2015年7月に1ヶ月インドに行った日に書いてた文章みたいです。
中途半端で終わってますけど、せっかくなので陽の目を見させてみました。

ほんとよく書きますよねわたし。笑

内容は同じことの繰り返しという可能性はありますけども。。


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昨日は大変でした。

バンコクでのトランジットまでは調子が良かったのだけど、 バンコクからバンガロールに行く飛行機が滑走路を走って離陸態勢に入る頃に急激に猛烈に具合が悪くなって、お腹がめちゃくちゃ痛くなりました。


最初はわたしってこれ、トイレに行きたいのかな?と思って滑走前にまだ使用可だった時にトイレに行ってみたりして様子見て我慢してたんですけどそのうち我慢できなくなってきて飛行機が走って離陸直前に痛みがピークに。

うんうん唸って痛みからの汗で全身びっしょりみたいな状態になって、周りの乗客も何事かと覗いてくるくらい苦しんでいました。
こ、、、これは今から3時間のフライトは無理、、、飛行機戻してバンコクの病院に搬送なのかなと思って、担架に乗せられて運ばれる自分のイメージがよぎりました。

離陸寸前だったので席からもう立てないし、とりあえず両隣のだんなさんと子供にババに祈ってもらってわたし自身も祈り倒しました。

そうすると不思議と少し痛みが和らいで楽になる気もして、わたし自身もいくつかマントラやら試してみて、結果サイラムが一番効いたのでそれとババにヘルプ出して、日本語だけじゃ足りないかと(そんなことはないんでしょうけど)英語でも働きかけてみたりして、まったくどうなることかと思いました。

ホ・オポノポノ的クリーニングツールはこういう時はやっぱちょっと弱い。

ああ、、、バンガロールに着くまで気絶していたい。。。という感じだったんですが、
そういう極限状態ってやっぱいろんなことが浮かんでくるんですよね。

あまりのお腹の痛さにすっかり忘れてた出産時の苦しみを思い出して、その時もこんなに痛いのに気絶できない自分に「なんで気絶しないんだ」と腹が立って風呂の壁に頭を打ち付けてたのを思い出しました。(マンションの浴槽内で出産したので)

あと別件で、7ヶ月の乳飲み子を連れて決死の覚悟で単身インドに行った時の大変さも思い出しました。
授乳中って、毎日献血し続けてるみたいなもんだから、(母乳って、外に出る直前まで実際に血液で、胸を通ったとたんに赤が白に変わって出てくるそうです)そりゃフラフラで、とくにわたしはおそらく必要以上に母乳の出が良かったものだから出産後自分への栄養摂取が間に合わなくて激やせ状態で。

そんな自分の状態にもかかわらず、世話が必要な(しかもアトビーや喘息持ちの)丸々した子供を抱えて、ベビーカーと最大規模に巨大なスーツケースとパンパンのボストンバッグなど数個、紙おむつやおしりふきなどのケア用品なども段ボールに2箱を運んで、初めての一人での個人手配海外旅行で、目的地にたどり着く自信もなかったけど、とにかくやむにやまれぬ切羽詰まった決死の覚悟で目の前の一歩ずつを進む感じで旅立ったのでした。

当時は、なんかそれ以上子供と日本にいるのが私には精神的に限界を超えててもう無理でした。精神的に追い詰められてたんですよね。

あの時はガンダーラとか天竺というんじゃないけど目的地のインドのプッタパルティがものすごく遥か彼方の地に感じられて、たどり着けた時には子供と二人で生きてたどり着けたことが自分でもしばらく信じられず。

そんな大量の荷物だと自力で動けないのは明らかだから、途中でその都度居合わせた人たちに見るに見かねて助けてもらいながら行ったんですけど、そういう自力でいけないことが最初からわかってるのに思いだけで行っちゃったという。

ちなみに2ヶ月半のインドアシュラム滞在中子供は常に病気で、アトビー、高熱、全身の蕁麻疹、喘息発作で現地で入院、さらに怪我しておでこから大流血して4針縫うとかまであって、

普通考えたらそういう状況で子供をインドに置くって日本の感覚からしたら鬼母かってとこですけど、生まれてすぐに見てもらったインド占星術で、この子は最初の数年はそういう病気や怪我で命を落とす危険があるとか言われてて、日本でもすでに世話するわたしの方も地獄の苦しみでしかも頼れる人もなく、非常に孤独で閉塞感があって、もう私の神経が持たないとこまで来てて、

どうせどっちみちこの子がそんなに怪我や病気になることになってるんだったらケア係の自分が安心して信頼できる場所、そこで何が起ころうとも信頼と希望が持てる場所にせめて自分の身を置きたいと思って、死ぬ気で連れて行ったのでした。
そこでもし子供が死んでしまったとしても(もちろん死なない前提で行ったんですけれども)そういう場でなら何が起ころうと、自分は宇宙の理を感じることができると思って。

実際には病気の乳飲み子を抱えてのインド滞在は想像を絶する過酷さで、具合が悪くて泣き続ける子供といっしょにいて、「これが地獄っていうんだな」と改めて思いました。どこにも出口が見えない感じで。子供の世話の責任を分かち合える大人がそばにいなかったのはほんとうにつらかったです。

しかし日本(横浜)だと私がもともと子供好きではないということも相まってか、どこに行っても子供連れは社会の邪魔者である感と、存在自体がすみませんという感じとでわたしにとって社会の中で子供といることがハンディキャップやあまりにもつらい制限にしか思えなかったのが、インドだとインド人は子供が大好きなので、みんなが笑顔で寄ってきて子供の存在をあかの他人が無条件に喜んで楽しんでました。そしてその様子をそばにいる私も常に体感することができて、わたしはインドではじめて子供が世界にとって喜びを与えてくれるポジティブな存在だと社会の中にいながら実感できました。

