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2015年08月21日

「時代が哲学を必要とし、哲学が実際に役立つようになるのは、少しもいいことではない」

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大竹弘二+國分功一郎『統治新論──民主主義のマネジメント』(太田出版)「あとがき」より

 本書では、現代政治を巡る諸問題が思想と歴史の観点から論じられている。おかしなことを言うようだが、私はいま大竹さんとの議論を振り返りながら、そうした観点がどれほど有効であるのかを実感している。たとえば、行政と主権の関係、立憲主義の定義、法の制定と運用の問題などといったトピックは、近年の政治上の論点に直結するものであると同時に、思想と歴史の知識がなければなかなか理解が難しい、そうした難題でもある。おそらく我々はいま、思想と歴史の知識が直接に必要とされ、また直接に役に立つ、そのような政治状況を生きている。

 もちろん、「いつだってそうであったはずだ」と言われるかもしれない。おそらくそうなのだろう。だが、少なくとも私の肌感覚としてはこの20年で事態は大きく変化した。大竹さんと私がともに大学生として政治学を学んでいた1990年代中頃は、「政治思想や政治哲学などを勉強していったい何の役に立つのか?」という問いがまだ真剣に議論されていたように思う。つまり、それらは役に立たないように見えた。そして、そのように見えたのは、おそらく、実際にそうだったからである。私自身にしても、哲学に関心をもったのは、それが何かの役に立つと思えたからではない。単におもしろかったからである。

 ところが時代は変わってしまった。哲学は実際に役立つものになった。思えば、時代が哲学を必要とし、哲学が実際に役立つようになるのは、少しもいいことではない。なぜならそれは、哲学がなければとても太刀打ちできない難題に時代が直面していることを意味しているからである。本書において大竹さんと私は何度も17世紀に遡って議論したけれども、17世紀こそは近代哲学が創始された世紀であったと同時に、ヨーロッパ政治社会の危機の世紀であった。我々を取り巻く状況が、あの時代の混乱に相当するものかどうかは分からない。けれども、あの混乱の時代に必要とされた哲学が、いままさに必要とされていることは確かであると思われる。

 たとえば「立憲主義」という言葉が毎日のように新聞を賑わせていること自体が異常ではないのか。そんなものは憲法がある国なら当然視されていて然るべき考え方であって、立憲主義を守るという課題が生まれることそのものが、何らかの危機、あるいは不幸の存在を我々に告げている。そして、危機や不幸に対応するためには、まさしく大竹さんがまえがきで記しているように、ラディカルでなければならない。問題の「根っこ(ラディクス)」にまでさかのぼらなければならない。思想や歴史を学ぶこと、あるいは哲学を身につけることは、その実践である。

『統治新論──民主主義のマネジメント』太田出版サイト

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2015年01月30日

【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)

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最近、精神分析に対する自分の考えを表明してほいた方がいいかなと思うことがありました。
岩波版『フロイト全集』第19巻(2010年6月配本)によせた文章をここに再掲します。
少し前の文章ですが、自分の考えは変わっていません。




素人による精神分析読解の問題

 

國分功一郎

 

 フロイトは医者だった。一八八一年にウィーン大学医学部で学位を取得しており、一八八六年にはウィーンでクリニックを開業している。フロイトの名は精神分析から切り離せないが、これはフロイトが医者として患者に接するなかで自ら創始し、様々な変更を受けいれながら発展させていったものである。つまり、それは、彼がヒステリーや神経症に苦しむ患者を治療するために作り出した理論である。

 すると次のような疑問が出てくるのは至極当然のことであるように思われる。たとえば筆者のような、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が、フロイトの精神分析についての書物を読むとはいったいどういうことなのか。しかも、今回の全集発刊はこの問いを再び読者に突きつけてくるものである。これまで幅広く利用されてきた人文書院版著作集が独文学者を中心とするチームで翻訳されていたのに対し、現在出版中の本全集では、主として精神医学の専門家が翻訳に携わっているからだ。

 

