アデル、ブルーは熱い色(2013年 179分)

監督:アブデラティフ・ケシシュ

主演:アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥ

 

2014年の春か夏だったように思う。その頃は今ほど映画に対してそれほど情熱が無かった当時でもこの映画の評判を聞いていた。どうやら圧倒的な熱量の映画であるということだけは耳にしていた。

 

上映時間が3時間あるということもあって、長らく敬遠していたけど機会ができたので見た。

 

なるほど、圧倒的な熱量の映画であることは理解できる作品だった。アデル、ブルーは熱い色というタイトルぴったりの映画だと思う。

 

まず、第一に主演二人の存在感がこの映画の重要なウェイトを占めている。

アデルは普通の女の子に描かれるのに対して、エマは一種のこの世のものではないような危ういバランスで描かれている。エマ演じるレア・セドゥの存在感の説得力がすごい。後から考えると彼女にしか演じられない。

 

序盤にアデルがトマという男の子に出会うんだけど、500日のサマーみたいな出会い方をしていて良かった。ザ・スミスほど媚びてないけど、音楽の話で意気投合するの、最高かよ。こんなことなったことねーぞ。

それと、色々なジャンルの音楽を聞くけど、ハードロックは苦手だと言うアデルの意見にも概ね同意だ。彼女の家にはブエナビスタ・ソシアル・クラブのポスターが貼ってあったりする。おれの家にも貼ってあるぜ。

 

この映画を見ていて思い出した映画は、グザビエドランの映画一連(特に私はロランス、テーマだったり授業風景が似ている)、同年公開のリチャード・リンクレイターの6歳のぼくが大人になるまでなんかを思い出したりもした。

特に6歳のぼくが大人になるまでは公開時期が奇しくも重なったりだとか、劇中の音楽の使い方、どちらの作品もサウンドトラックのようなものではなくて、実際に劇中で音楽が演奏されていたり、登場人物が聞いていたりする音楽が採用されている。

6歳のぼくが大人になるまでの成長したその後を描いたみたいだ。

 

演出なんかも練られていて、劇中何度か授業風景が描かれるんだけど、その授業内容と実際にアデルの身に起こる現実がリンクしている。最初の一目惚れに関する授業の後に、エマを街中で初めて見かけたりね。

 

この映画を見ていて、授業の内容だとか、エマやその友人がやたら哲学的だったり抽象的な会話をする。フランスなど、そういう宗教が生活の身近にある国では、そういった哲学的だったり抽象的な思考なんかが幼い頃から敷居の低いものとして根付いているのかななんて思ったりした。

 

アデルとエマの生きている環境の違いみたいなものをより象徴的に描かれている。

アデルの友人や周りの人たちはより実存的で将来を見据えたことを話題にすることが多いのに対して、エマの周りの人たちはもっと抽象的で一般論や理想論に通底するようなことを口にする。アデルが建前としての感情を表現するのに対して、エマやその友人たちはそんなものを取り払って素直に自分の思ったことや好きなものに対して話す。

そのため、アデルはエマの前でしか素直な感情を吐露しない。ある一箇所でアデルがエマに対して素直に答えない箇所があるんだけど、そのことが彼女の運命を左右する演出も非常に丁寧で良い。

 

途中エゴンシーレの話題が出てくるけど、エマの姿形そのものがもうすでにエゴンシーレのポートレイトみたいだ。

 

3時間という長い映画だったけれど、もっともっと長い時間でも破綻しないで成立する映画だと思う。実際にこの映画を撮影するための撮影期間は5ヶ月で750時間の中から編集して作り上げたらしい。

 

もう何回も言うけど、本当に主演二人がマジで最高で最高だった。最高かよ。(最高)

 

運命を逃してしまった人たちの話でもあるので、見るのには少しまた時間が必要かもしれないけど、この映画を見ていると素直に今自分のやりたいと思えることをやってみようという気持ちになれる。

6歳のぼくが大人になるまでと対を成す、自分が何をしたいかわからなくなってしまったときにまたもう一度見返したい映画だ。

 

A+