こちらでは、時習館での教育だけでなく、江戸時代の熊本の武士教育全般について触れたいと思います。
遂に歴史の深みにはまってしまった・・・
熊本における武士教育も、他藩同様8~10歳から始まったようです。
就学年齢に達した上級・中級の武士の子は、藩校時習館に入学すると同時に『連(れん)』或いは『党』(郷党)と呼ばれる組織に所属しました。
『連』は17, 8歳を中心とした自治教育組織で、薩摩藩の『郷中』、会津藩の『什(じゅう)』などと類似していると言われることが多いのですが、イメージしづらければ小学校の集団下登校の班を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。規模もそれくらいで、通町連、坪井連、山崎連、京町連、春日連など、現在の町名とほぼ合致するような感じです。町内会の武士の子版みたいな。佐々さんや尾形さんはどこかの連に所属していたはずですよ。
文武の基礎は藩校時習館が教えますが、『連』はより実践的でこまやかな指導を担いました。各連の子どもたち(句読生)には受け持ちの句読師(くとうし)がおり、入学後初めて登校する句読生には句読師が付き添います。句読生は、時習館でも自分の属する『連』の句読師に師事することになるのですね。
〈平日〉
時習館に登校しました。時習館の授業はAM 6:00もしくはAM10:00からの4時間と短いですが、授業後は各師範(なので、句読生は受け持ちの句読師ですね)の家に行ってひたすら修業します。
受け持ちの句読師のわかりやすいイメージとしては、集団登下校の班の班長と学級担任の兼務といったところでしょうか。学年が低いうちは特に、藩校と『連』は殆ど違いがわからないですね。てか、藩校で『連』が教えている感じですね。
習書生までは教科と学級の担任が同じなあたりが現代の小学校と通ずるものがありますね。
〈休日〉
『連』は時習館が休みの日、月一程度で各家持ち回りでの集会を開いていました。
ここでは、時習館の外で行なっていた『連』の諸活動について紹介します。
『連』の活動
①論語、孟子、日本外史などの素読、会読
→滞ると、長老(20歳程度の『連』のリーダー)に教えを乞う
②武術の稽古や郊外への鍛錬的な遠足、実戦訓練
③近況報告
文武修業の進み具合や品行の様子
→秩序を乱す者には程度に応じた罰・制裁を与える
体罰禁止や褒賞などの穏やかな対応を取る時習館とは対照的に、『連』は非常に厳しく、③の罰や制裁には体罰が使われることもありました。連独自の掟もあり、以下の「申合」を破った者には、程度に応じて「訊問」「執柄(しっぺい、掌を竹で打つ)」「大風(集団で攻撃する)」「絶交(社会的排除)」などの制裁を行なったそう。どうしよう、想像以上に物騒だったよ・・・!
申合
一.仮染めにも卑怯の振舞ひあるべからず。
一.金銭を持ち菓子類を店頭より喰ひすべからず。
一.虚言を云はず約束を守ること。
一.仮令ひ姉妹たりと雖も婦女子と物云ふべからず。
一.父母同行にても芝居見物を禁ずること。
会津藩の「什の掟」と重なる部分がありますね。
また、『連』は一軍隊としても想定されていたので、他の連を仮想敵としており、戦っても咎められることがないため、連同士の仲はすっごく悪かったそうです。「お前、ドコ連や?」「今ガンつけただろ」「アイツ肩パンしやがった」と絡んでは、時習館の登下校中だろうが何だろうが関係なく決闘したという。ナァルほど、そうやって肥後の引き倒しの風土は出来上がっていった訳ですね(´▽` )●~*
決闘の裁決は藩ではなく時習館の教師が行いました。全体として「決闘に応じない、或いは一方的に負けること」や「卑怯な手を使って勝利を得ること」を恥とし、逆に「やられたらやり返す、倍返しだ!」「正々堂々戦うのなら、相手に怪我をさせても構わんのだろう?」という、ヤンキードラマの原点はここかよと言いたくなるような暗黙のルールが存在していたそうなので、処分も、重くて「自宅謹慎・面会禁止」という、命に関わる勝負を現代学校の校則で裁くレベル。ヤンキードラマの先生並みに役に立ちません。いっそ「俺ら時習館メン!」で藩校ヤンキードラマを作ってくれたら、恋愛よりハリウッド映画の大爆発シーンが好きな私ははまるかもしれません。
