みやぎけんせんだいし。それだけかいた年賀状を持ち歩いてどれくらい経つでしょう…。年末に戻ってきてしまった書簡には、2月のはじめまでに、短いものを書いてそれを送ります…なんてことを書いてしまっていました…。自分で自分で締め切りを作らないと、どうにもかけそうにない…。そう思ってのくにくの⁈だんこうでした…。これで、書くだろう…。あのとき、核になる部分を、これはいなくならないと、感じていた、あの部分が…。朧げな印象だけが残って…、はて、核の真ん中は、なんだったのだろう…。時というものの偉大さを思いますね…。あんなに、これだけは絶対に見えてるはず…、そう感じた、その核の部分が、はやボヤけている…。一事が万事、こんなことなのだろうから、いいことを何度も何度も、こころで再生させているうちに、いつしか、おんなじ映像は心に焼き付くのと同じに、その反対なら出来事とて、それからのがれられずにいる間は、どうあがいてみても、どーにもこーにも、けせないと思っていたものでも、時の流れとともに、いつしか、少しずつ薄まって、あるいは、苦いだけのはずのものに、別の風合いや色合いが加わったり、和らいだりしていって…。あれ、わたしは、こんなに、つれないやつだったのか、そんなふうに、自分にといかけてるときさえある…のだから…。はて、そうそう。年賀状なんですよね〜。もうお年玉の番号まで発表されちゃいましたよねぇ。ざんねながら、一等の番号はありませんでした…。当たったらどう使おうかなぁ〜、ひとしきり、そんな想像をおもいめぐらしてからの、番号探しでしたけれども…。ことしは、いつもと同じ、のは、50枚限定にしましたから…。残る20枚は、お年玉付き地元観光地の絵がついたものに、もっぱら愛用のペンで文字を書いただけのものにしました…。ともあれ、そんなことより。みやぎけんせんだいし。


青葉城のあの切ないこいうたを歌われたあの方がね、あれはまだわたしが20代のころですけれど…、どこかの高原で行われた夏の音楽祭で言われてたんですよ、それだけ書いても僕にファンレターは届くんですねぇ〜って、でも、郵便局は、手紙だけでなくて、小包!というものも、やってるんですけどねぇ〜って。そう言って、笑わせていました。いまも、地元の夕方の情報番組をされていると、聞いたことがあります…。もう数年以上まえのことですが…。ともあれ、年賀状です。そして、わたしの原稿は、はて、また、とうぶんさきまで、書かれることはないのでしょうかねぇ。いちばんに思ったあとは、復帰以降も、すぐに始められたあの連載のページを担当している編集部に送ること…だったのですけどねぇ。


思いついた自分が、自分でも、おどろいたあんは、つぎのとおり…。自分宛ての封筒を書く。そして、送り主のところに、届けたい相手の名前を書く。わかるはんいで。そして、切手を張らずに出すんです。そしたら、手紙は、きってのはりわすれとなって、差出人にもどる、のではないだろうか…。これまで、なんどか切手を張らずにだしで、戻ってきたのに、もいちど貼ってだしたことが、あるゆえ、思いついたのですけどね…。そのためには、投函場所は、あるていどの都会にまで、足をはこぶ必要はありますねぇ。その方が投函してもおかしくないと思える場所に…。


5年生のころ、風船に自分の住所と名前を書いて、拾われた方は、お便りくださいって、飛ばしたんだそうです。そしたら、なんと、800キロ以上離れた土地から、それも、女の子から手紙が届いたんだそうです。そのあと、なんどか文通をされたのだそう…。そして、一度訪ねたことまであったそうで、有名な大きな山の麓にある、門から玄関まで、少しあるくような、旧家のお嬢さんだったそうです…。一度、年賀状を書いてみてはどうですか?そう話すと、今でも、その、住所だけは、そらで覚えておられると…。それなら、なおさら、書いてみては?、たとえ、お嫁に行かれてたとしても、きっと、実家との交流はあるかもですし…。そんな話を、新年さいしょのラウンドの前の数分のたち話をしたのでした…!むろん、風船〜の顛末は以前のらうんどのときに聞いていたので、できたわけですけれども…。団塊真ん中の方ですから、いまから65年以上前のことですねぇ。いつの時代にも、封書でしか、伝えられないものがある。そう思うきもちはかわりそうにありませんねぇ…もちろん、風合い、色合いは、時とともに…、多少…おだやなものになるでしょうけれども…。


そんなこんなことより、年賀状です。はてさて。くだんのあらちえをじっこうするには、まだ少しふんべつがのこりすぎてる年齢なのだろうか…わたしは…。そんな、はて、さて。どうしませうねぇ。そんな、ため息まじりを、くりかえしているこのごろであります。いつも、思い出すんです。なにか、たぶんこれは、いまをのがすともうないかもしれぬということが、おおきくてもちいさくても、あったときに。いつかもかきましたが、あれは、シラノの一人舞台でした。拳さんの。いいや、来年にしよ。でも、来年はなかってんですよね。都市に住んでると、舞台はいつでも観られる。そう錯覚してしまう…のかもしれません。来年はなかったんです。そのひとがいなくなってしまったから…。あれから、なにかあるたびにあのとかのことが。あたまにのぼります。


だから、のこりじかんの少ないひと優先なんです。わたしは…。だから、わたしはいつも、70代以上のひとのラウンドをしているのか…。えへへ〜って。そりゃね、いまとなっては、20代の成長著しい子とまわって、元気ももらっていますよ。それでも、味のあるラウンドができるのは。やっぱり、65、いや70を超えてからなんですかねぇ。飛ばなくなった悲哀と闘いながらも〜、愚痴りたいきもちをぐっとこらえて、気合のこめた一打を打つところは、あれは、若者がどんなに力任せに、クラブを振ったところで。あの味だけはだせませんねぇ。含羞と悲哀。これなんですかねぇ。せつないかっこよさが生まれるのは…。えへ。なあんて、いえ、その通りなんですけどねぇ。はたさて、どうしたものでしょう。年賀状…。伝書鳩さんに預けたら、そこの空まで飛んでいってくれる…、お住まいの庭まで、運んでいってくれる…そんなワンちゃん、いや、トリさんはいないものですかねぇ…。あ、トリプルボギーのトリさんではないですよ!もっとも、陳腐なダブルボギーのときより、トリプルの時の方が、はるかにドラマチックで、スリリングなドラマが多いのは確か。ですけどねぇ〜。

