだとすれば、彼女は現代版メイ・ウエストである。

 最初のうち評論家たちは、風変わりだが害のないローパーのほうを煽情的なその片割れよりも好んだ。マドンナの声は“ヘリウムを吸ったミニー・マウスの声”で片づけられた。ぶらさがる十字架とロザリオ、ちらちらするおへそやボーイ・トーイ・ベルトなどをさして、1985年2月号の『タイム』はマドンナが“神聖ならざるものを宣伝しているらしい”と評した。記事を書いたデイヴ・マーシュは、彼女に“ショッピングモール文化の落とし子”というレッテルをはった。マドンナの驚異的な売れっ子ぶりとすでに悪名高かった私生活とをひっかけた辛辣な標語さえ現れた。いわく“マ(ク)ドンナ(ルド)―――10億人以上に味わっていただきました”。

 かたやローパーは、“遊びごころにあふれて”“陽気”で“とんでいる”と騒がれた。『ニューズウィーク』のビル・バロルのローパー観は“いい意味で刺激的。マドンナの時代でも、下品じゃなくたってレコードは売れるということを教えてくれた”。ミック・ジャガーのような筋金入りのロッカーたちは、マドンナを「まったくのトンマ」と嘲った。『ビルボード』の編集者ポール・グレインは、「マドンナは音楽業界から六カ月で締めだされるだろう。イメージが音楽を覆いかくしている」と予言した。

 マドンナはこうした批判に対して、表立った反応はしなかった。しかし、笑って聞いていたわけでもない。彼女は恩師クリストファー・フリンに電話して、傷ついた胸のうちを訴えた。「マドンナはすごく気にしてた」とエリカ・ベル。「いつも泣き声を出してたわ、なんでみんなこんなひどいことばかり言うの? って」

 とりわけ、シンディ・ローパーを引き合いにけなされるのは気に障った。マドンナが、『ニューズウィーク』のローパー特集記事をこなごなに引きさいたところを見たという知人もいる。「一時はローパーが脚光を浴びていることに、マドンナは強烈に嫉妬していた」と当時のマドンナを知る人が言う。エリカ・ベルによれば、「マドンナはローパーを毛嫌いしていて残酷なシンディの物まねをして見せてたわ。マドンナは、本当のところたび重なる攻撃にすごく傷ついていたのよ」

 なかでもこたえたのは、マドンナ一人のために運動が台なしになっている、というフェミニストたちの意見だった。「マドンナのおかげで逆戻りよ」パラシュート・クラブのボーカル、ロレイン・シガトが言う。「過激な衣装や“ボーイ・トーイ”みたいなキャッチフレーズがないと、マドンナの隣でかすんでしまうんだもの」

 マドンナは、この批判には応酬した。「セクシーさを見せびらかしてるってみんなにたたかれるけど」彼女は『ニューズウィーク』に語った。「プリンスやエルビスやジャガーなんかが同じことやると、やつは正直だ、官能的な男だってことになるのよ。それなのに、あたしがやったとたんに、“ああ、お願い、マドンナ。あなたのおかげで女の地位が100万年前に逆戻りよ”とくるわけ」

 もちろん、このころのマドンナは人からなんと言われようと金儲けに徹していた。初めて6ケタの印税がワーナーから振りこまれる、という知らせをデマンから聞いたマドンナは答えた。「素敵! もう地下鉄に乗らないですむわけね」

 

 迫りくる全米ツアーを前にひとつ小手だめしということで日本の大阪に旅立とうとしていたマドンナは、思いがけない聞きに襲われた。「ジェリービーンの子どもができてしまったの」デマンのアシスタント、メリンダ・クーパーが言う。デマン同様、当時の彼女はマドンナが少なくとも一回は中絶していたことを知らなかった。「フレディと私のところへやってきた彼女はとても慌てていて―――まるで親に知られるのを怖がってる女の子だったわ。マドンナはジェリービーンを愛してたけど、仕事が大事で、彼もそうだった。だから、手術の手配をしたり医者のところに連れていったり何から何まで面倒みてあげた。そのときの彼女ときたら何にも知らないってかんじで。中絶なんて何度もしてたってこと知ったのはずっとあとになってからよ。でも、マドンナは赤ん坊なんかにツアーの邪魔されてたまるかと思ってたのよね」

 二週間後に大阪に着いたマドンナは「絶望的に淋しくなって心を乱されていた」とクーパー。父親の訃報を告げる電話が入ったときなど、神経衰弱の寸前までいった。結局いたずら電話とわかったのだが、マドンナはぎりぎりまで追いつめられてしまった。「明け方の四時、日本から泣きながら電話してきて、ジェリービーンを日本によこしてちょうだいって頼むの。そうしたけどね。そのころの彼女はジェリービーンにべたぼれだったから、しっくりいかなくてすごく傷ついてたの。ジェリービーンさえ首をたてに振ったら、その場で結婚しちゃったでしょうね」

