映画「フェイク」が話題になっています。
僕も映画そのものというよりは、映画を通じた「フェイク論争」に
参加したくて見てきました。
この映画については、いろいろと語り尽くされているので、
映画そのものについて僕があえてここで書きたいことはそれほどありません。
映画自体は面白かったし、友人と語ったりすることも、この映画について書かれたり
話されていることを調べることも楽しかったので満足していますが、
同時に、あまりにどうでもいいこと、見ている人が議論することで、誰も傷つけない安全なこと、
だからこそ、このドキュメンタリーが今の日本でヒットしたんだろうな、ということを
考えたとき、少し寂しくも思いました。
自分にとっても社会にとっても切実で、
本当は議論したいけれど、具体的な答えもなく、議論したところで何のカタルシスも得られないどころか、憂鬱になるばかりで、自分の立場を表明することは誰かを傷つける可能性すらある、
ということを私たちはきっと好んで議論しようとは思わないはずなのです。
さて、それはそうと、
この映画は「一体何がフェイクなのか」を問いかけることが、一つの大事な主題になっています。
そこで、この映画そのもののことよりも、
フェイクとは何かを考える上でとても興味深い事柄を思い出しましたので、
今回はそれについて紹介したいと思います。
皆さんはマークケネディーというイギリス人の警官(元)のことをご存知ですか?
イギリスの
英字新聞等に目を通している人は知っているかもしれませんが、
日本ではほとんど翻訳もされていないので、知らない人の方が多いと思います。
彼は今から6年前の2010年にイギリスのメディアで、
約8年間警官という身分を隠して、過激な環境保護団体にスパイとして潜入していたということが
すっぱ抜かれ、大きな話題となった人物です。
警官という身分を隠して、環境活動家に成りすます為にケネディーは、
ヒッピーのようなロンゲでヒゲのスタイルにタトゥーを入れるなど外見面で
完璧になりきるだけでなく、
環境問題の知識や、ヒッピー的な文化(音楽、映画、ドラッグなど)も全て予習した上で
時間をかけて完璧に活動家になりきっていきました。
その為、
疑り深い活動家達も彼のことは一切疑わず、
8年もの間、環境団体の主力として、他の活動家から尊敬を集める存在となったのです。
まさに、
「インファナルアフェアー」などの潜入ものの映画さながらの世界です。
ただ、世間が彼に注目したのは、彼が驚くべきスパイだったからだけではありません。
世間が騒いだのは、
彼が実際には奥さんと子ども二人がいる父親だったのに、
スパイとして潜入した環境団体で、活動家の若い女性と恋におちて
潜入先では周囲公認の恋人同士として生活していた、ということが判明したからです。
(彼と関係をもったと主張する女性は彼女の他にも沢山いた)
ここで、メディアはこのように書きました。
「彼は実際は子どもと妻を持つ警察官だったが、
フェイクとしての環境活動家になりきり、フェイクの独身者として、
フェイクの恋人関係を続けた」と。
ケネディー氏と恋人関係にあった活動家の女性は、
彼が「フェイク=ニセモノ」であることを自分で発見し、
大変なショックを受けます。
当たり前のことですが、彼女は騙されたのです。
しかし、一方で、このケネディー氏は、
騒動の後、警官を辞め、家族とも離婚し、一人アメリカに移住することになりました。
フェイクを辞めた彼は、
本物(フェイクではない)の自分であるはずの警察官にも、
2児の父親にも戻れず、
フェイクでも本物でもない第三の人生を歩むこととなったのです。
彼はローリングストーン誌のインタビュー(2012)にて、このように語りました。
(長い記事の意訳です)
警察官として、環境団体に潜入したが、彼らと生活をともにするうちに
最初はふりでやっていたビ-ガン(ベジタリアンの厳しい方)の食事を
家に戻っても止められなくなっていった。
活動家とは本当の友人になっていった。そして、恋人になった女性とは