はてさて、あれからどれだけ日が過ぎたのでしょうねぇ〜。ほんとに日の経つのがこんなにはやいとは…、そうしみじみわかることができるのは、これだけ歳を重ねてからでないとわからないというのが…、なんともはや、にんともかんとも、かなしくもあり…、そうかそういうことだったのか…と、いわゆる時熟のようなものを理解できはじめるのは、やはり、これだけの歳月がいるものなのですね…と、やっぱり、しみじみ、そうしみじみかみしめている、このときなので、ありまする…。ふぅ〜。


若いときというものは、どうしてあんなにも、先のことを考えないでいられるのでしょうね〜。いい意味でも、我ながらあほちゃうかと思いたくなることごとも…、ともかく、いろいろ。そして、ある程度の歳を重ねてしまうと、どうしてこうも、先のことばかり考えてしまうのでしょうね。そんな人が多いのでしょうね…。先のことなど、わかりもしないのに、どうして、もうすっかりわかってしまっている、ような気がおきておまうのでしょうね〜。あるいは、もしや、若いときとおんなじように、いられる方が、実は、ずっと、もっと、楽しくもあり、もっとたくさんの知恵を生かせることもあるかもしれないというのに…。そう若い時には思いもつけなかった、さまざまな知恵に…。自分を生かせることも、ずっと多く恵まれるかもしれないのいうのに…。なあんて、考えてみたりしてるのは、わたしだけなのでしょうかねぇ…。ふぅ〜。


なあんて、ともあれ。過日の月例杯はどうだったのでしょうか…。スコアというものは、不思議なもので…、数字に気を取られた途端に〜、ものの見事に、ナイスショットも、結果オーライさえまでもが〜、後も簡単に猛ダッシュして逃げていってしまうのは、あれほんとなど〜してなのでしょうねぇ。ちょっとどこかが痛いとか、ゆうべ飲み過ぎたとか、なんでもいいので、嗚呼、きょうは当たればそれでじゅ〜ぶん!なんて思っていると、なんでなんで?という間に、パーやラッキーボギーがやってきて、あら、こんなことなら、もっと真剣に振ってみたらば、さぞいいスコアが並ぶはず!と、思った途端に、ボールはいとも簡単にあらぬ方向に向かっていってしまいますねぇ〜。何気なく打ったパターはあんなにまっすぐ転がっていくのに、よーし、ど真ん中だよど真ん中!まっすぐ引いてまっすぐ出す!なあんて、真面目なことを思ったとたんに、ふにゃ〜あ〜って開いたり、がつ〜んと引っかかたり!ど〜してこ〜なるの‼︎って、クラブ投げたりできたら、その瞬間だけでもスカッとしたりするのでしょうかねぇ〜。いや〜やっぱり、ひそかに狙って、ひそかに気合いを込めて、じい〜っと、上げたくもなる頭を動かさずに、目でボールを追いかけずに〜我慢に我慢を重ねて、しっかり打てたときに、打った瞬間入った!とわかって、そして、果たして、ゆう〜くり顔を上げてボールの方へと見上げてみれば、さあ、いまからカップにボールが吸い込まれるとこ!うーん、これに勝る、やったぜは、ないですよねぇ〜。心の中は大万歳、でも、顔色変えずに当たり前だよこんなのは、みたいに〜キリッと表情浮かべたまま〜なあんて、できたら、カッコいいでしょうねぇ〜。へへ。


ともあれ。ともあれ。言葉にしたら書き尽くせないほどの、気持ちや闘志や我慢を、い〜っぱい、抱えてもってボールにぶつけて、そおして、得られた転がるボールと、してやったりのゆくえを見つめるときの、あのかいかん!。これは〜、投げた瞬間ストライクとわかって、こんま何秒後に打者が見逃したのがわかって、アンパイアの手が上がるより先にもう、ベンチに向かって走り出してるときの投手とおなじよう〜な、気持ちよさかもしれませんねぇ〜。えへ。そ〜んな瞬間が、たとえハーフに一度だとしても、嗚呼きょうはやってきた価値がある、これをやっててほんとによかった〜、そ〜んなふうに思えるだけでも、やっぱり、やらない人には永遠にわからぬ感覚!、なのかもしれませんねぇ〜。ふふ。


ともあれ、ともあれ。かつて右も左もわからぬ新米のときに、気さくに声を掛けてくださり、その後もどういうわけか、社の先輩よりもずうっと長く、しゃをこえて交流くださったカメラの方の大先輩が…、きょねんからだのまんなかに見つかったよからぬ細胞のせいで、とってもとってもご苦労させたと、新年すぐの久しぶりのコールでしりました。声は変わらぬ、元気!に聞こえましたが…。どってもたくさん苦労をされたよう…。あの長い階段を、7月の下旬、決勝に近づくにつれて見どころも増える高校生のハイライトを撮っては走り、撮ってははしりした、あれから何年だったでしょうね〜。昨年まで、ずうっとこれまで、写真に収め続けてこられた尽力、人力!にあたまが下がります。こんな方がいてこそ、周りが育つものなのでしょうねぇ〜と、つくづく思います…。


ともあれ、ともあれ。ほかにもエールを送りたい方がたくさんあります。いちばん困っているのは、はて、どこにどう送ったものかと、思案の続く、初めて戻ってきてしまった、書簡について…。おそらく、もう京のオフィスを閉められたのでせうね〜。お住まいの市名だけでも、おそらく届く、そんな気がしないでもないですが…。とある夏の音楽祭で、おなじ杜のまちに住む、とある音楽人の言によれば…それだけでも、充分手紙は届く〜、もっとも、郵便局というとこは、小包というものやっているのですけどねぇ〜と言って、観衆を笑わせておられたものですが…。はてさて、この、城山さんがあんなに真剣に反対されてた、なんとかなんとか法やらが通ってしまったこの今では、おそらく、そ〜んな、やさしいことは通らないものなのでしょうかねぇ〜。便利という名の窮屈ばかりが増えに増え、はて、これから生きていくのは人間なのか、パソコンなのか、みたいな、本末転倒の、なんと多いことでしょうねぇ〜。全員が、アンテナつけてゼッケンつけて、この上どれだけ目印つけて、いったいどこのなにが便利⁉︎なのでしょうかねぇ。いやはや。