あ、なお刀を使う際は必ず鞘に納めたままの状態で打ち合う方法しか用いてはならず、抜刀すればその場で切腹でした。抜刀すると連や時習館の(教育的)計らいでは済まされない=更生の余地なしと判断されたからです。
このように、肥後では地域の教育組織による自治が徹底しており、藩はあまり口を出しませんでした。肥後の場合、藩があれこれすると連同士が結託して藩主を潰しにかかるので、地域の自主性に任せた方が良かったんですね。時習館に自治組織『連』を組み込んだのは絶妙だったと思います。






『連』をやめるとき
時習館を卒業し、家督相続や結婚、就職すると、自動的に『連』から離れることになります。
『連』はもともと武士の教育のための組織なので、お役御免になるのです。
たいていの人は藩の役職につくので他連出身の人と仕事を共にすることになりますが、学生時代にさんざんボコリあっているので連の関係を引きずることはなかったそう。「これからは“藩”の人間として頑張っていこうぜ!」と肩を組み合い、「あの頃はオレらも青かったよな・・・」と酒を飲み交わすようになるのです。
『連』(郷党)から『政党』へ
天下泰平の世に伴って武士そのものが形骸化すると、時習館や『連』による教育も弱体化していきます。
更に、幕末という激動の時代が近づき、国(藩)の未来に危機感を抱いた少年たちは時習館と『連』以外に自分の選んだ私塾に通うようになりました。佐々さんでいえば、藩の軍学師範であった宮部さんを通じて永鳥さんと出会い、永鳥さんの紹介で林 桜園先生の私塾「原道館」に入門しています。その後に、彼らの紹介で宮部さんが原道館に入門するという、藩教育の師弟や地域の枠を超えて学び合うようになります。やがて、『連』よりも私塾の上下関係の結束の方が固くなり、そちらを『連』『党』と呼ぶようになります。上・中級武士の専売特許であった『連』が、身分に関係なく呼ばれるようになったんですね。
ただ、単なる地区の結びつきであった『連』(郷党)とは違い、私塾での結びつきはより主義主張・思想が強いものでした。ここにきて『連』は、思想的・政治的色を帯びるようになり、『政党』としての意味合いを持ち始めます。この最たるものがこのブログで何度も出てくる
時習館党(佐幕)
実学党(開国)・・・私塾「小楠堂」系。横井 小楠が主宰。弟子は徳富 一敬(蘇峰の父)ら。
勤皇党(尊皇攘夷)・・・私塾「原道館」系。師は林 桜園。宮部 鼎蔵、河上 彦斎らが出身。
の三政党なのです。
こうみると、尊皇攘夷のために新選組に入隊する尾形さんがかつて原道館に通っていて、宮部さんや彦斎と知り合いであったとしても何の不思議もないんですよね。幕末ってこういうふしぎ現象が普通に起こるから面白いですよね。
『連』と神風連
神風連の乱で有名な神風『連』も、これまで説明してきた『連』の派生系ですが、ニュアンス的には自治教育組織とも政党とも異なり、ただの『輩』としての意味合いで使われました。
明治期に入り、中央集権化によって自治組織も三政党も消滅すると、勤皇党の生き残りである彼らだけが熊本に残されました。私塾(政党)としての『連』の形を残す組織はもはや彼らのみで、新時代において旧時代(幕末)と同じ行動を示す彼らは地域の人間から見ても奇異に映ったんですね。一方で、『連』という言葉は意味が拡大していること、彼らに神職の人間が多かったことから、「神道(宗教)を崇め奉るちょっとアブナイ輩」という意味で、『神風連』と呼ばれるようになりました。『神風連』は彼らが名乗ったのではないんですね。彼ら自身は(政党の意味として)『敬神党』を名乗っておりました。
と、いう訳で、我ながらずいぶん遠い(深い)ところまで来てしまったと感じています。
でもまぁ、記事にのっけとけば誰かが藩校青春ドラマを制作する際の参考にでもなるかもしれないし、私自身、各藩の藩校や教育制度にはとても興味があるので、藩校についてのサイトが増えれば面白いな~と思っています。
