なにゆえ | piajkdfaのブログ

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「なにゆえ、京に」
 問いかけると、この都かぶれの男は、薄丸の眉を押し上げて、にたあと微笑んだ。
「三河守に、京に出かけてみてはどうかと薦められた次第でおじゃる。上総介殿が入洛されているというので。しかし、三河は訳のわからぬことを申しておりました。丑三つ時は成ったこと、上総介殿に伝えてほしいと」
「なるほど」
 上総介がうなずくと、刑部は満悦そうに頬を緩めた。
 矮小な彼の仇は、父を討った上総介ではない。自らの居場所を追い出した武田家であった。
 その後、今川刑部は公家たちとともに蹴鞠を披露した。彼は名門今川家を一代で潰してしまった愚将中の愚将であったが、蹴鞠だけはどうしてか達人であった。
「竹」
 上総介は傍らに従えていた長谷川藤五郎に言った。
「愚将と呼ばれる男でも、使いようによっては達人にもなる。うつけをうつけと決めつけてしまう奴こそ、真のうつけよ」
 刑部や公家どもが蹴鞠に興じるのを前にして、第六天魔王はいつになく上機嫌であったが、ややもすると、織田全軍を統べる総帥の眼差しへと変えて、藤五郎にひそかに囁いた。
「岐阜の奇妙に伝えておけ」
「御意」
 天下の人々は、まだ、何が起こるか知るよしもない。
 冬の峠も越えて、市中にも花がほころび始めた春、京に駐在していた上総介は、馬首を摂津へ向けた。和睦を破棄した石山本願寺の攻撃及び、河内国に残る三好の残党狩りであった。
 このとき、上総介は、事実上の摂津目付役となっている細川兵部大輔に、公的な書状を送っている。
「来たる秋、石山合戦を申しつける。しからば、そのほうに丹波の国人衆を与力として付けるため、粉骨砕身働くよう」
 ところが、秋と言いながら、上総介は織田領内の各地から兵を集結させて、十万の大軍を形成せしめた。織田軍は河内高屋城を根城にしていた三好残党を一挙に攻め、城主の三好笑岩は名物の茶壺を上総介に差し出して降伏。http://www.fhdtl.com" title="
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 さらに、かつてない大軍勢を要して織田軍は石山に押し入った。が、堅牢な石山御坊を目前にして、実際に行ったのは、田畑に植えられた苗や麦を刈り取っていく作業であった。
 比叡山を焼き滅ぼし、長島に地獄図を描いた織田軍の、らしくない嫌がらせであった。それどころか、上総介自らが率先して麦を刈っていき、その光景は、真意を知らない者には唖然とする驚愕であった。
 また、一向宗を日干しにするつもりなのだろうか――。
 将から兵卒まで、石山での長期戦を覚悟した。岐阜に戻れるのは、故郷に帰れるのは、一年後か、はたまた二年後か。
 しかし、花も散り、初夏の香りが漂い始めた四月末、本陣の天王寺に急報が届いた。
 武田大膳大夫、出陣。
長篠城

 武田大膳大夫出陣の一報を受けた上総介は、石山包囲を荒木摂津守、細川兵部大輔に託し、佐久間右衛門尉、柴田修理亮、丹羽越前守、塙備前守、羽柴筑前守、簗田右近大夫と共に、総勢三万の兵を連れて、京へと引き返した。
 明智日向守に早馬を送り、坂本から佐和山までの航路を取るため、船団を用意するよう伝えている。
 しかし、入洛すると同時に、畿内には嵐が吹いた。
 宿所を置いた相国寺に、明智日向守自らが風雨を突いてやって来て、湖上の波は荒れており、航路を取るのは不可能であると上総介に申した。
 紙一重であった。
 石山侵攻のそもそもが、武田大膳をおびき寄せるためであったので、勘九郎が岐阜に残っているものの、二万五千の武田軍を相手に、すぐさま長篠に援軍を差し向けられるような兵数は揃っていない。
 だからといって、悠長な真似はしていられなかった。
 長篠城の守兵は五百である。いくら屈強な三河勢とはいえ、持ちこたえられるのは二日か三日。もっとも最善