 おもしろいから読んでいる――非常に高い確率でそのような答えが戻ってくることが予想される。もちろん、そこには「娯楽として」とか、「知的に」「学問的に」とかいった形容がつくかもしれないが、それは大して重要なことではないだろう。「へぇ、こんな症状の人が本当にいるんだぁ」という感想も、「この理論は自分が専攻している領域でも使える」という感想も、苦しむ人間を救うために作り出された理論をおもしろがっていることに変わりはない。


 ここ三、四〇年の間、精神分析は様々な他の学問分野に応用されてきた。精神分析をおもしろがることがおかしいのかどうかについての判断をここで下すことはできない。ただ、精神分析をめぐるそのような事情を脇で見ながら、一九八〇年に、モーリス・ブランショが、自著にて――但し丸括弧を付して――書き記した次の言葉は傾聴に値する。

 

「(私の思うに、精神分析の語彙とは、ただ精神分析に従事している者〔ceux qui exercent la psychanalyse〕だけが、すなわち、その人にとって精神分析が危険であり、極限的な危機感であり、日々の検討対象である、そのような者だけが、使うことのできるものだ。――そうでなければ、精神分析は、一個の確立された知識体系にそなわった便利な言葉でしかない)」(Maurice Blanchot, L’écriture du désastre, Gallimard, 1980, p.110)。

 

 その著作を読む限り、ブランショの精神分析に対する理解や知識は決して深いものではない。ブランショは完全に精神分析の素人である。だが、彼が素人であるが故に、この率直な言葉は、我々の問い、すなわち、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が精神分析についての著作を読むとはどういうことかという問いにとって無視できないものである。ブランショは、端的に、「精神分析に従事している者」でなければ、精神分析の語彙など用いるべきではないと考えた。要するに、精神分析を素人がおもしろがることはおかしいと考えた。ブランショは、いわば、精神分析に関わることの倫理について考えている。我々は上で、「苦しむ人間を救うために作り出された理論」という言い方をしたが、ブランショはこのような言い方を認めてくれるのではないかと期待しても強ち的はずれではないだろう。

 だが、問題は、「精神分析に従事している者」という一言をどう解するべきかということである。というのも、どうもブランショは、精神分析を職業として実施している者、いわゆる分析家のことを念頭に置いているように思われるからである(exercerという動詞は、単に従事するというだけでなく、職業として何かを営むことをも意味する)。精神分析の語彙が理論的な意匠あるいは衣装として好き勝手に使い回されていることに対するブランショの苛立ちは理解できる。倫理の問題をかくのごとく提起するブランショは完全に正しい。だが、だからといって、精神分析理論の担い手をそのように限定してしまってよいものだろうか。いや、むしろ我々はブランショの意図を無視すべきかもしれない。「精神分析に従事している者」によってブランショがいわゆる分析家を意味していなかったにせよ、この表現をどう解するべきか。それを考えるべきではないだろうか。

 実はフロイト本人が、既に、精神分析における専門家と素人の問題を論じている。「素人による精神分析の問題」と呼ばれるテキストがそれだ(本全集では、原語表現〔Die Frage der Laienanalyse〕により忠実な「素人分析の問題」という邦題が与えられることになっている)。これは、フロイトの弟子であるテオドール・ライクが、医師免許を持たずに精神分析の治療を行った「もぐり診療」の廉で、ウィーンの裁判所に告訴されたという事件をきっかけに執筆されたものである(最終的に告訴は却下された)。「素人とは、医師でない人のことであり、問題とは、医師でない人にも精神分析を行うことが許されるべきかどうかということである」という同テキストの問いは、「医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が精神分析の書物を読むとはいったいどういうことか」という問いに似ている。さしずめ、我々の問いを、「素人による精神分析読解の問題」と名付けることができるだろう。そして、この問い、この倫理的問いを考えるためのヒントを、フロイトのこのテキストに求めることができるだろう。

 議論は、フロイト自身が或るウィーンの高官をイメージしてつくりあげたという架空の「或る中立の立場にある人」との問答という形で進められる。フロイトはまず、精神分析とはいかなるものかをこの人に説明しようとする。説明は、素人への説明としてはかなり詳細である(とはいえ、非常に要領よくまとめてあるので、分かり易い精神分析概論としても読むことができる)。それ故、いつまでたってもフロイトが問題の核心、すなわち、医師でない人にも精神分析の診療を認めるべきかどうかという問いに触れないことに、対話者がいらいらする場面が何度かある。

