「禅と阿頼耶識(あらやしき)」 その六

「自分が拡散していく」
と言う事は、これはあくまでも僕の認識ですが
「阿頼耶識・アラヤシキ(集団的無意識)」
の低次元に位置する
「マナ識(個人的無意識)」
の入り口に差し掛かった、と言うことになるのだと思います。

今「マナ識」という言葉が出てきました。
実はこの意識を乗り越えたところに、さらに高次元の「アラヤ識」の領域があ ります。
仏教で言う所の「阿頼耶識」です。

これは釈迦が最後の戦いで打ち負かし乗り超えた領域で、ここに至って釈迦は悟り「仏陀」となります。
宗派によっても、解釈が異なるようです。
ただ、僕は改めて書きますが無神論者ですので、仏教的な解釈についてはここでは、触れようとは思いません。

非常に難しい概念ですが、ユング心理学でいうところの
「個人的無意識」→マナシキ
「集団的無意識」→アラヤシキ
で解釈すると、わかりやすいかも知れません。
これに関しては、ある程度語ることが出来るかもしれませんが・・・
膨大な文章になってしまいます。
興味のある方は、関連の本をお読みになるか、機会がありましたら南雲と語り合うのも良いかもしれません・・・笑
「マナシキ、アラヤシキ」については、ここで切り上げさせていただきます。

さて・・・
ここ数年、僕が写真を撮る行為と座禅する行為は、非常に共通点がある・・・と考えています。

そして、「座禅」の特色として指摘できるのは「集中」と「拡散」が同時進行で進むという事です。
つまり、集中できないと拡散できないし、拡散できれば集中できる、と言う事です。
「座禅」においては「集中」と「拡散」が同義語として、僕的には認識できます。

僕が写真を撮る時には”意識的に”「拡散」と「集中」を繰り返します。

そして、座禅がより高度だと思われるのは”意識的に”という心をも、捨ててしまわなければならない・・・
と言う事なのです。
何もしないでただ座り一点を見る・・・
「無」
の状態。
そして心を空っぽ・・・文字通り
「何も考えない」
で、ただただ座り一点を見つめている作業なんです。
そして
「何も考えない自分」
をも捨ててしまう・・・
つまりこれが
「空」
の状態ですね。

もちろん僕などは「無」の入り口が見えてきただけのことで、とても「無」にはなれません。
そして、とてもとても「空」にはなれません・・・
僕が、こんな文章を書くこと自体、野狐がなせる業であります。

先人の「無」または「空」とは、いったいどんな状態、どんなモノなのでしょうか?

弓聖と言われた阿波 研造(あわけんぞう・1880年-1930年)の言葉より抜粋。
「私は的が見えなくなるほど目を閉じる。
 すると的は私の方に近づいてくる。 
 そして的は私と一体となる。
 矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。
 的は中心から出て中心に入るのである。
 的を狙わずに自分自身を狙うのだ。
 矢を射るのではなく、的に射られるのだ。」

「無」
「空」
に、ほんのわずかでも近づき
「被写体を撮るカメラマン」
ではなく
「被写体に撮られる写真」
を目指したい、と野狐南雲は思っています。

続く・・・

南雲賢

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