獅子吼 | Imagine - Empty Boat

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有漏路より 無漏路にいたる ひとやすみ 雨降らば 降れ 風吹かば 吹け - 一休



わが最愛の人たち
私はあなたがたを愛している。

愛が私のメッセージだ。
あなたもそれをメッセージにするがいい。
愛は私の彩り、私の風土....、
私にとって、愛こそ唯一の宗教だ。
他のすべては、ゴミにすぎない。
他のすべては、心をかき回す夢にすぎない。
愛こそこの世で、ただひとつの本物であり、他のすべては幻想だ。
愛をあなたの中にはぐくみなさい。
そうすれば、神はおのずとはぐくまれる。
もし愛を失えば、あなたは神とすべてを失う。

愛がなければ、神のところへ行くすべはない。
神のことは忘れてもいい。
愛さえ覚えていれば、おのずと神は起こる。
それは、結果として起こる。
それは愛から出る香りにほかならない。
実のところ、神は存在しない。
存在するのは<神性>だけだ。
神というような人物はどこにもいない。
そういう子供じみた態度は捨てなさい。
「父」を探すのはやめなさい。

<神聖なるもの>はあるが、神はいない。
<神聖なるもの>と私が言うとき、
それは何であれ、存在するものはすべて神に満ちているという意味だ。
木々の緑、そして赤い色も金色も、
すべてが神性だ。
この烏の鳴き声、風に舞う小鳥、くすくす笑う子供、吠える犬....、
すべてが神性だ。
他には何も存在しない。

「神はどこにいる?」とたずれるなら、
まちがった質問をしてることになる。
というのも、神はどこといって指さされるものではないからだ。

神は特定の方向にいない。
それは特定のものではない。
それは特定の存在者ではない。
神は普遍性、宇宙性だ。
「神がいないところが在るだろうか?」とたずねなさい。
そうすれば、あなたの質問は的を得ている。
そういう質問をするときには、
ハートという土壌を用意しなければならない。
これが、私の言う愛だ。
ハートという土壌を用意することこそが....。

もしあなたが愛に満ちていれば、世界は愛に満ちている。
愛と神は並んでいく。
それらはひとつの交響曲の一部だ。
神は宇宙のこだまだ。
あなたが愛しているとき、そのこだまが響いてくる。
愛していないのに、どうしてこだまが響いてくるだろう。
様々な形で何度もこだまとして返ってくるのは、
他ならぬあなただ。
何度も何度も自分の元へ投げ返されて来るものは、あなた自身だ。
あなたが愛の中にいれば、神はいる。
愛の中にいなければ、神について何をいえばいい?!
あなたさえいないのに....。

私は今日、あなた方に何をあげようかと考えていた。
というのも、今日は私の誕生日だからだ。
私はこの日にこの肉体を持った。
これは、私がはじめて木々の緑や大空の青さを見た日だ。
これは、私がはじめて目を開けて、まわり中に神を見た日だ。
もちろん、その時点では「神」という言葉は存在しなかった。
だが、私が見たのは、神に他ならなかった。

私は今日、あなた方になにをあげようかと考えていた。
そのとき、私は仏陀の言葉をを思い出した。
「真理という贈り物は、他の全てに勝る。」
そして、私の真理は愛だ。

<真理>という言葉は、私にとってはあまりにも無味乾燥のようにみえる。
私は<真理>ということばとあまりそりがあわない。
それはあまりにも論理的で、あまりにも頭脳的にみえる。
それは宗教的ではなく哲学的な感じをあたえる。
それはあたかも自分が結論を出してしまったかのような考えをいだかせる。
自分は一定の結論に達した。
その背後には精巧な理論...議論...論拠があったという考えをいだかせる。

ちがう!
<真理>は私の言葉ではない。
<愛>こそ私の言葉だ。
愛はハートのもの....。
真理は部分的で、ただ頭だけしかかかわっていない。
愛においては、あなた全体としてそのなかにかかわる。
あなたの身体、あなたの心、あなたの魂....、
すべてがかかわっている。