 その対話者は次のように問う。精神分析とは何かを説明するのに、あなた、フロイトは大変な骨折りをした。だが、それが素人による精神分析の問題にどう関係するのか。私が思い至ったのは実にありふれたケースである。神経症は特別な病気であり、精神分析はそれを治療するための特別な方法、ひとつの専門的医療分野である。外科医になろうとすれば、免許状で証明される医学教育だけでは十分でないことは言うまでもない。免許取得後、外科専門の大きな病院で研修を受けるだろう。精神分析家の場合も事情は同じではないか。大学での勉強を終了した後、精神分析の研修を受けなければならないということだろう。どこに素人による精神分析の入り込む余地があるのか…。

 フロイトは一歩下がったところから、これに答えようとする。彼がまず試みるのは「もぐり医」の再定義である。「もぐり医」とは、法的に見れば、国が交付する免許状を所持しないで診療を行う者のことである。だが、私はむしろ「もぐり医」を、「治療に必要不可欠な知識や能力を持たずに治療を行う者」と定義した方がよいと考えている…。

 フロイトによれば、当時、精神分析を学びも理解もせずに分析治療を行う医師が多数存在したという。つまり、この定義によれば、そうした医師こそが、精神分析における「もぐり医」だということになる。

 フロイトは、分析家には医師免許は必要ないと考えた。確かに医師になるための教育には、分析家によって有益なものが多数含まれている。だが、そのすべてが分析家になるために役立つわけではないし、むしろ、分析家になるためには必要ではないものがあまりにも多い。

当時はベルリンとウィーンに分析家の育成にあたる教習所【インスティチュート】があった。フロイトはこう言う。そこで養成された者たちは、医師免許はもっていないけれども、精神分析の面倒な技法をきちんと習得すれば、立派に分析を行うことができるのであって、そうした分析家は、精神分析の領域では素人ではない。「目下のところ私が強く申し上げたいのは、何人も一定の養成教育と訓練とを受けることによって資格を得ない限りは精神分析を行うべきではないということです。その場合、当の人物が医師であるかないかということは、私には副次的なことであると思われます」。

フロイトは更に、精神分析のための専門大学が設立されたとしたらという仮定の下に、精神分析教育に必要な学科目についても説明している。そこでは医学部でも教えられている深層心理学や生物学の基礎、性についての知識、病理学などが学ばれねばならない。だが、それと同時に、医師とは全く無縁な知識も学ばれる必要がある。文化史、神話学、宗教心理学、文学などがそれだ。

対話相手は結局フロイトの考えには納得しない。彼は、現に存在している、医師免許を持たない分析家のことをとやかく言うつもりはないと前置きした上で、「何のために素人分析家が存在すべきなのかという積極的理由はさっぱりわからない」と言う。フロイト自身、「あとがき」で、自分はこの対話相手のモデルになった人物を納得させるには至らなかったので、この擬似対話も、意見が一致するという結末にはしなかったと述べている。ここにはフロイトの誠実さが読みとれる訳だが、その点は措いておこう。とにかく、フロイトの答えに納得するかどうかはともかく、この答えは明解である。分析家になるための必須条件として医学部の修了を求めるのは、志ある者に過大で不必要な努力を求めることになる。むしろ、分析家には医学部では学ばれることのない知識が必要だ…。

確かに、これは明解な答えなのだが、しかし、この文章に、「素人による精神分析読解の問題」を考えるためのヒントを求めている我々にとっては、何か、あまりおもしろくない答えでもある。「精神分析に従事している者」は、医師でなくともよいが、精神分析のための専門的教育を受けた者でなければならないという非常にありふれた答えが得られたに過ぎないからである。「素人による精神分析」についてのフロイトの見解は、我々の問いに直接役立つところはない。

だが、ここで本を閉じてはならない。「素人による精神分析の問題」についての説明は終わった。だが、その後、文章の最後の最後で、フロイトは、分析家の位置づけではなく、精神分析そのものの位置づけについて語るのである。