 1985年の2月、<マテリアル・ガール>のビデオ制作のためロサンゼルスに向かうころにはアルバム<ライク・ア・ヴァージン>はわずか12週間で350万枚を売り、ブルース・スプリングスティーンをトップの座から追いおとしていた。タイトル曲は一位を確保していたし、公開されたばかりの映画《ヴィジョン・クエスト》で歌った初のバラード<クレイジー・フォー・ユー>もトップ・シングルめざして進撃中だった。レコードとテープを合わせると、なんと一日の売上げ8万枚という驚異的数字をはじきだして、ワーナーの重役を仰天させたのである。

<マテリアル・ガール>のシングル盤の録音中から―――ビデオ撮影はまだ何カ月も先だった―――マドンナの頭のなかには一つのイメージができていた。彼女が大好きな映画のシーンに《紳士は金髪がお好き》でマリリン・モンローがそのトレードマークともいえる<ダイヤモンドは女の最高の友達>を歌うところがある。「あのシーンをそっくりやれば完璧になるはずよ」彼女はフレディ・デマンだけでなく、プロデューサーや監督などビデオ制作にかかわる全員に言ってまわった。

 耳を傾けるものはだれもいなかった。代わりに彼女を襲ったのは、雪崩のようなアイデアの山だった。コンサートでいつも見せるように床をころげまわるという案から、ハイテクを使ってオーウェル調の悪夢の未来を描くという案まであった。数年後の<エクスプレス・ユアセルフ>のビデオに、このときのアイデアが吸収されることになる。「みんながそれぞれ自分の案をしゃべって、あたしも一方的に自分の案を言うばかり」とマドンナ。「だれもあたしの意見にとりあってくれそうもなかった」

 いとも気やすく自分の意見を無視するまわりの男たちに業をにやしたマドンナは、ついに断固たる態度にでた。「あたしは、この案でやりたいの。あたし、これをやりますからね」

 ビデオは古典的名作の風刺に仕上がり、マドンナに対する世間の評価のターニング・ポイントになった。映画会社の試写室から始まる茶化したような冒頭のシーンに、マドンナの将来の夢が投影されている。「彼女いけるじゃないか」と、葉巻をくわえたボス(配役はキース・キャラダイン)。

「スターの素材だよ」

「大スターになるかも知れませんな」と子分。

「今だってもうスターだ」

「世界に通用するスーパースターですね」子分がすかさず合いの手を入れる。「いま、話してるこの瞬間も」

 ビデオのなかのマドンナがまとっている赤いサテンのストラップレス・ドレスは、モンローが着たセクシーなドレスのコピーだった。テレビシリーズ《ダラス》と《ノッツ・ランディング》の衣装デザインを担当したビル・トラヴィラは、モンローのオリジナル・ドレスのデザイナーとして自分の名前がクレジットされなかったことを怒っている。「ヴァージンみたいに」彼はマドンナの歌をもじってぴしりと言う。「こっちも初めてやられちまった」

 服も髪もモンローそっくり。ダイアモンドのブレスレットをじゃらじゃら垂らしたマドンナは、息づかいも荒いタキシードの求婚者たちのなかを意気揚々とはねまわっては、お金大好きと無邪気に歌いあげる。アンチ物質主義を打ち出した肝心のメッセージは、絢爛豪華な映像に埋もれてしまった。ボスがバラではなくデイジーを差しだし、おんぼろの小型トラックに乗っているのを見てはじめてマドンナは心を許すのだ。

 フレディ・デマンの助手でやがてマドンナの個人的アシスタントになるメリンダ・クーパーによれば、このころのマドンナは「とてもきちんとしていた。すごくクールだったし、人当たりも良かったわ。彼女には保護者、面倒をみてくれる人が必要だったの。彼女のホテルから、センチュリー・シティにあるデマンのオフィスまで2、3ブロックあるんだけど、夜は歩いていかないようにいつも注意していたわ。でもマドンナって言い出したらきかないでしょ。そのころはまだ免許がなかったから、私があちこちに連れていくことになったの」

<マテリアル・ガール>の撮影が行われるハリウッドのサウンドステージに向かう途中、有名になってプライバシーを失う覚悟はできているかとクーパーは尋ねた。「生活がすっかり変わってしまうことを、マドンナは予想もしてなかった。それで私言ったんです。“どんな生活になるか、全然わかってないんじゃない?”って。彼女、むっとして“わかってるわよ”と答えたけど、わかっていなかった。彼女にとっては大変なことで、生活ががらりと変わることになるのに」

 ビデオ<マテリアル・ガール>の収録は、マドンナにとってまたも大きな節目になったが、今度はもっと私的なものだった。ある朝、ビデオ監督のメアリー・ランバートが友達のショーン・ペンを連れてきた。テレビ・ディレクターのレオ・ペンと元女優のアイリーン・ライアンの息子であるペンは、ビバリーヒルズの恵まれた環境で甘やかされて育った。粗暴にふるまう彼は、24歳ですでに公私ともにハリウッドのバッド・ボーイとして一目おかれていた(出演映画は《初体験》《月を追いかけて》《コードネームはファルコン》)。

