氷の仮面 ~消滅と誕生~ 8


「今夜はもう遅いし、この辺にしておこうか。

この調子なら、本番までには、ワルツ1曲踊れそうだね♪」


「ありがとう…助かったわ…喉渇いたわね…何か飲み物持ってくるから。」


次の言葉をかける前に、彼女は部屋を出て行った。

しかしこの部屋…昔の彼女では考えられないほど、なんて無機質な部屋なんだ。


必要なもの以外、何も置いてない…


いや、必要な物すらも置いていないじゃないか!


それにこの空間には、色がない…すべて真っ白だった。


壁もソファーもラグもカーテンも!


病院でもここまで色のない部屋はないだろうという位、病的なまでに白で統一されていた。

この空間にいると、どこかおかしくなっていくような錯覚さえ覚える。


この部屋で、彼女は毎日何を思って暮らしているのだろうか?


ちゃんと人間らしい暮らしを送っているのだろうか?


言い知れない不安に駆り立てられていた時、彼女の声で現実に引き戻された。


「ねぇ、ビールしかないけど、それでいい?」


彼女の声に、返事をしてキッチンに入り、冷蔵庫を開けているレイナを見て愕然とした。


何なんだ!この冷蔵庫の中身は…


まるで昔の俺と一緒じゃないか!


いや、もしかすると俺より酷いかもしれない…


ビールと水と僅かの栄養補助食品しか入ってない。


呆然と冷蔵庫を見つめている俺に気づいたレイナは


「どうかした?」


と不思議そうに見つめてきた。


「君はここで本当に生活しているの?冷蔵庫には、食べるものが何もないし、あの部屋にだってソファー以外、何も置いてないじゃないか!おかしいだろう?」


「別に・・・必要ないから・・・」


それ以上は、何も言いたくないのか、黙り込むレイナに、クオンはこれ以上の質問は無駄と諦めてビールを2本取り出し、彼女に手渡すと、開きっぱなしの冷蔵庫を閉めた。


「何もお腹に入れないで飲むのは、身体に悪いから、何か用意するよ。」


「えっ?でも・・・ここには、食べるものは何もないけど・・・」


「さっき帰る前に、スタッフの女の子にいいものをもらったんだ。

冷えてないけど、何も食べないよりましだ。」


そう言ってクオンは、自分の鞄からトマトを取り出してキッチンに置いた。

システムキッチンの扉をいくつか開いて、まっさらのカッティングボードと包丁を取り出して軽く洗い、その上に水洗いしたトマトを数個のせると食べやすい大きさに切っていく。