精神分析の教育には、文化史や宗教心理学などが必要である。だが、逆に、精神分析はそれらの学問に貢献することができる。これら様々な分野の学者たちは、精神分析という新しい研究手段を使っていることに同意さえすれば、極めて大きな達成を得られる。そして、フロイトは続いてこう述べる。「精神分析学を神経症の治療に用いるというのはその利用法のひとつに過ぎないのであって、ひょっとしたら将来は、この利用法は最も重要なそれではないということになるかもしれません」。

 我々は、最初に、精神分析は患者の治療のために作られた理論だと述べた。確かにこの理論はそのような目的をもって作られた。だが、フロイトによれば、精神分析学を神経症の治療以外の場で用いるのは、応用ではない。外挿〔extrapolation〕ではないと言ってもいい。このことはフロイトによって明示的に意識されていた。精神分析に従事するとは、したがって、必ずしも、医師や分析家であることを意味しない。そのような利用法は、最も重要なそれですらないことになるかもしれない。

 

ブランショに戻ろう。彼は、精神分析に関わることの倫理について考えた。だが、この倫理について考えるためには、フロイトの上の一言から出発しなければならない。「精神分析に従事する者」が、医師や分析家だけを指してはならない。もちろん、ブランショはそういうことを意識した上で、医師とも分析家とも言わなかったのかもしれない。いずれにせよ、我々はブランショの意図など度外視して、彼の一言を、この倫理について考えるための足がかりにはすることができる。つまり、いかなる形で精神分析に従事するにせよ、精神分析はその人にとって、「危険であり、極限的な危機感であり、日々の検討対象である」し、そうでなければならない。

 この「危険」とは何だろうか。たとえば、フロイトは、我々が紹介したこの文章の中で、対話者に精神分析を説明するにあたり、精神分析理論がもたらす、自己の中の他者という考えを強調していた。「自分の自己はひとつだといつも思っていたのに、何だか、もう、ひとつではないような気がする、まるで自分の自己に逆らいかねない何か別のものがもうひとつ自分の中にあるような感じがする〔…〕」。いかなる形で精神分析に従事するにせよ、精神分析に従事する者は、このような認識を避けて通ることができない。

 
 たとえば、これは、日常生活でよく耳にする「自分のことは自分が一番よく分かっている」という一言の基礎を完全に覆すものである。精神分析を読解する者、精神分析に従事する者は、このような一言が全く意味をなさないという認識のもとに自らの生を生きねばならなくなる。たとえば、その時、我々は他人に対して責任というものを、どう問うことができるだろうか。そしてまた、「自分の自己に逆らいかねない何か別のもの」が何か事を為したと感じる時、我々は「自分」の責任をどう考えることができるだろうか。精神分析は「危険」である。それは我々に根本的な態度変更を迫る。今挙げた例はそのひとつに過ぎない。おそらく、精神分析をおもしろがるとは、このような態度変更が迫られているという事態に気がつかないこと、あるいは、それを無視することである。

 

 

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2014年07月24日

哲学番組『哲子の部屋』、三年目になります!

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哲学番組『哲子の部屋』、三年目になります! 

ディレクターとミーティングにミーティングを重ねて作りました。

この夏の放送。今回は初の二回構成。

しかも哲学に真っ正面からぶち当たります。テーマは「考える」!

絶対見てね!8月16日と23日の24時から放送。




「哲子の部屋」
(2回シリーズ)
8月17日(日)、24日(日)<土曜深夜>
[Eテレ] 前0:00~0:30 

 第一回のテーマは「哲学って、考えるって何?」。映画史に残る傑作ラブコメディ『恋はデジャ・ブ』を教材に“現代哲学の巨人”ジル・ドゥルーズの哲学に迫る。「人は考えるのではなく、考えさせられる」!?過去二千年以上に及ぶ哲学史の“盲点”を指摘したドゥルーズ。イレギュラーな事態が人にモノを考えさせる、という人生の見方がガラッと変わる哲学をお届けする。

 第二回のテーマは「人はなぜ学ばないといけないの?」。「鏡を見るネコ」「ダニ」「盲導犬」などを教材に、生物学者ユクスキュルが唱えた「環世界」という概念(哲学)を解説する。ユクスキュルは「すべての生物は、それぞれ異なる空間と時間を生きている」と主張した。「人は皆、バラバラの世界を生きている」!?果たして、人と人はわかり合えないのか?それを乗り越える人間の驚くべき「学びのチカラ」!アナタの人生を豊かにする哲学をお届けする。