電車の中で、ほぼ全員が手元を見つめて、その先にあるのは、ひとつ、スマホだけ…。この膨大な時間を、もしや、それ以外のことに充てられたなら、はて、どれだけの、創造的な時間、思索的な豊穣に見舞われるのでしょう〜なあんて、考えてるのは、やっぱりわたしだけ、なのでしょうかねぇ〜。いやはや。ともあれ、ともあれ。ゴルフの話が、こ〜んなにも脱線だっせん、してしまいました…。そうそう、書簡です。どこにどうして、送ればいいかと、あたまの隅から隅まで、ふふふう〜っと、しぼりにしぼって、かんがております…。ここいちばんのとびっきりの頓知ある方を試してみたかもありますけども〜それはあまりに推理小説もどきになりますゆえ〜、はてさて、どうしたものでせう〜。うーん。


ともあれ、ともあれ。今年こそは、いつかどこかで、いつかもどこかも、ひとつぐらい叶えてみたいものですねぇ〜。コースをのんびり歩きたいですねぇ〜。季節の風と、空と、そして景色の色色を、目と耳とそしてぜんふで愛でながら〜。てへ。なあんて、書簡を送れたらなぁ〜(o^^o)〜どんなにいいでせうねぇ〜。むむむぅ〜。

あ、そうそう!あけましたね。おめでとうございます!

トンネルを抜けなくても、ここは雪国みたいですねぇ。おっと、瀬戸内海にほど近い小さな町に住んでますから、もちろんこれは、フィクションなのですけれど。いつものように…。ともあれ。それにしても、冬の空気には、独特のはだざわりのような、ものがあるのは確かですねぇ。乾いていても、しめっていても、それぞれに、肌に静謐さと静かなときと向き合うときの、透明感、哀切感のようなものが…。冬は朝。というあの一節はほんに、その通りかもしれません。やっぱり、寒い地方は、寒い時にこそ訪れて、澄んだ美しい景色に会えるものなのかもしれません。みちのくをひとりで〜。気の向くままに…。そんなことを思い浮かべて、夢想するのが、これほど大きな冬もないかもしれません。ひとつには、いつもの封書が戻ってきてしたったこと。そのせいも大きいのかもしれませんねぇ。


その封書には、今度こそ、如月の初めごろまでに、作品らしきものをひとつ書き上げます〜そう書いたのでした。書いた勢いで、いつものように帰り道の新ーで始まる消印となるそのポストに投函したのでした〜。手紙は、書簡は、書こうと思ったその時に書くのがいい〜、そんなことを教わったので、その通りにしています〜そんな書き出しで書いていたように思います。とにかく、どこまでいっても待ちの姿勢、この性分だけは、いかんともできそうもなく…、そんなふうに、いちじの思い立ちの勢いで、誰かにこうして、いえ特別な誰かにそうして自分で言わない限り〜、たぶん時間のあるかぎり、人生の時間ですよ〜、のらりくらぞうになってしまいそうなわたしなのです〜のもですから。しかし、白状すれば、それを投函した翌朝、いちばんに思ったことは〜、あ〜どうしよう〜ほんまにわたし書けるんかいな…そんななきべそにもにた情けなき感情だってのでした…。


そんな封書が、戻ってきてしまった…。あらまぁ。おやおや。何より、次に出すべき宛が見つけられない悲しさと同じくらいに、ひとまず締め切りが伸びたかもしれないことに、安堵をしている自分がここにいたのでした…。なんとも、はや。あきませんねぇ。それでも、ひそかに、これにめげすに、この戻ってきたことは、それほどたいしたことではなく、なんとでもなるのであるから、〜ほんとに?見当はあるの?そんな声もするけれど…ともあれ〜、やっぱり、なにか締め切りを作って、あのとき思った内容のストーリーを、書くべしである、そう言い聞かせてはいるのです。…と、ここに書くことで、なんとか、このなまくらな自分に、なんとかほら、言ったのだから守らんしゃい、そう、言うべく書きているやもしれませんねぇ。ふ〜。


はじめてしまえば、もう後戻りできなくなる、いや、なにも、そんか大袈裟な、心配せんでもそんな才能なんてないのよ、ライフワークにできるほど、ひとさまに評価してもらえるほどのものが、そうそう書けますかいな〜、そんな声がこころのどこかでせぬでもなく…。ともあれ、冬だからこそ、この静謐で穏やかで静かに見守られているような、そんな時間を、なにか形あるもので残してみたい…そんな想いを、こうして書きてるうちに、さらにあっためることができたらいいなぁ〜、そんなおもいで書いてあります。もとより、念のため、これは、ほんまにほんまに遠くの人に向けて書いておりますゆえ、どうかご理解くださいますよう〜って、これ誰に言ってるの?かしらね^_^;

嗚呼、なんということでしょう。やっと書くことで、静謐な時間の黄昏時が、やっと故郷を遠く離れたこの場所で、やっと、このページを書き始めた頃の感覚に戻って、このくるしい時期にあって、どうにかこうにか、静謐な時間でもって、自分のこころを慰めんと、まるでセルフセラピーでもするかのような、そんなつもりで、言葉を綴ろうとした矢先。


ひとは、ともすると、くるしいとき、何かを思い詰めたりしていると、やっぱり、なにかの判断や、思いやりを、欠いてしまったりするのでしょうか。いつも、書くたびに、文字通り遠くの恩人に、あるいはゴルフの紳士に、こんなのを書いてみましたと、メールをお送りしていたりするのですけれども。ときに。いとせぬとこからのリアクトが、あまりにダイレクトにやってくると。これはこれは、どうしたものかと。感情のままに、カッとなり、お金の多寡をいかとこころえる!とか、なにをひとりがてんで!などと、言おうものなら、困ったことになるでしょうね。ひとはみな、気持ちで生きているのですから。そもそも、にほんごにおいて、いいえ、というのは、いえすと同じ重さで使うと齟齬や多難こそあれ、つつがなく済むところから遠ざかってしまうようにできている言語ですからねぇ。困りました。


そういえば。ずっとむかしに、まさにこれを書き始めたころ、故郷にすむ中学の数学を教えていた方から、再三にわたって、実家の母親に電話がかかって。老いた母が閉口していましたっけ。あくまで、生きてる音信のつもりであって、個別に宛てた想いのあて先とは、違うのです!どうか、推し量ってくださいませんかと、なんど思ったことでしょう。もちろん、ことばは、気持ちの先に出てくるのですから、書かれたことばは、もちろん、思い浮かぶ相手があるのは確かです。しかし。それは。遠くの方方ですと。というのを、目上の人のプライドを傷つけずに、伝えるすべは、少なくとも当時のわたしは持ち合わせてはいなかったのです。あの時もほんとに困りました。


