アカと言う猫。 | プラネタ旅日記

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児童書専門古本店プラネタ(無店舗)の管理人が細々~となにやら呟いております。大半は読書記録。時々頭の悪さと猫馬鹿具合を炸裂させてます。


開け放した窓の外に、茶トラ混じりの猫が座っていた。
ピンク色のノミ取り首輪をした、この辺りでは珍しい「飼い猫」風の猫だ。
名前を、「アカ」と言う。
「赤」なのか「あか」なのか、表記は知らない。
我が家から徒歩で4~5分の大叔母宅の近所に住む飼い猫「ちゃー」の喧嘩相手である。
窓の外で「アカ」は、どこか寂しそうな顔で我が家を覗き込んでいた。
大黒柱を気取る長男の次郎が来ない限り、威嚇されることなく部屋を覗き見ることが出来る。


「アカ」は元々、大叔母宅の近所の老人の飼い猫である。
が、高齢の老人は病気を患い入院してしまった。今のところ、帰宅の見込みはないらしい。
老人の愛情を一身に受けた「アカ」は自由に外を闊歩しながらも眠るときは老人と同じ布団で甘えた。
が、老人の家族は老人のいない家に「アカ」が存在することを許さなかった。
家に入る「アカ」を追い出し、甘えてくるのを蹴飛ばして放置した。
それを知った老人の近所の友人が、時折、えさを与えているらしい。が、家に入れ、愛情を注ぐことまではしなかった。
庭先に現れるのを、声をかけ、食べるものを与え、時になでる程度。


大叔母は動物好きで、「アカ」を哀れに思うが自宅の猫と喧嘩するので追い払う。
そんな猫が、我が家の窓の外に座っている。
こちらもとうとう2桁に突入した都合上、これ以上増やすわけにもゆかず、その姿を見守るだけに留めている。
「アカ」の目は人間を疑い、怯え、警戒し、それでも信じたいと訴えていた。
いつかその手が、自分の頭を撫で、喉をさすることを期待している。
彼にとって人間は、決して危害を加えるはずのない生き物だったのだ。


老人はまだ戻らない。
半分以上ノラになった「アカ」は、老人の帰宅を待っている。


小さな市の小さな町の一角。
何人の老人が犬や猫を育て、何人の家族が飼い主を失った犬や猫を放置しただろう。
我が家の次郎は、生後半年ほどで迷い込んできた。
空腹よりも愛情不足を訴えて、食べることよりも人に甘え、人と眠ることを望んだ。人の後を追い、いつも人について回った。
あり、うり、なりの母猫だった「似羽」は可愛い首輪をしたままやせ細って迷い込んできた。
彼女の目は人間を愛することを忘れていなかった。
2週間ほど前、我が家にやってきた李織も、小さな体で愛情を求めた。
田舎故に、去勢・避妊手術をしないまま首輪もせずに自由に外に出して飼育する家庭が多い。
猫は外で暮らすものであり、ネズミを捕るものであり、いずれ消えていく存在なのだ。
妊娠した猫はどこかで子猫を生み、人間の手によって処分される。もしくは、病気や事故で死んでいく。運が良ければ、生き延びる。
それが未だ「普通」と認識されている。
その後始末をするのは、本当に動物を愛する人。ボランティアで去勢・避妊手術をする個人。NPO法人。見捨てられず、家に入れる人。
その辺に猫がいたって、気にしなければいいのだ。
空腹を訴えて鳴いても、やせ細って現れても、風景の一つと認識すればいいのだ。
「仕方ない」と割り切ればいいのだ。
子猫が鳴いたからと言って、心を痛める必要はないし、自ら進んで保護しなくてもいい。
何故そう思えないのだろうか。
我が家だっていつも「多頭飼い崩壊」の文字に怯えているのに。


伯母の近所の主婦が昨年亡くなった。
何匹かの猫を可愛がっていたが、最近その猫たちが伯母宅に侵入してくる。
最初は、庭先の老犬のえさを食べていた。その程度ならと好きにさせていたら、最近は猫用の出入り口から台所に入り込み、飼い猫のえさを荒らすどころか人間の食べ物まで荒らしていく。
パンを盗み、鍋をひっくり返し、シンクの残飯を食べる。
残った家族が面倒を見ていないのだろう、残された猫に罪はないと我慢していたが、いよいよ堪忍袋の緒が切れて苦情を言いに行った。
去勢も避妊もせずに飼育していたために、倉庫をねぐらに繁殖し、今では何匹いるのか把握さえ出来ていないのだそうだ。
えさも与えてはいるらしい。
捕まえられる子から去勢・避妊をするなど、何とか対策を考えると約束をして戻ったらしいが、その対策が、猫の処分であったらどうしたら良いのだと伯母を悩ませた。


自分が死んだら、猫たちをどうするのか、といつも思う。
我が家の場合、私が死んでも、母が面倒を見てくれる。逆もまた然り。
独居老人である大叔母に何かあった際には、我が家で犬と猫の面倒を見る約束になっている。
子供のいない叔母夫婦に何かあっても、我が家が面倒を見る。
もしも我が家2人同時に何かあったときにも、大叔母と伯母夫婦がうちの子たちの面倒を見てくれる。
けれど、そんな家ばかりでもない。
以前病院で、残してきた猫が心配だと話す老人を見た。
去勢・避妊手術をして数こそ増えなくても、たかだか1匹を一生面倒見るのに大したお金は掛からなくても、家の中にいることさえ不愉快と思う家族はいるのだ。
保健所に連れて行くのは忍びない、そのまま離してやれば野良として生きていくと思い込む人間もいるのだ。


これからも、「アカ」は生きていく。
去勢手術をしていないが故に、命を増やしながら。
気にする人間と、気にしない人間との間で、数を増やしたり減らしたりしながら、動物たちは生きていく。
猫も歩けないような町には住みたくないと、私は思う。
けれど、猫が自由に闊歩する町こそ、人間の犠牲になる生き物の世界と隣り合わせなのだ。