桑名市博物館の特別企画展「桑名、文學ト云フ事。-芭蕉・鏡花・中也-」の見学記も、四日目になります。
今日のテーマは、泉鏡花。
桑名市のウェブページ「【博物館】特別企画展「桑名、文學ト云フ事。」のご案内 」に、
泉鏡花の代表作である《歌行燈》は、鏡花が明治42年(1909)に桑名・船津屋に一泊した際に着想を得た作品です
と紹介があります。
受付でもらった「出品目録」を見ると、泉鏡花関係資料は石川近代文学館4+泉鏡花記念館7+金沢市立玉川図書館1の計12点。
初出の雑誌『新小説』(1909年)、単行本『歌行燈』の初版本(春陽堂、1912年)、大映の映画『歌行燈』(1960年)の台本にポスター
と資料が並ぶ中、やはり注目すべきは、彼の自筆原稿でしょうね。
まずタイトルですが、「はかたうた」という文字が、二重線で消され、「歌行燈」と訂正されています。
「歌行燈」の原題は、「はかたうた」だったということになります。
また、原稿用紙の左上には「臨風文庫」との朱印が。鏡花と親交の深かった、笹川臨風の旧蔵だったのでしょうか。
伊藤整は「『歌行燈』の頃-日本文壇史第百五十七回-」*の中で、1909年11月の講演旅行を取り上げ、
彼は最も気のおけない笹川臨風のことをかねて「彌次さん」と呼ぶ習はしであったが、この旅行では、自分を喜多八のつもりで、事ごとにふざけ、臨風相手に洒落を言ひつづけてゐた
と書いています。この旅の後、彼が書いた小説が「歌行燈」(1909年)。
冒頭で、
宮重大根の太しく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり・・・・・・
と口誦むように独言の、膝栗毛五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。(略)桑名の停車場に下りた旅客がある。
と、膝栗毛第5編上を引用することから小説が始まります。
停車場で下りた二人の旅客のうちの一人(恩地源三郎)が「弥次郎兵衛」を自称したり、実はその甥にあた門付芸人の名前が「喜多八」であったりと、膝栗毛が重要なモチーフとして使われています。
ところで、鈴木啓子「引用のドラマツルギー」**によれば、1936年刊行の旧版岩波文庫『歌行燈』は、冒頭の「宮重大根」から「ふろふき」までの一節が、伏字。
編集者が、俳風柳多留に「神子を見てふとしく立てし宮柱」等の川柳があることから、神道への不敬を意識し、過剰な自主規制を行ったということのようです。
話を、桑名市博物館の企画展に戻します。
次に私が、興味を感じたのは、泉鏡花記念館所蔵の「後藤宙外他宛書簡」。
そのうちの一枚は、関西線の橋梁と思しき絵葉書で、図録によれば、1909年11月22日の日付。彼が桑名で一泊した翌日に書かれたものということになるそうです。右上に臨風の句が、左上には、
冬の月 焼蛤の 二階にて
という鏡花の句が、書かれています。
後藤宙外の著書『明治文壇囘顧録』(1936年)***に、
當時、桑名から東京の拙宅に送った木曽川鐡橋遠望の寫眞繪葉書に「眺憩楼」の朱印のあるは船津屋のことであろう。これに
蛤の焼かれながらに時雨れけり 臨風
冬の月焼蛤の二階にて 鏡花
とかうものされている。
とありますから、後藤宙外の言う桑名から「拙宅に送った木曽川鐡橋遠望の寫眞繪葉書」が、やがて泉鏡花記念館の所蔵となり、今回の展示品になったということになります。
上図は、文華堂書店発行の「桑名町全圖」。
桑名は、七里の渡しで知られる港町であり、東海道五十三次の宿場町。
その本陣跡にあったのが船津屋で、『歌行燈』には、
湊屋。この土地じゃ、まあ彼処一軒でござりますよ。古い家じゃが名代で
「湊屋」という名前で登場します。
*『群像』1966年4月号
**『文学』2004年7・8月号
***河出文庫、1954年