本気で恋に落ちた。今までこんな気持ちになったことはなかった。
彼女とは本気の恋愛だった。
つまり、職務として、フェイクの環境活動家になりきっていた彼は、
次第にどちらが本当の自分なのか、わからなくなってしまった、と言うのです。
元々、代々が警察の家系である彼は、
警察官であることに誇りを持っていたので、
活動家への愛着、本気の友情や愛情を持ちながらも
警察を裏切ることはなく、職務に忠実に情報を警察に漏らし続けました。
活動家の女性と本気で恋に落ちたと証言しながらも、
彼は定期的に実家に戻り、家庭人として本来の自分に戻ることも忘れませんでした。
つまりは、彼は本来の自分(警察で2児の父)も、フェイクの自分(活動家で、若い女性と交際中)も、どちらも手放せなくなっていったのです。
最終的に彼は、そうした葛藤に悩み続けた結果、警察を辞め、活動家も辞め、(どちらからも追い出されたとも言える)
どちらでもない自分になりました。
さて、そこで冒頭の「何がフェイクなのか」論に戻りましょう。
アメリカに渡り、山の中で一人暮らしをしながら、
どちらでもない自分になった彼は、自分に絶望し、死を考えた、とインタビューに答えています。
僕は彼のインタビューを読んで思わず同情してグッときてしまったのですが、
その後、別の記事で彼に裏切られた女性のインタビューを読んで驚きました。
なぜなら、彼女の発言によれば、
彼は、彼女を騙して、何の釈明もしないでアメリカに逃げたくせに、
被害者面して、自分に都合の良い記事を売り込んでいる、というのです。
つまり、僕がちょっと感動した記事は、
(彼女によれば)彼の売り込んだ記事(ということは金をもらっている)で、
そう言う意味では、記事による彼の説明は全部彼に都合の良い「フェイク」かもしれないのです。
事実、その後調べてわかったことは、
記事では山の中で隠遁生活をしているはずの彼が、
その後、潜入捜査のコンサルタントを行う会社を設立していたのです。
人を騙すようなことはもうごめんだ、と言っていたのに、
人を騙すことを商売にすることを彼はやめていませんでした。
ただ、一方で彼も生きていかなければならないことを考えると、
生活の糧を得る為に葛藤の末に選択した職業なのかもしれません。
映画フェイクと同じで、彼がどんな心境でその選択をしたのか、
本気で愛したはずの彼女に釈明をしようとしないのか、
それは本気の愛だったゆえなのか、それともフェイクだったせいなのか、
きっとそう簡単にわかる問題ではない、と僕は考えます。
だから、いくつかの記事を読んだだけではマークケネディーという男性が
悪い人間なのか、良い人間なのか、どちらでもないのか、
当然のことながら判別はつきません。
長くなってしまいましたが、
僕が言いたかったことは、
このケネディーの問題は、何がフェイクなのか、ということを
二重にも三重にも問いかけているように思える、ということです。
彼が潜入捜査官として活動家を装っていたことはフェイクだったとしたら、
その後何気ない顔をして、家庭に戻り、恋(不倫)をしたことをおくびにも出さず、
父親を演じていたこともフェイクだったとも言えるはずです。
そして、彼が恋に落ちた、という女性の活動家と恋人生活を送っていたのは、
本当の愛だったのか、職務上のフェイクだったのか、不倫としてのフェイクの愛だったのか?
彼がアメリカで、新しい生活を送ったのは、
フェイクに疲れて、本当の自分になるためだったのか、それとも
本当の自分と向き合うことを恐れて、真実から逃げただけで、
今もフェイクの人間として暮らしているのか?
本当はもっと複雑な問題なのに、
ざっと書き出しただけでも、はっきりとわかることは、
何がフェイクで、何がフェイクでないかなんて、本当に判別がムズカしいということです。
何か、偉そうに真実めいた結論を言ったようで、実は
何の結論にも達していませんが、
以上が映画「フェイク」を見たことで思い出した
マークケネディーという人の人生について、でした。