個人的研究 『ワトスン役』 と 「本格」 について | Pの食卓

個人的研究 『ワトスン役』 と 「本格」 について

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 『研究会』と名を冠しているため、ミステリについて研究しなくてはと思い、
今日は名探偵の永遠の助手『ワトスン役』について考えてみたい

(*会長個人の考えであり、ネトミスの総意ではありません。)


 『ワトスン役』と「本格」推理小説は切っても切れない仲にあるため、
『ワトスン役』を通して、その役割と「本格」の構造について考える。


 本格推理小説において典型と呼べる人物型は三つある。
『名探偵』、『犯人』そして『探偵の助手』の三役だ。
そのうちの『探偵の助手』役を総じて『ワトスン役』と呼ぶことがある。


 『ワトスン役』の小説内での役割は、事件を解決に導く『名探偵』に必要な情報を与えたり、
容疑者の行動を監視したり、『名探偵』不在の間ホスト役をしたり、
ときには敵を騙すためには身内からという理由で偽の事件を追わされたりするものだ。


 華麗な推理で読者の人気を集める『名探偵』に比べて、
労働の割には損な役回りが多く不遇な役、それが小説内での『ワトスン役』だ。


 霧舎巧さんが小説内で『ワトスン役』である二本松カケルに語らせていたと思うが、
『ワトスン役』の大事な役目として、「天才である『名探偵』に凡人の推理を提供する」という役割がある。
『ワトスン役』の推理を参考に『名探偵』と読者はその可能性を否定する。
なぜなら、凡人は間違い『名探偵』は間違わないからだ。
『名探偵』に凡人の間違いを発見させ、名探偵の推理の手間を省くことも重要な役目といえる。


 上記のように天才的な『名探偵』に対して凡人的であるのも『ワトスン役』の特徴だ。
異色な主役級人物たちが溢れる本格推理小説内で凡人的であるということは、
それだけでも特殊なことだ。特殊な状況下での常識は特殊ということだ。


 例えるならば、「朝礼のとき「右向け右!」と号令をかけられた際、
全員左を向いた中、自分ひとりが右を向いた」という状況が適切だ。
「右を向け」と言われて左を向くのは異常だが、全体的に見て、
全員が左を向く中一人だけ右を向くのは異常に見えるということだ。


 本格推理小説内で「右向け!」と言われて常に右を向くのは『ワトスン役』だけだ。
もちろん登場人物の何人かも右を向くだろうが、常に右を向くのは『ワトスン役』だ。
『ワトスン役』は嘘と欺瞞的態度の横溢する小説内において、
ある程度決まった行動を取ることが宿命付けられている。

常識的行動を常にとるゆえに『ワトスン役』には人間が描けていない場合が多い。


 『ワトスン役』は『名探偵』に解決に必要な事実を提供する義務があるからだ。
『ワトスン役』が嘘を提供してしまった場合、『名探偵』の活躍に支障をきたす。
よって個人的な解釈を排し、情報を流し続ける放送者でいる必要があるのだ。
これが『ワトスン役』が無個性でなくてはならない理由だ。


 しかし絶対というものが無いということは世の常で、例外も存在する。
たとえば、クリスティの『ゴルフ場殺人事件』において、
ヘイスティングズ大尉はポワロに嘘をつき、大目玉をくらっている。
実に人間的な失敗であり、ケンカであり、精神活動でほほえましい。
『名探偵』の仕事の邪魔をしたことで個性的な『ワトスン役』になれたのだ。


 では個性的・無個性どちらが「本格」において望ましい『ワトスン役』だろうか。
「本格」の定義をどのように解決するかはまたの機会に預けておき、
今回はホームズ時代-本格黄金時代のものとしておきます。
具体的に言えば『謎解き』『トリック』『論理的名探偵による解決』でしょうか。
犯人当て要素があれば『フェアプレイ』も入るかもしれません。


 そのような「本格」において望ましい『ワトスン役』は無個性こそふさわしい。
僕たち読者は「本格」ものを読む場合、少なからず作者の仕掛けた罠を避け、
探偵よろしく推理をしてみたいという欲求があると思う。
よって『ワトスン役』にはなるべく多くの事実に基づく情報を提供してもらいたい


 ストーリーテラーである『ワトスン役』に嘘を言われてしまっては、
上記「本格」の要素の一つ『フェアプレイ』に反するばかりでなく、
「納得がいかない」という不信感が芽生え作品自体楽しむことができなくなってしまう。
そういった理由で「本格」では無個性の『ワトスン役』の創造が望まれる。


 しかし、時代は「本格」から「新本格」へと流れていった。
江戸川乱歩が謎にこだわらず人間を描けと言ったように、
現代の読者たちは、登場人物をプロット進行上の装置としてではなく、
一人の人間として描くことを望んでいる


 事実、現代の「新本格」の作家さんたちはとても魅力的な人物を生み出し続けている。
中には『名探偵』顔負けの名推理(結局は間違うが)を披露したり、
「忘れていた」という理由で必要な情報を『名探偵』に伝え忘れたりする、
より人間的な『ワトスン』も増え続けている。


 「本格」「新本格」様々な『ワトスン役』が創造される中、
本格推理小説であるためには逃れられない構造的問題がある。
それは文学作品とは異なる「唯一性」だ。


 推理小説において、多義的な解釈が可能なものは望ましくは無い
事件の終わりをぼやかし余韻を残すことは技法上好ましい。
上記の多義的な解釈を許すものではないため認めることができる。


 多義的な解釈が可能とは、読み手一人一人違う犯人を創出してしまうもののことを言う。
推理小説の構造として、事件-推理-犯人の特定-解決、という流れが予期される。
とくに殺人など犯罪物においては『犯人の特定』無くして『解決』は無い
読者の関心としても「犯人当て」というジャンルが成り立つほど、その関心度は高い。


 「本格」は他の解釈を許さないたった一つの結末を論理的に導き出す必要がある


 そういった解決を導くため、忘れんぼう『ワトスン』も、うそつき『ワトスン』も、
必要最低限の事実だけは『名探偵』と読者に提供する必要がある

だらだらと『ワトスン役』について考えてみたが、結局そういうことなのかもしれない。


以下結論:


 「本格」における『ワトスン役』の役割は解決に必要な情報を『名探偵』と読者に提供すること

 フェアプレイを実現させるためには常識的な『ワトスン役』の登場が「本格」には必要とされる


 間違いをおかす人間的魅力溢れる『ワトスン役』も、
読者と『名探偵』に忠実でミスを決して犯さない機械仕掛けの『ワトスン役』も、
「本格」推理小説をより魅力的なものとする上で、

『ワトスン役』には最低限の情報を流せるようがんばってもらいたい。


読んでくだすった皆さんのご意見お聞きしたく思います!

ぜひ 「こうじゃないか」 「いやいや違う違う、こうだ」 というご意見よろしくお願いします。