母の屏東時代の写真にはほぼ全てに
『台湾 屏東 ヨシオカ』という文字がエンボスで入っている。
どれも素晴らしい写真で、写真が趣味の家族に言わせると「戦前の写真だけど相当いいレンズつかってたんじゃないかな」とのこと。
↓母の手元に残っている数少ない写真
3歳ぐらい?(ボロボロ・・)
7歳 この写真を撮るとき、ヨシオカのおじさんが「○○ちゃん、お人形持ってごらん。手は椅子にのせて・・」と指示をしてくれた。お人形はママ人形といって、寝かせると「ママ~」と声をあげた。
小学校2年生 学芸会「びっくり人形」ダンス
真黒な足がニックネームエチオピア人・・・を物語る!!
女学校1年ぐらい?陸軍病院にて。「狂女お染久松」
こんな演目↓
その吉岡写真館は、下の写真の真ん中あたり、屏東病院のブロックの宮崎造園のとなりあたりにあった。母の家はその隣にある護国院というお寺のあるブロックだったので、何かというと『ヨシオカ』のおじさんおばさんに写真を撮ってもらった。
よく見ると、その隣に福田屋というお店があってその隣は「フロヤ」。
このフロヤ、今回行ったときにまだありました。日本語が素晴らしく流暢な88歳のおばあさんと話したあたり・・・(新聞に出てるあたり)
「屏東会」による屏東市街図の全体は↓
残念なことに、母の手元にあったのは上記の写真ぐらい。祖父母のもとには家族と使用人の集合写真や子供たちの七五三など、豪華な写真がたくさんあった。それなのに、祖父母の死後、家の解体とともに誰かに捨てられてしまった・・らしい。その中には祖父母が2回にわたって帰屏したときの写真もあったはず。「りょう」さんと一緒に撮った写真も
吉岡写真館が引き揚げてどこかで営業してないかなと、母に吉岡夫妻の出身地をきいてみたけど不明。しかも子供のいないご夫婦だった。本当に屏東というファンタジーの中でファンタジーを撮ってくれた写真館だった。
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