愛はあなたをひとつの統一体にする。
そして覚えておきなさい。
それは<結合>ではなく<統一>だ。
<結合>の場合は、
結びあっている当の者達がまだ離れたままだからだ。
<統一>にあっては、
彼らはとけあって、ひとつになる。
彼らは互いに互いの中へとけ込む。
愛が人に<統一>を与える瞬間を、私は真理の瞬間と呼ぶ。
まず、愛は内奥の核において統一させる。
そうなったらもはや身体ではない。
もはや心ではない。
もはや魂ではない。
あなたはただ<ひとつ>だ。
名前もなく、定義づけもなく、階級差別もない。
もはや限定されない、固定されない、包括されない。
ひとつの神秘、歓喜、驚き、歓声、そして大いなるよろこびだ。

まず第一に、愛はあなたに統一を与える。
そして内なる統一が起こると、
次に第二のことがおのずと起こる。
あなたはそのために何もしようと思わないのに....、
あなたは自分を超えた<全体>と統一の状態に入りはじめる。
そうなったら、一滴の水が大海になかに消え、
大海が、一滴の水の中に消えていく。
その瞬間....あなたと<全体>とのあいだの絶頂感の瞬間、
それこそ、あなたが仏陀になる時点だ。
その瞬間こそ、仏性があなたに与えられる瞬間だ。
もっと正しい言い方をすれば、与えられるのではなく、
仏性が露わになるのだ。
あなたは初めからそれだった。
ただ気づいていなかっただけだ。

私の合い言葉は愛だ。
だから私は言う。
「わが最愛の人たち....、
 私はあなた方を愛している。
 私はあなたがたに全世界を愛で満たして欲しい。」
それを私たちの宗教にしよう。
キリスト教ではなく、ヒンドゥー教ではなく、
イスラム教ではなく、ジャイナ教ではなく、
仏教ではなく.....愛だ。
どんな形容詞もつかない純粋な愛だ。
キリスト教的な愛ではない。
いったいどうして愛がキリスト教的になれる?
それはあまりにも馬鹿げている。
いったいどうして愛がヒンディー教的になれる?
それはおかしい。
愛はただ愛が。
愛においては、あなたはキリストにも仏陀にもなれる。
だが、仏教的な愛とかキリスト教的な愛というものはない。

愛においては、あなたは消える。
あなたのマインドは消える。
愛の中では、完全にくつろぎ、やすらぎの境地に至る。
それが私の教えだ。
私は愛を教える。
愛以上に高いものは何もない。

私は今日あなたたちに何かすばらしいものをあげようと思っていた。
そして、白隠の「座禅和讃」を思い出した。
それは実に短い歌だが、偉大な贈り物だ。

白隠は最も偉大な禅師のひとりだ。
白隠の和讃はすべてを含んでいる。
聖書、コーラン、ヴェーダのすべてを....。
わずか数行の短い歌だ。
だが、ひとつぶの種に似ている。
じつに短いが、ハートの中へこの歌を通すなら、
それは大きな樹になる。
それは一本の菩提樹になりうる。
それは大きく生い茂り、広い木陰ができて、
何千人という人がその下で座り、休むことができるだろう。
それは大きな枝をなし、たくさんの鳥が飛んできて、
その上に巣を作るだろう。

見なさい!
私は一本の樹になっている。
あなた方は私の木の上に巣を作りに来ている。
あなた方もこのようになれる。
あらゆる人がこのようになるべきだ。
そうでなければ、人は達成しそこないつづける。
多くの葉や花や果実をつけた大きな樹にならないかぎり、
それが達成という意味だが、
あなたは不満のままにとどまるだろう。
苦悩で心をいため、不幸があなたにまとわりつくだろう。
至福はただの言葉になり、何も重要な意味をもたなくなるだろう。
「神」はただのジベリッシュになるだろう。

あなたが達成し、満足したとき、
そこに恩寵があり、神がいる。
その達成の中で、あなたは存在の祝福に気づくようになる。
これが「座禅和讃」=瞑想の歌だ。
白隠はそれを歌と呼んだ。
そう、それは歌だ。
もし瞑想に歌がなければ、それは鈍く、死んだも同然だ。
それは脈動しない。
それは息をしない。

