宝剣(寶劔) | 東北HIPHOPプロップスのブログ

宝剣(寶劔)

奈良市の東大寺・大仏殿内で明治時代に見つかった国宝・鎮壇具(ちんだんぐ)のうち2本の金銀荘大刀(きんぎんそうのたち)(ともに刃長約80センチ)が約1250年間、所在が確認されていなかった正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようのほうけん)」「陰寶劔(いんのほうけん)」だとわかり、同寺と元興寺文化財研究所が25日、発表した。



東北HIPHOPプロップスのブログ




 陽寶劔、陰寶劔は聖武天皇(701~756年)の遺愛品で、妻の光明皇后(701~760年)が献納した後、正倉院から持ち出され、“幻の宝剣”となっていた。

 鎮壇具は1907~08年、大仏の右ひざ付近の須弥壇(しゅみだん)から出土した。金や銀で装飾された大刀6本や銀製小壺(しょうこ)など計19件ある。奈良・同研究所保存科学センターで、金銀荘大刀2本をエックス線で撮影したところ、刀身の根もとに「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」と象眼された銘が確認された。刃の長さや把(つか)にサメ皮を使った点なども、正倉院宝物の目録「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」記載の陽寶劔、陰寶劔と一致した。

 国家珍宝帳は、聖武天皇の遺愛品を756年、妻の光明皇后が東大寺大仏に献納し、正倉院に収めた宝物の目録。陽寶劔、陰寶劔は大刀100本の筆頭に記され、最重要の刀とされる。陰陽一対で万物の調和を願ったらしい。

 陽寶劔、陰寶劔は、国家珍宝帳のうち、後に持ち出された「除物(じょもつ)」の付せんがある7点のうち2点。正倉院の「献物出用帳」には、光明皇后が亡くなる約半年前の759年12月に持ち出された記録が残る。「除物」扱いの宝物で、所在が特定されたのは初めて。


この時代、大宝元年(702年)朝廷より発せられた法典『大宝令』の刀剣に関して「営繕令」には「年月及び工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」とあるが、その後二百数十年の間に正倉院御物をはじめ、年月・姓・名を刻したものは発見されていない。

つまり、製作された刀剣は製造年月日か刀工の名前を刻むように朝廷の大宝令で定められていたということ。しかし、実際のその時代は中国に倣い、刀工銘ではなく剣銘の「号」を記していたと思われる。
その後、平安時代には段々と刀工銘が定着していったと思われている。


先日のビフォーアフターでの煤まみれの板に描かれた200年前の設計図もそうだが、エックス線撮影で二宝剣の錆びた象眼を確認できたというのも、現代の最新技術の賜物だ。



東北HIPHOPプロップスのブログ