海外の友人たちに、この内容がうまく翻訳されて伝わってあるかまでは、さだかではないですが、少なくとも国内の、多岐にわたった、素晴らしいゴルフの、恩人、友人、知人の方々に。よんでもらえていることは。とても、とても、大きな支えと助けとなっています。知ってもらえてる、というだけで、どれだけの安心感があることか。


それにしても、いまさら、教わるというのも、憚られ、しかし、ひとことのヒントで、嗚呼そうかと、合点と納得がいき、次の一打が楽しみなっているよにお見受けする、御仁方々の、なんと多きか。ほんとは、ちょっと知りたい。ちょっと教えてと、思われてる方は、とってもとっても多いのでしょうね。だれでもそうです。自分は見えない。嗚呼、この人いい構えしてるな。次は入るな。というのは、はたから見てるからわかるんですよね。自分でもわかる方もいますが、しかし、いいときはわかっても、おかしいとき、どうおかしいかは、自分ではわからない。だから、あんなに、悩ましい。どーみても、グリップの位置が自然でないんですよ。それなりに自然体で構えていれば。自然と力の入らない位置が。重力のまに手をぶらんと下げたところが。グリップの位置。だから、毎回おんなじように打てるんです。パターも然り。さらに想像力が求められ。ボール位置の傾斜に応じて、どう構えるかが鍵となる。はたして、スクエアに打つのか。敢えて、曲がるように打って、結果オーライを狙うのか。ラインを読み切って勇気を、もって頂点まで打つのか。その時その時の。自分の調子も見極めて。どの球種で、勝負するのか。


そんなこんなの、ほんの一部を、打つ直前にアドバイスもらえたら、さぞ安心して打てるでしょうね。少しでも不安を減らして目の前の一打に集中できるか。そこなのでしょうねぇ。人生って。


占いやおみくじが、ときに、どんなセリフよりもありがたくなるのも、それなのでしょうね。ほんとは、どれも正解どれもハズレなのでしょうに。ひとは、己の聞きたいこと耳にしたいこと、それしか聞いていないのだそうだ、というのを、どこかで読んだ記憶があります。自分がのぞむ返信や答えがかえってくるところにいきたがる。ということなのでしょうかね。不思議です。いくつになっても、生きてる限りは、永遠に生きてるのだから、いまこのときなのは、6歳の時も、いまも、このさきずっとずっとさきのさきも、どれもおんなじ、いまこのときなのに。時間を持て余すというのは、若いとか老いてるとか関係ないはずなのに。老いてからの、目前の時間との折り合いに苦しんでるように感じる方が多くあります。たぶん、ひとは、忙しくしていないとできないことの方がずっとずっと多くなるようにできてる生き物なのでしょうかね。有意義だった、忙しかったと思えないと、ちゃんと生きてるように感じられないように、いったい、いつだれがそうしたのでしょうね。人の目も世間の目も離れたところで、生きる実感を持つというのは、難しいのでしょうかねぇ。生きる意味や人生の意味を考えることが、あまりに、それこそ意味を持たない時だって山ほどあります。むしろ。それどころか、そんな思案があることさえ。忘れて何かに夢中になっていられる、その時間こそがしあわせというものなのかもわかりません。それでも、そんな思索も、しながらも、目の前のバーディを、素直に歓ぶ、そんなゴルフをできる時間が、あるならば、いつかどこかで、と、そう思いづけているその方にたとえ届かなくとも、とりあえず、ひとまずきょうも生きてみている、そんな夕暮れも、まぁいいっかと、思いながら、冷え込む午後のスルーをまわったいちにちでありました。はて、ほんとうの豊かな時間とは、学校という場を、出たあとから、はじめて始まるものなのかもしれなきですねぇ。もしかしたら。

書くというのはこころの解毒を進める作業という面もあるのでしょうかねぇ〜 書きたい、書こうと思えるときには、まだ、生きてると思えるだけのなにかを求めようとこころが思えてる時なのだろうから…。

手紙は書きたいと思ったときに、書かないとほんとうに伝えたいことは伝わらないというのは、ほんとうだなぁ〜と、改めて思います。これを伝えたいと思えるひとが、思い浮かばないときは、少なくとも書こうなんてとても思いもしないだろうから…。


PineHillだったときのことが、時々とても懐かしく感慨します。なにかを想えるというのは、ほんとに、少なくとも本人にとっては、もっとも生きてる実感を覚えられることなのでしょうね。しあわせということばを、借りるならきっと、そのときこそがそれなのでしょうね。そんなのはただの熱病だという人もあるかもしれませんが、どんなことや、ものであれ、がんばろう、さらに先を目指そうと思えるのも、最初にあるのは、何かの、何かへの熱意なのでしょうから…。


なにがしたい?、どうなりたい?、どうしたい?そう聞かれても、ことばも気持ちもすぐに動こうとしないときは、これをなんというのでしょうね。あきらめとか諦念とも違うように感じます。むなしくないといえば、嘘になるでしょね。しかし。不満があるわけでもない。なにかをこわいというのとも違うようでもあるし。さびしいというのが、いちばん近いのですかね。

いいたいこと、なにか打てば響くようなことばを交わせる人、そんなこんなが通じる相手が、〜まぁそうそう生涯に何度も出会えるものでもないのでしょうけど、ともあれ〜、見回しても、どーにもいない、というのが、やはり、さびしいのでしょうね。


いつかも、書いたように、ゴルフをする人はあまたあれど…、の、あの続きのように。どうして、敢えて難しい攻め方に挑戦して、清々しくダボを叩ける人、あるいは、めちゃくちゃ精一杯の打ち方に徹してどうあがいてもダボしかとれなくても、嘆かず凹まず俯かずにダボを打つ人、いや別にトリでも、谷越えのティーショットを叶うまで5回打つ!のでも、もちろんいいのだけれど。どーして、どこ見回してもそんな人見当たらないのでしょうね。スケールなんて言葉を使うと、またひどく叱られてしまいそうですけれど。