 マスコミ嫌いで嫉妬に激しやすい彼は、そのころの婚約者エリザベス・マクガバンが《月を追いかけて》のセットのトレーラーのなかで男の記者からインタビューを受けていると知って怒りくるった。マクガバンと不運な記者がなかで話してるあいだ、ペンはトレーラーを激しく揺すり、彼女は床に放りだされた。マクガバンの前にも、ペンは女優のスーザン・サランドンやブルース・スプリングスティーンの妹パムなどを相手に華々しいロマンスの噂をたてられていた。

 ペンは仕事にたいしても、女性にたいすると同じ狂喜に近い気持ちでのぞんだ。映画『バッド・ボーイズ』で十代のチンピラを演じることになった彼は、髪を肩までのばして腕に狼の顔を刺青した。「ショーンに感触をつかませるために、シカゴで手入れに行く警官に同行したことがあった」監督のリチャード・ローゼンタールが言う。「あとから応援にやってきた警官に一味だと思われて手をあげろといわれたんだ。私は言うとおりにしたが、ショーンにとっては警官と喧嘩するチンピラ気分を味わう絶好のチャンスだ。建材みたいな体をした警官をふりかえって“うせろ”と言ったもんだ」

 ローゼンタールは言葉を継いだ。「警官はショーンをつまみあげると壁に投げつけた。鼻が折れかけたが、あの瞬間キャラクターをつかんだとあとで言ってたっけ」

 運命の出会いとなる朝、マドンナはセットの階段のてっぺんにたってライティングの調節を待っていた。ふと見下ろすと、「皮ジャンにサングラスの男が隅に立ってあたしを見てるのに気がついたの」その男が実はショーン・ペンだと気がついた彼女は「その瞬間、この人と恋に落ちて結婚するんだと感じた」という。

 予感を胸に秘めたマドンナは、彼への興味をわざと一風変わったやりかたで表現した。階段を降りていき、身長5フィート6インチのペンの脇を通りすぎざま、氷の視線を投げかけたのだ。何時間もたって、まだ隅をうろうろしているショーンを見つけた彼女は大声でどなった。「出てってよ! 出てけっていってるのよ!」その日ビデオの出演者やスタッフ全員に花を配ったマドンナは、一本残っていることに気がついた。「だから、出ていこうとするショーンに向かって言ったの。ちょっと待ってよ、渡すものがあるからって。そして、階段を駆けあがってバラを手渡したのよ」

 その晩、ペンは友人の家を訪れていた。友人は引用句の本を手にとって気紛れに一節を読みあげた。“彼女には子どもの無邪気さと大人のウィットがある”「思わずそいつの顔を見つめたね」とペン。「そしたら、つかまえてこい、とそいつが言ったんだ」

 マドンナがショーン・ペンとの出会いに強い印象を受けていたとしても、彼女はそれを仲間にはみせなかった。「夜中に彼女がロスから電話してきて、まるで高校生みたいにくすくす笑いながらその日会った有名人のことを話すのよ」とエリカ・ベル。「ねえ、きいてよ、あたし今日、エリザベス・テーラーとショーン・ペンとそれからフランク・パーデューに会ったんだからって。今でもよく覚えてるけど、どの名前も同じように言ってたわよ。《チキン・キング》のフランク・パーデューに会ったことをショーン・ペンに会ったのと同じくらい興奮してたわ」

 それよりも、マドンナはロック界のもうひとつの原動力、プリンスと友好を結ぶことに熱心だった。プリンスは、マイケル・ジャクソンの驚異のアルバム<スリラー>熱もようやく冷めかけた1984年から王座についていた。この時期、プリンス・ロジャース・ネルソンは、トップ・シングル(<ホエン・ダブス・クライ>)、トップ・アルバム(<パープル・レイン>)、トップ・ムービー(7000万ドル以上を稼ぎだした《パープル・レイン》)の栄光の座を独り占めにした。1985年には《パープル・レイン》でアカデミー賞をはじめいくつかのグラミー賞を受賞した。

 プリンスとマドンナには、レコード・レーベル以上の共通点があった。彼もまた中西部の育ちだった(生まれも育ちもミネアポリス)。プリンスはマリリン・モンローを崇拝していて(壁を紫にしたミネアポリスの家はモンローのポスターでいっぱい)、恥ずかしがり屋を自称しつつもステージではビキニひとつにスティレット・ヒールという姿で汗に濡れた身体をくねらせる。

 身体も貧弱で(身長5フィート3インチ、体重120ポンド)男か女かわからないような外見にもかかわらず、プリンスはペンでさえ顔負けの女たらしという評判を勝ちえていた。ごく平凡だったジャズ・パーカッショニストのシーラ・エスコヴェドをセクシー歌手シーラ・E(<グラマラス・ライフ>)に変貌させ、パール・ドロップス歯磨きのモデルだったデニーズ・マシューズをヒット歌手ヴァニティに昇格させた。

