20140917 『逆転力』にはなぜファンが不在なのか | PIPと雪のブログ

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PIPの豊栄氏(豊栄まきちゅん氏)が見いだした、「『逆転力』にはファンがいない」問題について、僕なりの考えをまとめておこう。


指原がやっていることは、基本的には完全にアイドル史の流れに乗っている。ここで言うアイドル史とは「アイドル自身やアイドル像に関する語り口」の民主化闘争のことだ。70年代は運営が、80年代は運営と男性ファンが共犯関係的に占有していた「語り」は、モー娘。以降アイドルの手に戻され、同時にコンテンツ化された。指原の自意識語りはその延長にある。

しかし同時に、この流れを壊してしまっている。ポイントは、アイドルの自意識のコンテンツ化が「いかなる語り口であったとしても」なされる、という点だ。そう、彼女は究極のアクロバットを行う。「わたしは自意識の語り手ではない」という、それ自体矛盾を抱えたメタレベルの自意識を表明してしまっているからだ。それは個人の問題ではなく、もっと大きな射程を持った振る舞いである。蓄積されたアイドルの闘争史(アイドルの側に、語る権利を取り戻すこと)の成果によって生かされつつ、その全体に反逆しているからだ。

良い比較対象になるのが前田敦子だ。彼女は「あらゆる語りは私の自意識である」という宗教性で、あらゆるアンチを内側に抱え込もうとした。僕は、「わたしを嫌いにっても~」の有名なくだりより、「私が私の一番のアンチになる」という思考の方が胸を抉られる。一方指原は、「内側」自体を否定することであらゆる語りを無効化してしまう。あっちゃんが自らの身体にすべての外傷を引き受けるのに対して、指原は身体を持たないが故に外傷されない。この「傷つかない身体」について指原が語るとき、原理的に生身の身体をもつ(外傷し、外傷される)ファンは要請されない。

こう言い換えてもいい。ベタとメタの重なり(身体の二重化)が地下アイドルのコアだけれど、あっちゃんはベタな身体に、メタの意識をすべて注ぎ込んでしまった。「気に入らなければブロック」とは真逆の発想だ。最後まで愚直に二重化を貫徹してしまった。一方指原『逆転力』104頁の「2ch的引きこもり思考」と「常識的太鼓持ち思考」の架橋は、メタ同士の架橋であってベタのレベルが存在しない。しかしそのことによって逆説的に、彼女は「現場」に必要とされ、ベタな位置に存在可能になる。なぜ指原が必要とされるのか。外傷されないだけでなく、外傷もしないからだ。両者は完全に逆の主体モデルだ。

普通の人間として生きるのであれば、このどちらも不健全だし、アイドルとして振る舞うにあたっても、ともに極端すぎる。(この極端さにだけ、指原の近代性や主体性、「語り手」性の「臭い」が残されている。)『逆転力』はその意味で毒物であって、濱野さん抜きでPIPの皆に読ませるのは危険だったかもしれない(!)。

まきちゅん氏の違和感は二つあるのかもな。「語り」を相手に全部渡してしまうことへの違和感(葛藤)、そして、指原がその振る舞いに葛藤を覚えていないことへの違和感。(例えば、女性たちはフェミニズム的闘争の結果解放を得たはずなのに、現在、特に若い世代において専業主婦を希望する率が高くなっている現象を見るときの、フェミニストの気持ちのようなものかもしれない。)

AKBのセンターが宗教性を産み出す、という濱野さんの見立ては、半分当たっていて、半分外れているのかもしれない。AKBのセンターは、「膨大なアンチや、ネットの情念と向き合う主体」を産み出す。それはときにあっちゃんのように前近代的に宗教的で、ときに指原のように近未来的な主体となる。僕はこう言いたい。AKBのセンターは、個性の闘争というより、主体モデルの闘争である、と。これは過酷だが、文化批評としては、これほど面白いものはない。