教育の根底にあるもの―決定版/径書房

¥1,944
Amazon.co.jp

 今日から年末年始のお休みという方が大半なんじゃないでしょうか。
せっかくの連続休暇を有意義に過ごしたいと思いつつ、ダラダラしてしまいました。管理人です。

 本日の本は林竹二『教育の根底にあるもの』です。

 2013年、登校拒否をしていた生徒の数は12万人にもなるといわれる現代の学校。「教育亡国」という言葉が嘆かれて久しい近年、その危機感を30年前から抱いていた人がいました。それが著者の林竹二先生です。

 学校の先生のお仕事って大変です。国の定めた学習指導要領を1年間で生徒にきっちりと叩き込まなければならず、それに加えて道徳教育・生活指導という生き方そのものを教えて、さらには保護者まで満足させなければクレームを入れられる……本当に皆さん必死に努力して教師をやっていらっしゃるんだろうなと思います。

 でも林先生に言わせると、それはまったくもって方向性の間違った教育だというんですね。
教育とはすでにある何かを教えるものではない、というんです。そうではなくて、子供の中にある学ぼうとする力、その子にしかない宝のようなものを掘り起こしてあげるものだというんです。

 これってものすごく大変です。子供に近い場所にいないとそんなことは不可能だと思います。この定義が教育だとすれば教師は教師としての権力をすべて失い、一人の生身の人間として生徒に見られることになります。大学時代に学んだ教師としてのテクニックも、学問的知識もまったく意味がありません。林先生はこれを「教師の自己破壊」という絶対に必要なプロセスであると語ります。

 そして、自己破壊ができている教師は、子供に対して「畏敬の念」を持つことができるというんですね。何かを教えなければならない対象としてではなく、生きる力を持った一つの生命としてみることができる。そうすると、彼らが自分の力で生きていけるようにそっと手を差し伸べることができるというんです。

 そうやって手を差し伸べられた子供たちは上から何かを教えこまれたわけではなく、借り物の言葉じゃない「自分の言葉で」考えるようになっていくそうなんですね。自分の言葉で、自分の責任で考えるわけですから、学んだときの衝撃はものすごく大きなものになるんです。その衝撃で顔を覆ってしまうほどショックを受けて(別に先生が何かきついことを言ったわけではないのに)一度自分が破壊されてしまうんです。そして、再び自分を構成するプロセスを経て成長するわけです。林先生は学んだことの証明は、唯一変わったことであるというようなことをおっしゃっています。

 全体的に経験主義的な教育を良しとしている印象でしょうか。子供から出発する教育。これっていわゆるゆとり教育の考え方なんですよね。私もばっちりゆとり世代(1977~2008年に学校にいた子)で、いわゆる馬鹿の代名詞として言われることが多く肩身の狭い思いをしているんですが、この試みって悪い面ばっかりじゃなかったように思いますよ。理念としてはとてもすばらしいものだったんだけど、それによって変わったのが授業数を減らしたこと・教える内容を変えたことっていうハード面ばっかりだったのが失敗だったんだなと思います。

 この考えに苦言を呈する人もものすごく多いだろうな~と思います。やっぱりある程度の知識を詰め込んで思考の土台とすることは必要だろうし、「ゆとり()」と批判が高まっていた近年にはそういう考えがむしろ主流なんじゃないでしょうか。
 でも、大人になったみなさん。応仁の乱って何年か分かります?どこであったか分かります?誰と誰が戦ったかわかります?水酸化ナトリウムと塩酸の中和式かけます?百人一首全部覚えてます?多分完璧に答えられる人って少ないんじゃないでしょうか。管理人は応仁の乱の存在自体覚えてませんよ!!!!あんなに必死に勉強したのに、何にも残ってない。これって教育を受けたって言えるんでしょうか。

 多分この本に書いてあることを実践するのは不可能なんだろうと思います。しかし、一人の人間としていつまでも「学ぶ」ということを忘れたくないなと思いました。