お金とか数字とか、世間体とか、そんなこんなに負けないゴルフできる人、そんなひとは、そもそもゴルフをしないのですかね〜 いや〜しない人は初めから舞台に立つ覚悟がもてないだけのような気もするし、しないことで大叩きという恥をかかないで済む思ってるとしたら、やっぱり違うのだろうし。やっぱりそれも数字にはなからひれ伏してるわけですよね。おっと、また、大きなお叱りを受けそな言い方になってしまいました。


格があるというのを教わってから、それを教えてくれた方に匹敵するようなひとにも、出会えたことはないですねぇ。認知症になって、まるで仏さまみたいな、言動をさせるようになられた、かつてのバリバリシングルの方の素直すぎる言葉には、こちらがこころ洗われて、ほかの誰と話す時より素直に笑顔になってしまうのですけれど。そして、いくつ打っても嘆くこともなく、わしこれなんだめや?と訊きながらも、ボールの前に立つと、ほかの誰よりも綺麗なボールを放つその方を見てると、むしろ、こっちの方が美しい老い方なのかしらと、思えてしまったり…。


ことばが通じるって、ほんとに偉大なことなのですねぇ。改めて思います。遠く離れた知人友人への、無事を知らせる音信代わりに始めて、今もそれであるはずの、このページですけれど。ここ何年も、生きてるのかしんでるのかもわからん頻度の書き方ですものね〜。申し訳ないと思ってます。いつかも、たぶん何度もふれてますが、随筆・夕顔の中で、それに若いうちに気づいてしまうと先がおもいやられると書かれていた、それというのは、おそらくこんなことだったのではなかったでしょうかねぇ。


かつて、筆者にとってのお能を真似して、わたしもごじゅうになったら、おとこのひとのすなるものゆえと、クラブを置こうかなぁ、と、思ったこともありましたけれど。はて。さして、夢中でもないけれど、時々、ひそかに、思い通り打てるアプローチやパターの手応えくらいにしか、ささやかな歓びのない暮らしにあっては…。その、潔さにも至りませず。

お金にも名誉にもなんでしょう目立つことにも、一般に多くのひとのこころをとらえるはずのものごとに、大きな動機もエネルギー点火も感じられないとなれば、はて。なにが、したいのでしょうねぇ。たとえば、大きな試合なんかで、きめ細かにラインを、読んでそれがとても甲斐ある時間が続いたりしたときには、やり甲斐、そして元気を思わずもらっていることに気がつきますねぇ。

鷲田さんも、噛みきれない想いの中などで、言われてるように、あなたでなければいけないと想ってもらえているとき、ひとは、生きてる実感を強く感じられるのでしょうね。かと言って。介護に代表されるようにそれが長時間逃げ場のない形で現れてしまうと、一転、苦しみ以外の何者でもなくなるのでしょうねぇ。


恐らく、ほんとうに強いボール、ほんとうはこんなのが打ちたかったというボールを、追い求めてはいるけれど、いちどもひとに乞うたり、習ったりすることもなく、何十年も現場でしかボールを打たない人の中にこそ、さりげなく、つかまるボールを、捉えられるグリップの仕方を知って、ものすごく喜んでもらえる方なんていうのは、練習場にはいないのでしょうねぇ。

しかし、それを文章だけで、わかるように書く、というのは、はなして可能なものなのでしょうかねぇ。


待つというのも、待たせるというのも、結局、ときの流れを待ってるという点においては、どっちも同じ、と、書いてくれたのは、やはり、鷲田さんでしたが、待つものも待たせるものも、持ち合わせてないような感じになっているとき、やっぱりそこには、寂しさだけがのこるのですよねぇ。なにを、どう描いたら、書いたら、いいのだろうと、思案してるうちに、むなしと思う時間とともに、人生の多くの時間が過ぎて、まあ、それもひっくるめてひとの時間なのでしょうね〜と、しめくくる流れになってしまって…いささか、われながら、きょうはやっぱりさびしさのつのるあきの夜長になりそうですねぇ〜。人生ってなんなのでしょうねぇ。

秋が深まるなか、連日のようにこころに浮かぶことばや気持ちをここに書き連ねることで、こころに酸素をなんとか届けていた頃が少し懐かしい。そんな気がします。心が動く、こころがさけぶ、こころがなにかを想う、そんなふうにいられるときは、じつは、そのときはすごく必死で、すごく夢中で、すごくつかれてしんどいと思うことばかりかもしれないけれど、それでも、過ぎて振り返ると、そんなふうに何かを想い、なにかを期待して、たとえ無理かもとはわかっていても、かすかにでも願いたい、待ってたいとおもえる、そんなときのなかに、いるときが、実はとっても恵まれてるのかもしれないですね。それは、願いが叶ってしまうことより、もしかしたら、ずっともっと、しあわせな時間なのかも、と、ふと思えたりもします。何かを願う、何かの到来や変化を願う、何かを期待して待ちたいと思える、それだけのことが、どうして、ひとは、年齢を重ねるにつれて、できにくくなって行くのでしょうね。まるで、もう先がないことが、わかっているかのように、そういう展望のある見方ができにくくなってしまうのでしょうね。年上のだれかと話していて、すぐにわれわれはもう先がないから、でもまだあなた方はいい、などと言われたりすると、ものすごく大きなガッカリを感じるものです。それは、若い人への励ましの延長なのかも、しれないけれど、まるで歳を重ねるということは、すごくつまらないことですよと、言われているようで、二重の意味ですごくガッカリしてしまうのです。いまが、幾つだとしても、このいまを生きるのが、目の前の時を過ごすこと。そのものが、もし、生きるってことだとしたら、その歳その歳でしか、感じられないことや考えつかないことが、あるはずで、予想生命時間の長い短いで、まるで、生きてることの価値そのものが減っていってしまうかのような、そんな、感覚の物言いが、当たり前のように、かわされている感じかをものすごく、残念だなぁと、思うのですよね。

無論、年齢がついにある大台を超えてしまうと、かつては、こんなふうにおもうことがあるなんて想像出来なかったふうに、ふとこの先の残り時間の少なさから、なにか店じまいの支度が迫ってくるような義務感に、こころの酸素を奪われてしまうことが確かにあるのは、やっぱり悲しくて残念ですねぇ。そして、ふと、そんなふうに、あとなにができるだろうとか、なにが残っているのだろう、なんて、悲観的に思案している、自分自身のこころに、すごく哀しい思いに包まれてしまうことに、愕然とするやら、嗚呼これが、歳をとると言うことなのかなあと、感慨したり…。たしかに、そんな、悲哀と、ささやかな自分への慈しみを含んだ、しみじみな感慨を、だれかと共感しあうような会話できたら味わい深いのだろうなぁ〜、というのは、思います。確かに。