それくらい日本にいると子供といることが辛くてネガティブなこととしか感じられなくなっていました。

インドだと子供がいるとみんな優しくしてくれて、日本と逆でした。

プッタパルティでは道を歩いてると誰かしら知り合いと会って立ち話したりもできるしサイババにも毎日会えるし色んなことが自分を支えてくれました。
色んな国から来てる、同じくらいの月齢の赤ちゃん連れの家族ともすぐに仲良くなって、お互い外国で似たような特殊な状況にいる分、言葉に不自由さがあっても言葉以前のところで深くわかりあえるし、本当に親身にしてもらって私も自然に心を開くことができました。

日本でも私は子供って生まれたらみんなが喜んで、寄ってたかって可愛がってくれて、社会全体が母子を支えつつみんなで育てていくようになってるものだと思ってたんですが、産んでみたらそうじゃなくって。
私は嫁ぎ先の横浜で身近に知り合いもなくて孤独で。
横浜のお母さんたちの互助グループみたいなのもあったんですけど馴染める気がまったくしなかったので参加する気も起きず、その時のだんなさんは状況的に育児に割く時間をほとんど持ってなくて、兵庫から手伝いに来てくれた母は子供のアトピーに動転して、自分の子供はこんなんじゃなかったとか、顔を掻き破っていつも泣いてる子供の横で「こんなの楽しくない!」とかキレて怒ってて、一応わたしの両親にとっては初孫だったんですけど、自分の思い描いていたステキな孫の感じと違ったらしく、そんなん言われてわたしどうすりゃいいのって感じで、私も少し傷ついたような気分になったり。

育児におけるわたしの極度の孤独は全て私自身のある種の他人との社会的な共通認識の中において相容れない性格というか性質がもたらしたものとも言えるんですけど、

自分自身としては子供の魂のあり方、自分と子供という母子関係の間に分離的な雑音や干渉を少なくとも子供が小さい間は極力入れたくないという思いがありました。そういう私の思いや価値観自体が子供への不必要な干渉だったかどうかはさておき。

今回インドに行くのも、今までになく大変で、今のだんなさんともインド行きのことも他の様々なことも認識の相違で何度もぶつかって絶望して、この一ヶ月心身ともに参ってて寝込んで1ヶ月で5キロ痩せて、出発2日前には結構多めの不正出血があって体がしんどくて動けなくて、そんな状態でなんとか長野の家を出てきたので今回もいつもよりインドが遠くに感じました。

調子に乗ってる時は兵庫から大阪に出るくらいの気軽さで行けてたんですけど。

それだけいつの間にか自分自身の中心からズレていたということなのかなとも思います。

もしくは今回いろんな人と関わっていく中で強烈に中心に戻す作用が働いたのでそれに伴っていろんなことが出てきたとか。

そういう風に、インドに行こうにも自分自身が重くなっていて、努力しても行くのが大変という10数年前の初めての子連れインド旅行の非常にきつかった記憶がバンコクからの飛行機の中での容体急変の中でリンクして出てきました。

あの時インドでは私しか子供の世話をする大人がいなかったので、自分の体調維持にも必死で、でもずっと体もきつくて、もちろん精神的にもきつくて、誰かに身近で寄り添って助けて欲しいと思ってても助けが得られず、でも私は基本的に頑丈なので極限状態でもなんとかなってしまってて、
ずっと子供の世話をしてたらもう疲れ果てて、私のことも世話して欲しい、私のことも誰か気にして欲しいという思いが出てきました。わたしも病気になって誰かにかまってほしくって、大きなパパイヤを体調をおかしくするために1日で2~3個一人で食べたらようやくわたしも下痢になってホッとしました。

その時は自分も病人になりたかった。

で、自分の体調も悪くなって気持ちが安らいで、しかしながら誰にも頼れない状況は変わらなかったので(当時のだんなさんに大変だからインドに来て欲しいと電話で泣きを入れたけど無理と言われました)

結局それから下痢続きで力が入らなくなって、自分がよけいきつくなって帰国するのも大変になっただけだったんですけど。
体が病気になると心は軽くなるんですよね。

それでもインドにいる時に自分の生きる力になることがいっぱい起きたので、その空気を少しでも日本に持って帰りたいと思っていろいろ買い込んで帰ったらスーツケースだけで50キロでした。赤ん坊と2人といえども空港で重量オーバーと言われましたが途方に暮れてたら「心配しないでおかあさん」と空港職員に言われてそのまま荷物丸ごと乗せてもらっただけでなくて乗るまでにいろいろケアもしてもらえました。

しかしデリーでの乗り継ぎで個人手配の旅行に慣れてなくて、10時間の空港での乗り継ぎ時間中の防寒が甘くて私も子供も凍えて具合が悪くなりました。子供は日本に着いてすぐ救急車で病院に連れて行ったら喘息発作だけでなく肺炎にもなってると言われてそのまま10日間入院しました。

そこでようやく動けない私のケアのために当時のだんなさんが差し入れとか必要なものを仕事の合間に病院に持ってきてくれて、心が和みました。

それで何か私も多少満たされたりして何かの区切りがついて次の行動に移せるようになりました。入院中や退院後にもよくサイババの夢を見てたこともあり、それで自分にはどうもそこで生きるのが無理っぽい横浜ではなくて、インドと同じような感覚で居られる沖縄の離島で子供と暮らそうと思い、子供を連れて沖縄に住む家を探しに行きました。