「政治の師」の墓参

内閣官房長官・菅義偉(すが よしひで)64歳。第二次安倍晋三政権の命運を握るポジションを占める男である。昨年12月26日で内閣官房長官に就任直後は海外からは「スガ?フー」の反応が少なくなかった。第一次安倍内閣で総務相で入閣しているが、菅の名前は、一般国民になじみは薄い。「永田町には、私と同じ漢字の姓を持つ有名な政治家がいるが、あちらは菅(かん)。知られていない方の私は菅(すが)と読みます。菅(すが)というだけで知られる政治家になるように励みます」。民主党の菅直人元首相が話題になることが多かった時期、菅はパーティーの席で、こんな自己紹介で笑いを誘っていた。 

初当選1996年。衆議院議員当選6回、在職16年余。政権のキーマンにのぼりつめた菅義偉が14日、「政治の師」と慕う故梶山静六元官房長官の墓参のため、みぞれ降る茨城県常陸太田市に出向いた。墓参の模様を、各紙が15日政治面で写真付き報じた。しかも数紙は墓前で菅氏が手を合わせる姿を撮った写真付きであった。現職首相の墓参を報じる例は多いが、官房長官としては異例の扱い。菅の安倍政権における政治的ポジションを示しているといっていい。

「止まり木」

秋田県雄勝郡雄勝町(現湯沢市)出身、地元の高校卒業後に集団就職で状況し、働きながら法政大学に学び、その後、自民党の小此木彦三郎衆議院議員の秘書をつとめる。87年に横浜市会議員選挙(西区)から初当選、96年に自民党公認で衆議院へ転身する。自民党内では当初、竹下―橋本―小渕の系譜の平成研究会入り、同派で梶山静六の数少ない系列議員となり、梶山が平成研を脱会した際にも、後を追った。その後は宏池会加藤派→同古賀派、さらに無派閥、親安倍へと変転を重ねた。どこに身を置くことが、政界で住み心地がよいのかを探り当てる彷徨だったのか、党人派の「成りあがり政治家」にありがちな行動様式である、インターネットのホームページの表紙にキャッチフレーズ「私はブレない、未来に責任」と大きく書いているが、第一次安倍政権誕生前までの政治家・菅義偉の政治行動はずいぶんと振幅があった。菅のブレが止まるのは第一次安倍内閣で総務相で入閣したのちのことである。安倍晋三という「止まり木」をようやく見つけたということなのだろう。

メディアににらみ

安倍首相は、第一次内閣で当初、菅を官房長官に起用する積りでいたが、反対にあって、断念。二度目の政権の今回、自分の意思どおりに菅を官房長官にすえた。安倍の菅への入れ込みかたは尋常ではない。菅は、ポスト小泉の自民党総裁選でいち早く安倍担ぎ出しに動き、若手をまとめあげた。

総務相時代に菅は、安倍の天敵ともいえるメディアにたいして正面作戦を展開し、屈服させている。関西テレビのねつ造番組問題では執拗にテレビ局側をおいつめ、全民放テレビ局を震え上がらせた。返す刀で受信料などNHK改革問題では、最終的に意にそわない経営委員長、会長を事実上、更迭し、安倍路線に従順な経済人を押し込んだ。安倍とNHKとは、Eテレの歴史問題の番組をめぐって鋭い対立関係にあったが、関係正常化がなった、とされる。荒技が不得意な安倍にかわって、その意を体して働く菅―という両者の関係である。

安倍首相が、菅を内閣官房長官任命するのとあわせて国家安全保障強化担当を委ねた。安倍首相が第一次内閣から意欲的な国家安全保障会議(NSC)構想を具体化する仕事を菅に任せた。菅は安倍首相の命運を左右する立場にある。

マキャベリ・スガ?!

菅は、2012年3月、著書『政治家の覚悟』をだしている。同書のあとがきで菅は、マキャベリの『政略論』から「弱体な国家は常に優柔不断である。そして決断に手間取ることは、これまた常に有害である」の一節を引いて「決める政治」、果断政治を強調するのである。菅自身は「マキャベリの言葉を胸に歩んでいく覚悟です」と結んでいる。マキャベリの国家論は、常備国防軍の創設の重要性を強調する、ことで知られる。

菅氏は昨年11月の解散後、自民党の総選挙政策について政策朝日新聞インタビューにこたえて「(自民党公約に国防軍保持を規定する憲法改正を目指すと方針を盛り込んだ点について)国防軍の話だが、自分の国を自分で守るのは当然のことですから、国民を守るというのは、そういう意味で『国防軍』と言った方がわかりやすい。そういう意味合いをもって、今後、憲法改正のなかに国防軍とした」。マキャベリ譲りのことばが菅の口からでる。

マキャベリ・スガ?! それはいくらなんでも買被(かぶ)りだろう。