とはいえ。それはそれとして。それでも。それと、歳をとることを諦めの大義名分みたいに、口癖のように、話を耳にする人のだれもを、たのしい気分にさせることのない、感覚や、言葉のやりとりが、あまりに多すぎてるように、感じるのはわたしだけなのですかねぇ。それどころが、まだ、はるかに子どもみたいな年齢の若者でさえもが、もう、この先が見えてしまっているかのような感覚に見えることも、よくあって、やっぱり、スマホなしではいちにちも過ごせないだろうなぁと、思える大量の若者たちを見ていても、なんだかとてもかなしい景色に映りますねえ。自分の頭で、考えて、言葉にして、手で書いて…、そんな時間は、スマホがなければ、もっとたくさん生まれてくるような気がするのは、気のせいなのですかねぇ。街を歩いても、電車に乗っても、見渡す限り、スマホにかぶりついてるひと、ひと、ひとの、なんと多いことでしょうねぇ。

ずうっと、生きるってなんなのでしょうねぇ〜。と、そんなことを、考えてるだけで、そして、ここにこんな独り言を、書くぐらいしか、なにもしていない、わたしには、なにも偉そうなこといえる身分ではないのですけれど、なにか、もう少し、希望的、生産的で、それでいて、だれかを役に立ってる、甲斐があると、思えるような、そんな時間をほんの少し、もてたら、うれしいだろうなぁ〜と。そうはいっても、お金がほしい〜とか、偉くなりたい〜とか、そういう金とか箔とかに、ほとんど頑張る動機をもらえない、わたしは、はて、どうしたら、なにか励みのある時間を持つことができるのだろうなぁ〜と、思案をしているばかり…で、きっと、そうしているうちに、時間が過ぎていくのでしょうね〜と、まるで、人ごとみたいに、無論、多少の痩せ我慢込みだけど、ともあれ、そんなふうに、おもっているのですよね〜。

それでも、ふと思うのは、誰かに乞われて、そう、例えば、グリーンの少し複雑なラインを読んで、それがだれかの役に立って、目の前で喜びの結果を共有できたりするような、そんなときには、やっぱり、ひとは、だれかの役に立ってるって喜びがあれば、生きられるんだなぁって、いうとことで…。甲斐のある時間に、触れられるのは、生きてる励みになるのだなぁと。
ただ、そうなふうに、感じるのは、なんというか、まるで。老年の諦念に満ちた感慨なのかなぁ〜、これじゃあ、若さにかけているのかなぉ〜と、思ったり。人それぞれに、がんばれるポイントは、違うのだから仕方ないとは、おもうのだけれど、なるほど、常に自分ではなく、相手が軸になってしまう、星周りに生まれてしまった身としては、その、相手のいうのが、ないとき、わからないとき、思いつかない時、そばに感じない時、ほんに、ガソリン入れても永遠に点火しないエンジンみたいになってしまって、自分ながらに、哀しくむなしくなってしまうのもまた、然りなのでありまする。にんとも。一時が万事、こんなふうだから、時々、からだの疲れにあわせて、こころの酸素がなくなって、充電切れにんげんになってしまうのでしょうね。

うっかり、それを、聞く余力?聴くちから、こころの大きさ?のない人に話してしまったりしたらば、よけい、酸欠が進んでしまうような、あーすれはいい、こーすればいいのマシンガン命令が飛んで来たりして、疲弊だけですまなくなるから、これは要注意。ともあれ、ただ聴くだけでいい、というのを、することができるのは、たぶん、こころの畑に養分がいっぱい詰まっている人にしか、なかなかできない、偉業、滋養なのかもしれませんねぇ。

そんな、行間に、味わいや滋養が、いっぱいつまった、そんな、ゴルフができる時間は、きっと、生きてる時間に味わえる、貴重な希望あふれる時間なのかもしれないですねぇ。つまり、今この時を、共有してる。そんな時間の中にあるということ。

高校生の野球は、あんなに爽やかで多くの大人にあんなにたくさんの元気をと勇気を与えるのに、どーして、ただ飛ぶだけ!の、若者のゴルフは見ていても、味気ない気がしてしまうのでしょうかねぇ。これは流石に、わたしの偏見、おへそまがりの感覚なのでしょうかねぇ。飛ばなくても、その一打一打の、重さや味わいが、シニアのそれのほうが、見ていて味わい深いのは、比でない、ともおうのは、わたしだけなのですかねぇ。転がるボールが、語っているものの奥行きや重さが、まるでちがうと感じるのに…。結果の数字だけでは、決して見えない、わからない、味わいがそこにはあるのに…。もっと細かく精密に、どこをどんなスピードで、どんなふうに、ボールのどこをどう打ったらどう転がるかを、精一杯工夫して、打たれたボールを見ているのは、惚れ惚れする姿を見送る時間の  ような、みずみずしさが、こころに爽やかな風が吹き抜けるような清々しさが、そこにはあるのに…。それなのに、ただ、たんなる数字だけにこころをほとんどを、もっていかれてしまうのは、あまりに残念でもったいないことこの上ない、そんな気がして仕方がないのですけれどねぇ。つまりは、一打一打にかける姿勢って、ことなのですかねぇ。美になるか、醜にになるかの、大きな分かれ目は。腰が、もし、少々曲がったとしても、シワが少々多くなっていってるとしても、そのひとの、こころに、姿勢に。ピンとした真っ直ぐななにかが、あるなら、飛んで行くボールは、きっと、綺麗な姿をしていて、見ている人が思わず応援したくなってきまうものだろうなぁ〜。そんなふうに感じますねぇ。ともあれ、どうせ入らないと思って構えて打ってるパターほど、みていてかなしいものはないですねぇ。どんなに難しくても、なんとかしようと、構えてる姿勢はすごく美しいし、応援したくなる。そんな、機会を少しでも多く持てるのなら、小さな失敗がふえるほど、たくさん挑戦できる回数が増えるのだから、ひゃくをうってもちっともかなしくむなしくないでょねぇ。むしろ、たのしいはず。なあんて、そんなゴルフの感覚を共有できるひとが、もし、あったとしたら、どんなに楽しいものでしょうねぇ。