 プリンスが最初にマドンナを見初めたのは1985年1月28日にロサンジェルスで行われたアメリカン・ミュージック・アワードの授賞式の楽屋だった。自己紹介はせず、あとで彼女の電話番号を聞いてこいとマネージャーにいいつけた。マドンナは、自分のことにかまけていて彼には気づきもしなかった。「彼女は、自分のキャリアやレコードやビデオの話に夢中だった」とショーのスタッフが言う。

 彼女はまた、ホール・アンド・オーツとして当時ポピュラー界のスターだったダリル・ホールとジョン・オーツの二人をさんざんこきおろした。授賞式では二人が歌ったが、マドンナは軽蔑を隠そうともしなかった―――ひとつには、彼らの歌がマドンナの持ち時間にくいこんだためもあった。「ホール・アンド・オーツのことがどんなに嫌いか、そこらじゅうに触れまわっていた」別のスタッフが言う。「見苦しかったですよ。いいとか悪いとか、他人についてとやかく言う権利はないのに」

 次の日、プリンスから誘いの電話がかかってきた。ボビー・マルティネスかジェリービーン・ベニテスの悪戯だと思ったマドンナは、汚い言葉を浴びせようとして、ふとプリンスの声だと気がついた。ツアーのリハーサルのためニューヨークに戻る予定だったが、ロサンジェルス・フォーラムのコンサートに来ないかというプリンスの招待を受けた。電話を切ったマドンナは「大喜びではしゃぎまわった」と友達が言う。

 プリンスのほうも同じくらい興奮していた。約束したデートまでの三週間というもの、彼はこの“マテリアル・ガール”のことばかり喋りつづけた。コンサートの夜がくると、プリンスは白の大型リムジンをマドンナのホテルに迎えにやってフォーラムに横づけさせた。コンサートのフィナーレにはステージに上がるよう彼女を誘い、彼女もそれに応じた。

 コンサートが終わると、二人はプリンスのトレードマークである紫のリムジンに乗りこんで、ウエストウッド・マーキスに飛ばした。プリンス一同で9階全部を借りきっていた。プリンスがふりまくラベンダーの香りに、マドンナはたちまち心を奪われた(「彼って、プンプン匂うのよ」とエリカ・ベルに言った)。ホテルでのパーティーは乱痴気騒ぎになり、シャツを破り捨てたプリンスがテーブルの上で踊ろうとマドンナを誘う場面もあった。結局おひらきになったのは、午前五時だった。

 マドンナはプリンスのコンサートの最終日にまたやってきて、その二日後このグラミー賞授賞式でそれぞれ歌ったあと、二人は遅い夕食にでかけた。プリンスの紫のリムジンが向かったのはヤマシロ、ロサンジェルスを一望するエレガントな日本料理レストランだった。到着したマドンナとプリンスは、普通なら75人は入ろうというスカイビュールームを借りきった。三時間かけた食事のあとは、新しくできたシックなディスコ、ファサードで明け方まで過ごした。

 マドンナは、プリンスの“霊的な”部分に感心した、とあとで語っている。「話す前から、あたしが何を考えてるかわかってるみたいだったわ」彼女は、まくしたてた。公の場で派手な分、私生活ではうってかわって控えめに優しく話すのも、彼女には意外だった。プリンスのほうは、マドンナの鋭い知性にびっくりしたと友達に話している。「彼女こそ、ぼくが探してた理想の女だ」」と言ったという。「美しくてそのうえ頭もいい」

 どちらも、二人の関係がもたらす宣伝効果をきちんとおさえるだけの抜け目のなさはもちあわせていた。それからの数カ月、マドンナがロサンジェルスに来ているときは必ずプリンスがエスコートして歩いた。スパーゴで食事をし、一番トレンディなクラブに顔を出し、「熱々ロマンス」を報じるタブロイド紙の記事を否定するそぶりもみせなかった。

 派手に取り沙汰される“ロマンス”を進行させる一方で、マドンナはショーン・ペンと本気でつきあいはじめていた。彼女自身は恋多き女で通っていたが、ペンを他の女と共有するのはいやがった。2月終わり、ニューヨークのカフェ・セントラルで二人が食事していると、ペンの元フィアンセ、エリザベス・マクガバンとばったり出会った。彼女はペンに寄り添って腰をおろし、おしゃべりをした。とりつくろった友好的な雰囲気も長くはつづかず、マドンナが爆発した。罵り言葉をまくしたてたかと思うと、彼女は嫉妬の怒りに身を震わせてレストランから飛び出していってしまった。

 一週間後の3月2日、マドンナとペンはまたもや激しいいさかいをしたが、今度はロサンジェルスのアパートが舞台だった。彼女とプリンスの恋を報じる新聞を読んで、ペンが怒りくるったのだ。けんかの最中に彼はアパートを飛び出し、彼女ははげしくドアを閉めた。怒りに胸をたぎらせたペンは、振りむきざまに拳を打ちつけて穴をあけた。つぎの日、マドンナはその穴をメリンダ・クーパーに嬉しげに見せびらかした。「素敵だと思ってたのね」とクーパー。「ショーンのかっとする気性を、そのころは彼女も気に入っていたのよ。男を怒らせるのが好きだったの」