「できた!さあ、向こうで食べようか。」


「ちょっと・・・何それ?切っただけじゃない!何か作ってくれるのかと、少しは期待してたのに・・・」


呆れたように一人ごちるレイナに、クオンはすまなさそうに答えた。


「料理は、あまり得意ではないんだ・・・期待に沿えなくて、ごめんね・・・

でも、最近は自炊してるので、少しは作れるようになったから、今度、ご馳走するよ。」


悪びれもせず、ウインクしてかっこつけるクオンに、レイナは思わず噴出してしまった。


「やだ・・・それ・・・全然いけてない・・・ぷっ・・ふふふ・・・」


楽しそうに笑い続ける彼女の背中を押して、クオンは元の部屋へと戻っていった。


彼女に再会して、初めて笑顔が見れた・・・よかった・・・


もっともっと、これから彼女の笑顔を増やしていきたい・・・


少しホッとしたクオンは、持っていたお皿をラグの上に置いて、そのまま腰を下ろした。

レイナも少し離れた所に座って、持っていたビールの1本をクオンに手渡した。


「まずは、お疲れ。明日も頑張ろうね。」


ビールを開けて、レイナの持っているビールにコツンと当てると一口ごくりと飲んだ。


「上手い!トマトはどうかな?」


トマトを一切れ口に放り込むと、納得したように頷くとレイナにも勧めた。

レイナは、差し出されたフォークを受取ると、トマトを一かじり


「美味しい・・・すごく甘い・・・」


「うん、いけるね!これは、スタッフの女の子が実家でたくさん採れたからとお裾分けでもらったんだけど、新鮮なものは何もしなくてもやっぱり美味しい。」


「それって・・・自分が料理できない言い訳のつもり?」


またケラケラ笑い出した彼女に、俺も合わして冗談交じりで会話を続けていく。

もうクオンというより、フランツのいい加減なお調子者キャラをフルに活用して。


久しぶりに過ごす二人の笑顔溢れる優しい時間・・・


それが一時の偶然でも、今はよかった。


「・・・でさ、アンナがこう言ったんだ・・・あっ!ごめん!」


手が引っかかって、飲みかけのビールが倒れて、白いラグに染みが広がっていく。

急いで立ち上がり、キッチンから布巾を持ってきて拭いていると、レイナの様子がおかしい事に気づいた。


「レイナ?」


「・・・・・・汚れてる・・・洗わないと・・・早く汚れを落とさないと、穢れが広がっていく・・・・・」


青白い顔で呆然と広がっていく染みを見ていたレイナは、すっくと立ち上がりふらふらとサニタリールームの方へと歩き出した。


首を捻って訳がわからないまま、彼女を見ていたが、こぼれたビールがかかったのかな?と思って、まずは汚れたラグの後始末を終わらせる事に専念した。


後片付けも終わり、彼女が戻ってくるのを待ったが、一向に戻る気配がなかったので、心配になって様子を見に入った。


洗面所に広がる勢い良く流れる水音と、丹念に手を洗い続けている彼女の後姿が、目に飛び込んできた。

近寄ってみると、もう何分も手を洗い続けていたのか、擦られた掌はすでに真っ赤になっている。


「汚れてる 汚れてる 汚れてる 汚れてる 汚れてる

早く洗い落とさないと このままでは、私はここにいられない」


俺が背後にいる事にも気づかないで、必死で洗い続けている彼女の擦り合わせた手を掴んで、水から遠ざけると、じゃあじゃあ流れ出ている水道を止めた。


「もう止めるんだ!汚れは綺麗に落ちている!このままでは、君の手のほうが傷ついてしまう!!」


手を返し赤く腫れあがった掌をそっと撫でて、ハッと息を呑みこんだ。


彼女の左手に薄く残る数本のためらい傷・・・


これはもしかして?


恐ろしく嫌な予感に力が抜けて、手を離した瞬間、彼女はまた背中を向けて、手を洗い始めた。


「止めろ!止めるんだ!」


水道を再び止めても、彼女は手を擦り合わせるのを止めなかった。


「汚れてるの・・・私は汚れてる・・・いくら洗い落としてもすぐに汚れるの!

だから部屋を真っ白にして、すぐに自分の汚れに気づくようにして、洗っているのに、とれないの!

どんどん染みは広がっていく!

このままでは私を唯一好きだと言ってくれた敦賀さんも汚してしまう!

私を捨てた母にも迷惑をかけて、処分されてしまう!汚れを落とさないと!

落ちるまで何度でも洗わないと!!」


「止めろ!!お願いだ!止めてくれ!!!」


なおも洗い続ける彼女を無理やり引張って、自分の方に引き寄せると力いっぱい抱きしめる。


「君は、汚れてなんかいない!自分をこれ以上傷つけないで!

大丈夫・・・君は、誰も汚してなんかいない・・・汚れてなんかいないんだ・・・

だから・・・もう洗わなくてもいい・・・」


小刻みに震える彼女に少しでも声が届くように、ゆっくりと優しく語りかけた。

自分の胸の中で震える彼女の手が静かに止まり、小さく頷くのを見て、力を緩め彼女の全てを包み込むように優しく抱きしめた。




コクン


クオンの諭すように優しく語り掛ける言葉が、まるで魔法のように私の心に染み渡り、長い間凍っていた心が少し融けていくのを感じていた。



大丈夫・・・君は、誰も汚してなんかいない・・・汚れてなんかいないんだ・・・



どうして何の確証もない言葉なのに、こんなに安心できるんだろうか?


とてもいい香りがして、温かくて、気持ちが安らぐ。


この感じ・・・私は知っている。

昔、大好きだったあの人の感触にそっくりだ。


『敦賀セラピー』


あ~、この人はやっぱり敦賀さんに似ている。

髪の色や瞳の色ではなくて、根本が・・・


こういう人間離れした美貌の持ち主は皆、こんな超人的な不思議な魔法を持っているのだろうか・・・


でも私は、こんな安らぎを与えてもらえる資格のない人間なんだ。


早く離れないと!


でも・・・少しだけ・・・今夜だけ・・・


神様、もうこれ以上は願わないので、もうちょっとだけ、このままでいる事をお許し下さい・・・


クオンの広い背中にそっと腕をまわして、彼の優しさに甘えるように顔を埋めるキョーコだった。


9へつづく



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