っと、時々、こんなふうに、まとめて、言葉が降ってきます。頭の中に…。びょうきということばはつかいたくないけど、わかっているとはいえ、いささか、たいへんな性質を持ち合わせてしまったものですねぇ。

そうだ、おもいだした。それから。たとえば、ゴルフについていえば、必死で、この人だけには負けたくない!と言えるような、好敵手にめぐまれてるひとをみると、ほんに羨ましいですねぇ。確かに、さっきいった、数字なんて二の次!っていうのに、幾分、矛盾してしまいますが。おんなだけで、戦う試合にでても、なにが楽しいの?面白いの?って感じてしまうわたしはやっぱりおかしな生態なのですかねぇ。やっぱり、女の人で味わいのあるボールをうったり、行間のあるラウンドをできる人にほとんど出会ったことがないからでしょうかねぇ。女同士が戦ってどうするの?って思ってしまうのですよね〜。それなのに、プロを目指したいなんて、むかしむかしどの口が言うたんや〜って。確かに思いますけれど。いつも、肝心なことに気がつくのが遅いのですね。ど真ん中が見えていない…。ところで。ほんまに、人生ってなんなのですかねぇ〜。解のない計算に挑む数学者と、似たような感覚なのですかねぇ〜。こんな問いを、ずうっとこころでつぶやいているのは…。生きるってなんなのでしょうねぇ〜。なあんてことを思いながら、ゴルフする人、どこかにいませんかねぇ〜。老いてからの過ごし方、時間の送り方、気持ちのもちよう〜、そんなことが、ものすごく、難しくなるばかりの、時代になってきましたねぇ〜。

楽しむって、ひとはかんたんにあっさり言ってしまうけど……たぶんそれは、いまできることをやってみるってことなんですかね〜。いまはできないことを、いまはそれができるちからにないときに目標だからとか。ひとに負けないためとか、そんなみえなんかのために、たてた目標はクリアしなきゃって。たぶんつまり、いまは、できないことをしよーとしてしまったときに、きんちょーだけがおとずれて、くるしいばっかりになっちゃうんですかね〜。たのしむって。いまできることをかたのちからぬいて見つけるってことなんですかねぇ〜。生きてる間はいきているんだし〜。いきてないときのことはしんばいして、いまできること考えないのは、ちとさみしい。ねぇ〜。あしたしぬなら、やっぱりやりたいいよ〜ってことから、どんどんできたらいいですね〜。世間体って、たぶん、自分だけがそうあらねばっておもってるだけのことだったりしてね〜、それは、もしかしたら、あいてもしばるし、そのうち自分の自由だってせまくしてる、こころの迷信だったりしてね〜。


つまり、楽しむって、けっしてかんたんでないえど、たのしくするためには、ほかにももっともっと、、ちがうやりかたや、立ち位置があったりするのかもですねぇ〜。たのしんでるひとみてると、ほんと、肩のちから、すごく抜けてて、歩く背中もかっとこいいですもんねぇ〜。


まあ、何はともあれ!。できないことはしない、でも、やつてみたいことはする!、数字のために

にげない、数字に負けない、そしたら、案外、おやおや〜ってこたえがさいごにやってくるのかもしれませんねぇ〜^ - ^ファイトです!

先ごろ、ことし初めに貰った葉書への返信の書簡を書きました。自分でも、今ごろ~と思わないではなかったが、それでもどうしても返信をしたいと思ったのだった。それは、ひさびさに学生時代の友へ、その実家へ送った年賀状に対する丁寧な返事の葉書でした。友のご両親から。。。おそらく、懐かしくて、いまはどこでどうしていますか?もしかしたら、もう苗字も変わられているかもしれませんね。たぶん、恐らくそんなことを、書いて、年賀状を送ったのだろうと思うのです。何気なく。。。とっても久しぶりだけれど。元気ですか?。そんなことを伝えたくて。。。

 

大学に入ると、英語と体育の授業は、あいうえお順の名簿の並びで、クラスを区切られ、従って、名前の文字のちかしい人たちと、同じクラスになったのでした。その友は、わたしにとって馴染みの深い、四国のある都市の出身だったことも手伝って、まもなく、何かと話しをするようになった。授業の後先に言葉を交わす程度で、一緒にどこかに出かけるということは、なかったような気もするが、わたしとはおよそ正反対で、おとなしくて女性らしくそても清楚な感じのその友とは、話しやすくて、専門課程に進んでも、交流は続いた。

 

もっとも、アルバイトに精を出し、出欠をとる授業を除いて、興味の薄い授業はほとんど休みがちだったわたしは、テスト前になるといつも、いつも真面目にどの授業も必ず出ていた友に、コピーをねだっては、甘えていた。とても字が綺麗だった。たぶん、内心、うれしくないときもあったあろうに、いつもノートを貸してくれた。無事に3年でほとんどの単位をそろえることができたのも、その友のおかげ以外の何物でも無い。どんあに感謝してもしきれないくらい、そう思う。しかし、当時は、4年生になって、授業に行くこともほとんどなくなり、おまけに、4年時のゼミが必須ではなかったことも手伝って、4年生になってから、他のクラスメイトにもほとんど顔を合わせなくなっていたように思う。大学の女子寮にいた同学年の子を除いて。。。

 

だから、運良く卒業式で席が近くなって、声を交わすことがなかったら、ほとんどの人の就職先、あるいは進学先を知らぬままいたのだった。そのせいでその友が、その後裁判官になっていたなんて。ご両親からの葉書をもらわなかったら、ずっと知らぬままだったろう。どんな授業にもいっさい手を抜くことなく熱心に取り組み、ノートを完璧にとっていた彼女。裁判官と聞いても、驚かなかった。そっかぁ。あんなに授業も全部手を抜かずに取り組んで、おまけに司法試験まで。恐らく、仕事についてもその姿勢は、変わらなかったのでしょうね。そのとき、彼女は34歳だったという。奇しくもわたしも、そのとき同じ大都会に住んで、同じ年、とある病気を自ら見つけて手術を受けたその年でした。運命とは、時に余りにも残酷で、切ないものですね。

 