 数日後、プリンスが漆喰を手に訪れて、マドンナと壁を直した。「二人とも思ってたはずよ」とエリカ・ベル。「まったくなんてヒステリックなんだろうって」

 ベルには最初からマドンナがペンにひきつけられる気持ちがわかっていた。「彼はジェームス・ディーンきどりの不良、彼女は街の不良娘をきどってたのよ。ペンは反逆児みたいな口きいてたけど、ほんとはビバリーヒルズの金持ちのぼんぼんにすぎなかった。それにもちろん映画スターで、彼女も映画スターになりたがってたから、ひきつけられるのも当然だったわね」

 マドンナの目には、ペンの知的教養も大したものに映った。そしてリルケ、ジェムス・エージー、ジャック・ケラワック、チャールズ・ブコフスキー、ミラン・クンデラ、バルザック、モーパッサン、J・D・サリンジャー、V・S・ナイポールなどの作品をむさぼるように読みはじめる。「昨日まで、そんな作家のことなんか名前もきいたことなくても」とベル。「翌日には、もう何年来リルケを読んでいるように、インタビューで彼の名前を織り混ぜたりするのよ。マドンナは一人前に扱ってもらいたかったのね」

 二人がどんなに教養をみせびらかせようと、マドンナの仲間から見た彼女とペンは相性が悪かった。「真剣なつきあいだなんて、とても思えなかったわ」とベルは言う。

 一目ぼれだったとあとになって述懐しているマドンナだが、実際にはペンに夢中だったわけではなかった。マリリン・モンローのお墓参りをしようと誘ったのは彼のほうだった。「ショーンの仕事は前々から尊敬していたわ」彼女は作家カール・アリントンに語っている。「彼は奔放でタフで。夭折するんじゃないかしら」マドンナは彼に若き日の父親の面影を見いだし、彼と自分の誕生日が一日違いであることにも運命じみた気持ちをもっていた。



 ニューヨークに戻ったマドンナは、きわめて重要な最初のツアーの準備に全力を注いだ。ほどなくスーザン・シーデルマンから連絡があり、《マドンナのスーザンを探して》の親会社であるオリオンが、高まりつつあるマドンナ人気を利用したがっていると伝えた。映画の封切り日は、マドンナのツアーに合わせて二カ月くり上げられた。「ちょうど最後のシーンを撮っていたので、のりのいいダンス曲がほしかったの」とシーデルマン。彼女は、スティーブ・ブレイと作っていた新曲のテープを聞かせて欲しいとマドンナに頼んだ。

「あたしのほうもエキストラに踊らせてテストしてみたかったの。のれる曲かどうか」とマドンナ。最終的な吹き込みも近づいたころ、シーデルマンは新曲を映画に使わせてほしいと頼み込んだ。マドンナは<イントゥ・ザ・グルーブ>のエイトトラック・オリジナル・デモテープを送った。監督がにらんだとおりそれは爆発的なヒットになり、映画の興行成績もその恩恵を蒙ることになった。

 サウンドトラックは完成とはほど遠い状態だったにもかかわらず、MTVは奔放に踊りながら<イントゥ・ザ・グルーブ>を歌うマドンナのビデオクリップを大急ぎでまとめた。たちまちMTVにリクエストが殺到し、ラジオでもヒットナンバーになった―――レコード発売はまだ一カ月以上も先の話だったのだが。業界通のカル・ラドマンに“まったくの前代未聞”と言わせる事態となった。

《マドンナのスーザンを探して》に突如として<イントゥ・ザ・グルーブ>を挿入したことは、さらに深刻な余波を引きおこした。<イントゥ・ザ・グルーブ>はマドンナがチェインのために書いたもので、その有望な黒人歌手はすでにその曲を自分のアルバムに録音していた。しかもマーク・カミンズがチェインのプロデューサーだった。「マドンナがあれを歌ってるのをみて、彼女は飛びあがった」とカミンズ。「チェインは叫んだよ―――あたしはマドンナの黒人版じゃいやなのよ! ってね。チェインは裏切られたんだ。世に出ようとしている若い歌手をつぶしておきながら、マドンナは鼻もひっかけなかった」

 彼女の頭は他のことでいっぱいだった。《マドンナのスーザンを探して》が四月に封切られ、マドンナは『ニューヨーカー』の映画評論家、ポーリン・ケールからさえ“放浪する怠惰な女神”と讃えられた。“登場人物のなかで成功しているのはマドンナだけ。あきれるくらい自信に満ち、マドンナとして迫ってくる”と『ニューヨーク』誌のデイビッド・デンビー。

 共演したロザンナ・アークエットにはなんとも悔しい話だったが、オリオンはマドンナをスター扱いすることで巨大な若者市場を狙った。のりのいい<イントゥ・ザ・グルーブ>をバックに使った《マドンナのスーザンを探して》のコマーシャルは、予告編というよりむしろマドンナのビデオに近かった。

