(前回の記事は「気の感覚が分からない 」です)
気功修行者の最大の盲点
前回の記事では、わたしが指導で気脈を開いても、
なかなか気の感覚を実感できない人は、
「感覚が鈍い」
のではなくて、
「肉体感覚に注意を向けないから、何も感じない。」
だけなのだと説明しました。
例えば、前回の記事で紹介した、
「いえ、体のどこにも感覚はありません。」
と答えた受講者の方ですが、
その後、わたしが、
「別に気の感覚でなくても構いませんから、一番気になる
感覚はありませんか?」
と再度、尋ねてみると、
「左膝の裏が何となく重い感じがする。」
と答えました。
そこで、わたしが
(以下:私)「それでは、左膝の裏側にフワッと意識をかけてみますね。」
(2~3分間、意識をかける)
(私) 「どう変化しました?」
(受講者 ) 「ビリビリしてきました。」
(私) 「今度はそのビリビリした感覚に意識をかけます。」
(数十秒後、左膝裏の感覚が足首に移動する。)
(私) 「今、ビリビリした感覚が足首の方に下りて行きましたね。」
(受講者) 「確かに今、同じ感覚がしました。(驚いている)」
(私) 「今、膝の裏にあった気が、下腿の内側を走っている腎の経脈を
通って足首の方に流れて行ったんです。」
「ですから、○○さんはちゃんと気を感じているんですよ。」
(受講者) 「今のが気の感覚なんですか?」
「高藤総一郎の本に書いている気の感覚とは違っているけど・・・」
この受講者の方が言うように、仙道研究家 高藤総一郎氏の著書では、
呼吸法と意識の集中により下腹部に陽気と呼ばれる熱感を発生させる
行法が紹介されています。
その際に発生する気の感覚としては、
〈 下腹がアイロンでも入っているんじゃないかと思われるぐらい熱くなる。〉
〈 背中を熱いお湯が上昇していくような感覚がする。〉
などと描写されています。
そのため、高藤氏の本を読んだ人は、
「そうか、小周天で流れる気は熱いお湯が流れる感覚なんだな!」
↓
「気の感覚=熱感」
と無意識レベルで思い込んでしまいます。
この無意識レベルの思い込みが気の感覚を遮断してしまうわけです。
人の感覚というものは、その人の意識状態によって受け取る情報量が
変化します。
誰でも覚えがあると思いますが、夢中で面白い小説を読んだり、
ゲームをしたりしている時は周囲の雑音に気が付かなかったりします。
逆に、夜、寝床に入ってなかなか寝付けない時に、隣の部屋から
TVの音や話し声が聞こえてきたら、その音が気になってしょうがなく
なります。
このように、自分では気が付かないうちに感覚が遮断されたり、
逆に鋭敏になったりしているわけです。
気功の知識はあるのに、なかなか感覚が開かない人の場合、
このメカニズムがマイナスに作用しているケースが多々あります。
詳しく説明しますと、気功に関する様々な本を読んで
「気の感覚とはこういうものだ。」
というイメージを頭の中で作り出した人は、気功を行って体に
感覚が生じる度に自動的に、
「この感覚は気の感覚ではない。」
「この感覚はおそらく気の感覚だ。」
という風に頭の中でいちいち検閲しているわけです。
(これは本人が気が付かない内に無意識レベルで行われたり
します。)
そのため実際の感覚が100あっても、頭のフィルター(検閲)を
通った後は限りなく0に近くなってしまいます。
(わたしはこれを「自己検閲機能」と呼んでいます。)
中には自己検閲機能とは違いますが、
(私) 「今、丹田を強化しましたが、どうですか?」
(受講者) 「下腹が温かい感じがするけれど、気のせいかもしれない。」
(私) 「督脈に気を流しましたが、何か感じるでしょうか?」
(受講者) 「背中に圧力感を感じるけど、気のせいかもしれない。」
というように、実際に自分が感じている感覚をいちいち疑って否定しようと
する人もいたりします。
一方、気の感覚がどんどん開く人タイプの人は、
「今、お腹が温かいです。」
「手がビリビリしています。」
「背中がすごく熱い」
というように、感覚をそのまま素直に受け取ります。
こういうタイプの人は「これは本当に気の感覚なのか?」などと
いちいち判断しませんから100の感覚が生じたら、そのまま全て
受け取ることが出来るわけです。
更に自分の感覚を純粋に楽しむことによって、100の感覚が
200にも、300にも倍増したりします。
気功というものは感覚が全てですから、気功書を何百冊も読んで
頭の中に先入観を植えつけてしまった人よりも、気功の知識が
全く無い初心者の方がかえって上達が早いケースをわたしは
見てきました。
この点が、長年気功修行を続けている人自身が気づかない
最大の盲点です。

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