彼女のお父上は、かつてわたしが就いていたのと同じ職業だったと、聞いていた。それで、あの丁寧でとてもまとまった文章の葉書をくださったのだとうなずけた。其れも手伝ったのかもしれません。どうしても、他でもない彼女のおかげで、わたしは卒業することができたのだと、お礼を伝えたかった。本人はもういないけれど。返事をもっと早くに書こう書こうとおもっているうちに、骨を折って入院して、そんなこんなで、再び年賀状を準備する季節になってしまったけれど。それでも、文は、手紙は、書こうと思ったそのときに書くのがよい、そんなことを教わったので、いささか遅きに失してしまったけれども、めげずに、書いたのでした。ことばは、ときに、どんなものよりこころを、気持ちを伝えるのに、とっても偉大なものですよね。そんなことをおもいながら。。。

長らく書くことの出来なかった便りを書きました。書くことが出来ました。不思議です。いつもおもうのは、いったい何をみてかkっこいいと感じ、また逢いたい、話したいと感じるのでしょうねぇ。ゴルフにしても。スコアなんて、ほんとその一部にすぎないですよねぇ。もちろん、そのスタイルができていてはじめて、その先があるのはたしかなのですけれど。それに、いざとなったら、いつでもパーぐらいとれる?、うん?、まあいいか、ともあれ、そんなところからはじまるのではあるけれど。ともあれ、ともあれ。たとえば、どーしても、だぼ以上取れない実力だったとても、なんとも魅力あるゴルフをすることができるひともあるわけです。はんたいに、どんなにスコアをまとめておられても、まっったく、なんの魅力も無いとかんじるひとだって、いくらでもいます。そうしてみると、なんでしょねぇ。魅力って。スタイルって。やっぱり、こうして、ゴルフは人格で在る。あのことばにおもいがいたってしまいます。深いですねぇ。ゴルフって。人生って。そして、ひとって。。。

 

ことしもまた、恒例の休暇の季節がやってきます。研修生をしていた地、そして、奇しくもこのブログを書き始めることになった、あの川辺の部屋のある町で、束の間の安息の時間を過ごします。「おい、なにしにくんのんどい?」「そりゃ、顔を見に~」「かおなんか見んでええわ~」。そう、嬉しそうに笑いながらこたえてくれる、かつでの愛車の主治医だった車屋さんは、今も変わらず、くるまのメンテナンスをしてくれます。「なんで、いっつも、このくそいそがしいときに来んねんな~」。たぶん、もっと暇な時なら、もっとゆっくり話しができるのに~。そう言いたそうにきこえてきます。その修理ピットのそばにいて、いつも私の愛車だったアルファものエンジン音をすっかり覚えていて、いつも全身ではしゃぎながら、迎えてくれたわんちゃんは、数年前にあえなくなってしまったけれど。。。

いまは、休暇のいちばんの楽しみなった、サイプレスに連れてってくださる方からの連絡を首を長くして待っているところ。。。あの風景をいちどみると、息をのみますね。ここはどこだろう、まるで、世界のどこか別の國のゴルフ場ではないかしら、ふと、そう感じるティーグランドがいくつかあります。時間と空間にまさるものはない。そんなすばらしい時間をもらえるたびに、いつも、そのたびに改めて感じます。どこで、どんなふうに、どんな時間を送るか。どんな空間に身を置くか。日々の行い、というものがどんなにそのひとを作るのに大きいかを、年々感じずにはいられないこのごろ、日々のさまざまなやりとり、交流のつながりがもたらしてくれるものに、ほんとに感謝せずにはいられませんねぇ。クラブの方の主治医をしてくれているあの方も、「よりによっていつもいちばん忙時に時に~」、こちらも嬉しい嘆きをつぶやいておられます。今も変わらず、まっすぐなボールを打つことが出来るのは、この方のおかげなのですよねぇ。ぜったいに曲がらないグリップの入れ方をしてくださる職人です。

 

件の車屋さんに、週末になるたびにものすごくラフな格好であらわれて、その博識や、機械式ならどんなものでも直してくれた鉄道マンの方は、もう何年か前にいなくなってしまいました。このブログを書き始めてまもなくの頃に、ステージ4がみつかって。だれにも真似できないほどの、気力と根性で見事に生還されて。そして、また、復職までされていたのに。とても小柄なかたでした。中学しかでていないと聞きました。家の事情で。他の誰よりもメンタルの強さを感じる方でした。口数は少ないけれど、話すことには芯がありました。団塊世代のほかのかたより、数歳若い方でした。骨のある人っていいなぁ~、そう思わせてくれる方でした。神さまはいつの時代も、少しいじわるですね。その方が丁寧に編んでくれた愛犬用のロープはいまも元気です。17年間愛し続けた愛犬が大雪の前の晩に自ら、いなくなってからもうすぐ12年が経とうとしています。ひとを思うと書いて、偲ぶだと、教えてくれた方もありました。生きていない方だけでななぁく、もう何年もお目にかかっていない方がいます。もう一度逢いたいなぁ。そんな想いの募る年の瀬です。

長い夏休みです…。とてもながい…。それは、突然始まりました…。あまりに、とつぜんに…。直後、何度思ったかしれません…。一秒前に戻りたい…と…。刹那、確かに聞こえました…。それはまるで、なんでしょう、固めの!?クラッカーかシリアルを噛んだときのような…!?、ともあれ、確かに、乾いた音がしました…。その瞬間に、わかりました。この夏の景色が…すっかりかわることになることを…。

ふ~。それにしても…です。あと一歩、ほんとに平らなところに届いた、さいごの一歩だったんです。わずかにいつもより、軽快に加速していたことを除けば…。そして、着地しようとしたその場所が、いつもとは異なり、わずかにぬれていたことを除けば…。痛みは…きっとあったのでしょうが…、それよりも…、気持ちなどはひとまず置き去りにして、あたまはとても冷静に、段取りを考え始めていました…。さぁ、どうやって着てきた服を、身に付けてここから、運ばれていけばいいのか…?と。

ともあれ。かくして、とつぜんの夏休みは…、けたたましいサイレンの音とともに始まったのでした…。いやはや…。変化はときに…、なんとかなんとか…!?。ともあれ。かたちをかえた救世主のように訪れる…と…、言うかどうかはわかりませんが…。ともあれ、これも何かの救いだったのでしょうか…。

あと一歩の着地にしっぱいして、からだが宙を舞ったとき…。あれはもう、まちがいなく、反射の域ですねぇ。あと五センチ、いや十センチ高く舞えていたなら…。足の裏が真下を向くのに間に合っていたのでしょうかねぇ…。ボルト9本だそうです…。また、書きますm(__)m