 映画がマドンナにのっとられそうな気配に対抗して、アークエットもメディアをつかって彼女なりの作戦にでた。マドンナが急激に大スターになったことに圧倒されたと認めたのだ。「私は、あんなふうになったことがないわ」彼女は、『ローリング・ストーン』の特集記事「マドンナとロザンナ」のなかでフレッド・スクラーズに語った。「すっかり神経がまいっているわ。傷つきやすいのよ。丈夫な殻をもってないの。だから、こんんなに心を乱されてしまうんだわ。どうしようもなく不安なのよ」

 記事のなかのマドンナは、デイビッド・デンビーの指摘どおり、実に自信にあふれてみえた。「あら、そう? だれが話題になるっていうのよ―――ロザンナ以外に?」マドンナはサクラに使われることに多少のひっかかりを覚えていた。《マドンナのスーザンを探して》は、女優としての地歩を固める手段になるはずだが、この映画が興行的に成功することの重要性も十分わかっていた。「あたしの音楽のファンは若い子たちがすごく多いの。だから会社はサウンドトラックをつかって映画を売ったってわけ」映画を30年代のいかれたコメディアンになぞらえて、彼女はスーザンをほめたたえた。「人生のほんとの味が出ているわ、子供っぽい馬鹿げたファンタジーじゃなくて」

 スタジオ側の作戦は見事にあたった。予測をはるかに下回る年齢層のファンをひきこんで、映画はそのシーズンの稼ぎがしらになった。

 こうした矢つぎばやの成功によって、マドンナの性格は大きく変わりつつあった。メリンダ・クーパーに転機が訪れたのは、ロサンジェルスのマドンナから深夜に電話がかかったときだった。「マドンナのために空港へ迎えのリムジンを手配しておいたんだけど、なにかの手違いで彼女がロスに到着したときまだ着いてなかったのよ」とクーパー。「私を馬鹿呼ばわりして、ひどい悪態をついたわ。初めて、彼女に泣かされました」



 永遠に続くかと思われたロサンジェルスとニューヨークのリハーサルも終わり、四月初旬のシアトルで、鳴り物入りで宣伝されていたヴァージン・ツアーの幕が切って落とされた。マドンナが手ずから選んだ前座は白人ラップ・グループのビースティー・ボーイズ。セックスと暴力を崇めているとして悪名を馳せていた彼らは、マドンナの反逆魂につよくアピールしていた。つづく二カ月あまり、マドンナ軍団は28都市を制覇し、60年代半ばのビートルズ旋風以来のヒステリー状態をまきおこした。

 マーリン・スチュアートがツアーのためにデザインした衣装にとっかえひっかえ身を包んで―――有名なレースのウェディングドレスや<マテリアル・ガール>のビュスティエ、プラスチックの果物や灰皿やおもちゃの時計をちりばめたピンクのフープスカート―――マドンナは跳ねて歩いて身をくねらせて十数曲を歌いとおした。6人のバンドと2人の男性ダンサー、そして事前収録のバックグラウンド・ボーカルが彼女の細い声を支えた。

 ネオサイケデリックの派手なジャケットを着たマドンナが会談をかけ降りてくるオープニング・ナンバー<ドレス・ユー・アップ>からラストまでの70分間、心臓が破裂しそうなペースでショーは進んだ―――合間にマドンナは聴衆に話しかけた。「ハロー、マイアミ」彼女は叫んだ。「どこ見てんのよ?・・・・・・やっぱりね」。あるときは巨大なスピーカーにまたがって、「女ならだれでも箱をもってるけど、歌を歌うのはあたしのだけよ」露骨な姿態を見せながらの<ライク・ア・ヴァージン>に観客がエロチックな熱波にまきこまれたとみると、彼女は「あたしと結婚してくれる?」と叫ぶ。返ってくるのは、もちろん、割れるような「イエス!」。コンサートの終わりには父親とおぼしき像が登場し、厳かな神の声で、もう十分遊んだのだからお家へお帰り、とマドンナに告げる。

 この歯止めもてらいもない観客の熱狂は、マドンナを単なるロックスターからひとつの現象にまで押しあげた。ヒョウ柄のミニスカートや金ラメのビュスティエ、ストレッチ・レースのレオタード、指なしのイブニング手袋で着飾った観客が何千人もつめかけた。見慣れぬ目には、若い女たちが下着だけで歩いているように見えた―――実際、多くの女たちがそうしていたのだ。

 彼女たち“そっくりさん”は、規範を破り伝統を踏みつけるアイドルとそっくり同じになりたいと熱望する10歳から21歳までの女性集団である。小生意気な態度で常識を冷笑し、当然のように親の権威にも刃向かう若い女性たちは、何百万ドルという金をつかって、今やパッケージ化されていたマドンナ・グッズ(Tシャツ、ツアーブック、イアリング、手袋、ポスター、スエットシャツ、ボタン)を買いあさった。ある娘はおどけて言った、「マドンナの顔さえついてればなんでも売れるわ」。マドンナは有頂天だった。なにしろ、シアトルの幕開けをシャンパンで祝ったときには、全米のレジはまだチンとも鳴っていなかったのだ。「あたしたちに」最初のコンサートを終えたとき彼女は乾杯した。「宇宙の支配者のために!」