それは歌、ダンスだ。
それをうたい、それを踊りなさい。
それについて考えこまないことだ。
考えこんだら、あなたはそのメッセージを見のがすだろう。
あなたはその中身を見のがすだろう。
この歌とその意味がわかるのは、
歌い踊っているときだけだ。
生命の音楽があなたを支配し、
あなたをつかんだときだけだ。

白隠の歌(和讃)は非常に短い。
それでいて信じられないほど広大だ。
どうやってこれほどの真実と愛の洞察を、
このわずかな言葉の中に凝縮できるのか?
だが、白隠は寡黙の人、沈黙の人だった。
何年かのあいだはまったく話さず、
そのあと話したとしても、一言か二言だった。

むかし、日本のある身分の高い人が白隠を招待して、
御殿のなかで説法をするようにと命じた。
大名、奥方、大老、家老、高級官吏、大将....、
そういう人々がみな説法を聴くために敬意をもって集まってきた。
白隠が現れた。
だが、白隠はしばしのあいだそこに立って、
あたりを見回したかと思うと、すぐその会堂を去った。
彼はびっくりした。
彼はかたわらの大老にたずねた。
「この男はいったいどうしたのか?
 私は説法を聴きにきたというのに。」
大老は答えた。
「これは私がかつて聴いた中で最大の説法でございます。
 白隠和尚はもうすでに説法されました。 
 あなたは和尚に沈黙について教えに来るように仰せになりました。
 和尚はまさにそれを説いたのです!
 彼はそこに沈黙したまま立っていました。
 彼は沈黙そのものでした。 
 これ以上一体何をたずねられましょう?
 これ以上一体何を要求されましょう?
 彼は静かに黙って、しばしのあいだそこに立っていました。
 彼は沈黙そのもの、静寂そのものでした。
 けれども、その沈黙はいきいきと脈打っていました。
 それなのに、あなたは言葉を聴こうとなさっていたのですね。」

沈黙については、何も言うことはできない。
沈黙について語られることはすべて間違っている。
沈黙についていったいどうやって言葉を発せられよう?
何かを言うことは、沈黙を間違って伝えることになる。
それ故に、老子は言う。
「道のいうべきは、常の道にあらず」
何かが言われたら、
まさにそれを言うこと自体が、それを偽りにする。
道(タオ)は沈黙している。
だが、その沈黙は墓場の沈黙ではない。
それは庭園の沈黙だ。
そこは木々がいきいきと呼吸しているのに、まったく静かだ。
それは死んだ沈黙ではなく、生きた沈黙だ。
それゆえに、白陰はそれを瞑想の歌(座禅和讃)と呼んだ。

仏陀(釈迦)は言う
現実に対する私の取り組み方は、信じることではなく見ることだ、と
彼の宗教は、「エヒ・パッシカ」とみなされてきた。
「来て、見よ」だ。
「来て、信ぜよ」ではない。
釈迦は「エヒ・パッシカ」すなわち「来て、見よ」と言う。
それはここに、現にある。
あなたはただ来て、見さえすればよい。
釈迦は信じることは求めない。
彼は信仰を落とした唯一の偉大な教師だ。
彼は、信仰を落とすことによって、
宗教をこどものように低い成長の段階から成熟した段階のものへと変えた。
釈迦の出現によって、宗教は青年のようになった。
それ以前は、宗教はこどもじみていた。
それは一種の信仰、信念だった。
信仰は迷信であり、それは恐れから出てくる。
そして信仰は盲目だ。
釈迦は宗教に眼を与えた。
彼は 「見よ。信ずる必要はまったくない」と言う。
見てしまえば、それは(信)ではなく、(知)になる。

白隠のこの和讃のなかで、
人は見るすべを、目を開くすべを知るだろう。
何故なら、真理は常に存在するからだ。
真理は初めからずっと存在し続けてきた。
真理はつくり出さなければならないものではない。
仏陀は「如実」という。
それは在る!
それは既に存在する。
それはあなたの眼前にある!
それは東にあり、西にあり、北にあり、南にある。
それは、あなたを取り囲んでいる。
それは外側にもあり、内側にもある。
だが、まずはそれを見なければならない。
「エヒ・パッシカ」.....
あなたの目は閉ざされている。
あなたは目の開け方を忘れてしまっている。
瞑想とは目の開け方に他ならない。
目を掃除する技法、意識という鏡の上に積もった埃を落とす技法だ。

埃が積もるのは当然だ。
人間は何千生ものあいだ旅に旅を重ねてきたのだから、埃も積もる。
人はみな旅人だ、埃がたくさん積もっている。
あまりにも多くの埃が積もっているので鏡は完全に消えてしまった。
埃の上にまた埃、幾層にも積もった埃だけがあって、鏡をみることができない。
それにもかかわらず、鏡が存在することには変わりはない。
鏡はなくなるはずがない。
それは人が生まれながらに持っている本性だからだ。
もしそれがなくなるようなら、それは人の本性ではない。
あなたが鏡を持っているのではなく、あなたが鏡そのものなのだ。
この旅人が鏡だ。
旅人はそれなくすことはできない。
それを忘れることならできる。
せいぜい、忘れることだけだ。

あなたは自分の仏性を失ってはいない。
仏性とは埃をぬぐった鏡のことだ。
鏡は再び新鮮な輝きを取り戻し、
物を映し出し、はたらきだす。
それが仏性の何たるかだ。
仏性とは「目覚めた意識」という意味だ。
もはや眠ってはいない。
もはや夢見てはいない。

そして様々な欲望は消え去っている。
埃が積もる....それは自然だ。
だが、あなたはその埃にしがみつく。
あなたの欲望は接着剤のような役割をする。

欲望とは何か?
それが理解されなくてはならない。
欲望を理解したら、あなたはすべてを理解している。
欲望を理解すれば、欲望は止まるからだ。
欲望が止まれば、突如として自分がまったく新しい存在になったのを感じる。
あなたはもはや古い存在ではない。

欲望とは何か?
あなたは何を探しているのか?
あなたは何を求めているのか?
幸福、至福、よろこび....、
それがあなたの求めてるものだろう。
千年にもわたって求め続けてきたが、
あなたはまだそれを見いだしていない。
いまこそ考えなおし、瞑想しなおす時だ。
あなたは一生懸命に求めてきた。
あなたは一生懸命に努力してきている。
努力しているからこそ、
あなたは見のがしているのではないだろうか?
その努力こそが、
あなたを幸福から遠ざけているではないだろうか?
それを考えてみよう。
よく考えてみよう。
探求をちょっと休んで、考えをまとめてみよう。

あなたは何生にもわたって探し求めてきている。
あなたは他の生はおぼえていない。
そんな必要はまったくない。
だが、この生で探求してることはたしかだ。
それで充分だ。
そして、あなたは見いださなかった。
だれひとりとして、探求によってそれを見いだしたものはいない。
探求そのものがどこか間違っている。
探求においては、当然、あなたは自分自身を忘れてしまう。
あなたはあらゆる所を、他のあらゆる所を探しはじめる。
北、東、西、南、空の上、海の下などを見わたし、
あらゆる所を探しはじめる。
だが、その探求はますます絶望的になってゆく。
探しても探しても見つからず、どうしようもない不安が湧き上がってくるからだ。
「今夜はうまくゆくだろうか?それとも、またしても見のがすのか?」

絶望がつのり、不幸が増し、狂気が深まる。
あなたは気が狂わんばかりだ。
幸せは、はるかかなたに遠ざかったまま...、
それどころか、幸せは後ずさりさえする。
追えば追うほど、それを手に入れる可能性は少なくなってゆく。
それは、実はあなたの内側にあるからだ。

幸福とは、目覚めている意識のはたらきをいう。
不幸とは。眠りこんでいる意識の状態をいう。
無意識は、たくさんの重荷、過去、埃におおわれている鏡だ。
その重荷が落ちて、鏡が再び見つかったとき、それが幸福だ。
そのとき鏡はもういちど、木々、太陽、砂、星を映し出すことができる。
再び天真爛漫になり、再び子供の目を取り戻したとき、
その澄みきった境地の中で、あなたは幸せになる。

OSHO This very body the buddha

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