 マドンナがサンフランシスコにやってくると、今度はプリンスが敬意を表する番だった。彼は舞台の端にあるカメラマン用のピットに大男のボディガードと一緒に立ち、金切り声をあげる5000人のファンを前に得意満面のマドンナを見上げた。ショーを終えた彼女は、プリンスの誘いに応じて彼のホテルのスイート・ルームに行った。自分のボディガードのクレイ・テイブとエレベーターをおり立った彼女は吐息まじりに言った。「さあ、コビトのお家に行かなくちゃ」

 マドンナは、しだいにプリンスにたいして苛立ちを覚えるようになっていく。どんなに気のあるふりをしてみせても、彼は性的な誘いをはねつけた。「触ってくれ、舐めてくれ、愛してくれ、欲しがってくれってふりしてるくせに、いざとなるとお坊さんの衣を着てるみたいな顔するんだから」マドンナは友人たちにこうももらしている。「プリンスは繊細すぎてあたしの趣味には合わないわ。さよならって抱きしめたら、あんまり華奢であたしの腕のなかでこなごなになるかと思ったわ」

 その点、ショーン・ペンは頑丈な愛人ぶりを証明してみせていた。もっと大事だったのは、今までのどの恋人もみせなかった執着を示してくれたのだ。彼は、マイアミ、サンディエゴ、デトロイトと彼女のコンサートを追いかけた。デトロイトのコボ・ホールでのコンサートが終わると、彼女は彼を両親にひきあわせた(ペンも、それからまmなく、ロサンジェルスのユニバーサル・アンフィシアターでのショーのあとマドンナを両親に会わせた)。「ショーンは彼女のことをいつも気にしていたわ」とメリンダ・クーパー。「ジェリービーンにはけっしてまねできない愛し方だった。結局、ジェリービーンは自分に恋してたのよ。でも、彼女にはそれがなかなか見えなかったのね」

 故郷デトロイトに錦を飾ったマドンナはそれなりの配慮をみせた。そこでは、友達や家族や恩師たちが客席に集まっていた。客席に祖母の顔を見つけた彼女は、<ホリデイ>の途中で歌うのをやめ、五分間の胸にせまるスピーチをした。バンドのメンバーも、何人かもらい泣きした。最前列では最初の師だったクリストファー・フリンが行儀よく手を膝に重ねて顔を輝かせていた。「胸をつかれました」彼は言った。「見上げていると、人形を抱えた14歳の少女の面影が残っているんです。でも、いまの彼女は欲しかったものをすべて手に入れた。あの子のお尻をひっぱたくようにしてミシガンからニューヨークへやったとき、きみなら手に入るといったすべてをね」

 マドンナが一番喜ばせたかった客は、トニー・チッコーネだった。いまだに父親の承認をもとめていた彼女は、媚態とみられるおそれのある部分の大半をショーから削ってしまった。「ホームタウンでやったコンサートは、他の所に比べると、消毒したみたいにご清潔だった」マドンナのかつてのスタッフが言う。「何があっても父親に恥ずかしい思いはさせないって」高校時代、マドンナが通った高校のカウンセラーだったナンシー・ライアン・ミッチェルは言う。「ほかのコンサートで使う言葉は口にしませんでした。父親の愛情と承認を失う危険はおかしたくなかったんです」

 マドンナ自身、父が見ているのを知りながら淫らなパートを実行する勇気はなかった。だが、心配そうな両親に付き添われた数千人の12歳の少女たちを見渡したとき、そのためらいは消えた。

 父親と和解しようという魂胆も明白に、マドンナはトニー・チッコーネを舞台に呼んでコンサート名物になっているセリフを言わせた。「パパ」彼女は言った。「ここにきて子供のころみたいに叱ってほしいの。いけない子だ、舞台から降りなさいって」彼女は四年生のときのスキャンダラスなゴーゴーガールのもの真似を父親に思い出させようとした。「さあ、本気で引きずりだして。あたし、暴れるから」

 トニー・チッコーネは、娘の指示に従いすぎたほどだった。舞台に上がった彼は、娘の腕を思いきりひっぱり、マドンナは「腕がもぎとられると思った」。フィナーレで、彼女は再び父親を舞台にあげて拍手に応じさせた。

 デトロイトのセント・レジス・ホテルのスイートで開いた小さな打ち上げパーティーには、身内や学校時代の友達や先生を招いた。野球帽をかぶった彼女は部屋のなかを泳ぎまわってゲストにあいさつするたびにこう聞いた。「ねえ、みんな、今夜のパパ、最高だったと思わない?」

「とてもほのぼのとして、同時にすこし張りつめたところもありました」ナンシー・ライアン・ミッチェルがふりかえる。「抱擁やキスが何度もくりかえされて、マドンナはみんなに愛情あふれる態度で接していました」。とりわけ、10年前に彼女の夢を育んでくれた恩師マリリン・ファローズにたいしてはそうだった。「野球帽をかぶったマドンナが、小柄な老婦人を抱えるようにしてみんなに紹介しました」とミッチェル。「それは優しかったわ」だが、トニー・チッコーネは居心地が悪そうに見えた。「彼は娘のほめ言葉を聞きながしていました」ミッチェルが言う。「それに、ビースティ・ボーイズに話しかけようとつとめてましたよ。肌が合うとはいいがたい人たちにね」

 父親があまり喜んでいないことに、マドンナはいつもながらがっかりした。「父はもともとあまり感情を表にださないの」彼女はそう言った。「父が変わるのを期待するのが甘かったんだわ。そう、たしかに拒絶されたような気がするわね」

 ペンがついてこなかった後半のツアーで、マドンナは二人の関係をふりかえった。「朝の二時にクリーブランドから電話してきたわ」とエリカ・ベル。「ショーンのこと、観客のこと、移動がいかに退屈かってことを話してたわ。ショーンのことが気になってたようだけど、それほど情熱的な口ぶりじゃなかったの、たとえばジェリービーンのときと比べても」

 大成功ツアーの波にのったマドンナは、これまでにないほど派手に男たちと遊びまわっていた。ロサンジェルスの初日のパーティーにデイビッド・リー・ロスを招いた彼女は、ヴァン・ヘイレンの好色な元リード・ボーカリストにたいする興味をほとんど隠そうとしなかった。「女の子を連れてった法がいいのかな、それともあとでおれに用があるかい?」彼は彼女に尋ねた。「もちろん、だれか連れてきたら」マドンナは答えた。「あとでみんなで一緒に何かやってもいいのよ」

 東海岸に戻ると、ペンには前と同じ忠誠をつくした。ペンが《ロンリー・ブラッド》のロケにメキシコに行っているあいだ、マドンナは予備の恋人ボビー・マルチネスはじめ8人の男たちを引きつれてディスコ、パラディアムにくりだした。予約完売になった5日間のニューヨーク・デビュー・コンサートの前夜のことである。1万7000枚のチケットはわずか30分でなくなり、ラジオシティ・ミュージックホール史上、最もはやい完売記録となった。二人のカメラマンがマドンナに気づくと、マルチネスとマドンナのボディガード、クレイ・テイヴがすばやく彼女を守った。敏捷なマルチネスがAPのカメラマン、フェリス・クイントを追いかけ、テイヴは『デイリー・ニュース』のカメラマン、ディック・コーカリーを壁にたたきつけた。くすくす笑いながら騒動を見ていたマドンナは、やがて変装用の帽子をまぶかにかぶると、家来の男どもを従えてクラブから逃げだした。

 通りに出ると、テイヴとマルチネスはまたコーカリーを襲い、したたかに殴りつけた。後日、コーカリーが訴えでてテイヴは謝罪する羽目になったが、暴行の主犯はマルチネスだった。「いろんな新聞にでかでかと載ったけど、あいつをのしたのはおれなんだ」とマルチネス。「クレイが罪を着てくれた」その理由は?「マドンナはおれの名前を新聞に出したくなかったんだ。まだおれとつきあってることをショーンに知られたくなかったんだよ」

 マドンナはどの公演先でも実力は素人の域を出ていないと批評されたが、『ローリング・ストーン』の評論家マイケル・ゴールドバーグの、素人っぽいからこそマドンナは“親しみやすいのだ”という意見に、みんな納得していた。ツーあの最後を飾るマジソン・スクエア・ガーデンとラジオシティ・ミュージックホールのショーのためにニューヨーク入りした6月4日、『ニューヨーク・タイムズ』は残酷きわまりない論評をのせた。“ようするに”と『タイムズ』記者ロバート・パーマーはつづる。“マドンナの歌はうまくないということだ。イントネーションは不快だし声は硬く歌い方も平板。不安定なピッチとかぼそい震え声があいまってフレーズの最後の音が死に場所を求めてさまよいだしているように聞こえる”そして、いくぶん陰湿に、こんなコメントものせている。“タンバリンを投げあげるのは、落とさない術を身につけてからにしたほうがよいだろう”

 ツアーを続けるうち、マドンナはしだいにプリマドンナと揶揄されるようになっていた―――バンドのメンバーやダンサーに乱暴に命令し、音の調整中にかんしゃくを起こし、少しでも気に入らないことがあるとクルーからリムジンの運転手までだれかれとなく悪態をついた。「一夜にして、マニアックで我の強い人間になった」とメリンダ・クーパーは言う。「つぎの瞬間なにがとびだすか、まったくわからないの。突然、“あたしの言うとおりやりなさい。今すぐやって。わけなんか聞いたらクビよ”ですからね」マドンナは得意そうに言った。「そう、あたしはビッチよ。それに、ボスでもあるの」

 マジソン・スクエア・ガーデンでのファイナル・コンサートで、マドンナは感傷的になった。かつてはすぐ近くの薄汚れたアパートに住んでいたのだ。旧友スティーブ・ブレイは聴衆に話しかける彼女の言葉を聞いて感嘆したように首をふった。「通りをはさんだ向こう側に住んでいたころ、窓からよくここを眺めてはつぶやいてたわ・・・・・・いつかあそこで歌える日が来るかしらって」