出演者
【出演】國分功一郎(哲学者・高崎経済大学准教授)、清水富美加(女優)、マキタスポーツ(芸人・ミュージシャン・俳優)




哲子1
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2014年03月30日

「ヴィジュアル系」論

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【以前、プラネッツのメルマガに掲載した「ヴィジュアル系」論です。】

 本稿は私が昨年2012年の秋、世界最大の書籍見本市「フランクフルト・ブックフェア」を訪れた後に執筆した報告書である。報告書であるため、公表を目的には書かれていない。そのため、本文では昨年同フェアを訪れた大澤真幸さんの報告書を紹介している。それを読んでいないと少しわかりにくいところもあるかもしれないが、全体を通して言いたいことは最後まで読めばお分かりいただけると思う(なお、大澤さんには、今回のこのメルマガでの拙文公表の許可をいただいている)。題材はちょっとおふざけのように思われるかもしれないが、真面目に書いたものである。このたび、プラネッツ・メルマガ編集部のご厚意により、ここに公表する。
國分功一郎

 


 

フランクフルト・ブックフェア出張報告書

──日本の人文系研究の「ヴィジュアル系」

 

國分功一郎

私は
20121010日から1013日にかけて開催されたフランクフルト・ブックフェアに参加した。

このブックフェアは世界最大の規模と聞いていたが、まさしくその通りで、シャトルバスで移動しなければならない広大な敷地に集まった約
10の建物を書籍が埋め尽くしている様は圧倒的と言う他ない。これだけはやはり体験しなければ分からないもので、大きさだけを言ってもとてもその実感は伝わらないだろう。

私は三日間にわたり、文字通り朝から晩まで、フェアの各ブースを歩いて回り、本を見て回った。

9
日にフランクフルト入りした私は、ホテルで落合さん柴山さんと落ち合い、作戦会議を開いて当日に臨んだ。10日朝、既に何度か本フェアを訪れている落合さんと一緒に会場を歩き回り、その全体像をお伝えいただく。なお、靴はウォーキング用のシューズで来ることを勧められていた。

本フェアには
iPhoneおよびiPad専用のアプリケーションが用意されている。どの出版社がどこの建物にいるか、会期中どのようなイベントが開催されるか、どこにいけばお望みのアイテムが手に入るか、すべてがそこに記されている。便利だったのは、そのアプリケーションを経由して写真を撮ると、それをブース毎に保存してくれる機能である。あるブースで気になる本の写真を撮れば、そのブースのディレクトリーの中に写真を保存してくれるわけだ。私はメモ代わりにたくさんiPhoneで写真を撮った。

私はフランス系のことに最も詳しいので、初日は
Internationale Verlagの館でフランス語の本を読みあさった。お隣の国であるからもちろんたくさんの出版社がブースを出している。久しぶりにパリの本屋を訪れた気分になって、まるで自分のための本探しのようにブースを練り歩いて本を探した。自分はフランス語でのコミュニケーションが最も楽ということもあって、出版社の人とも情報交換を行った。

今回の出張は、日本語に翻訳して出版するべき本の調査が目的である。帰国後すぐにそのリストを太田出版に提出したが、多分、そのリストの半分近くの本を初日に発見している。初日はフランス語の本だけでなくドイツ語の本も見て回ったが、やはり「これだ!」という本はすぐに目に付くものである。歩いているだけで、本から呼びかけられる感覚だ。

二日目は英語圏の本を集めた建物に向かう。なんといってもこのジャンルが一番大きい。しかし、私の関心を引くジャンルばかりではない。英語の本は読者が多い分、私の関心に入ってこない分野の本も多い。私は大学の出版局を中心に歩くことにした。デューク大学出版、ハーバード大学出版で多くの時間を使う。英語圏は、特に人文系の本に関しては、複数の論者が論考を寄せる形態の論集が多い。論集の場合、テーマはおもしろそうでも、日本で翻訳出版するとなるとハードルが高い。あまりリストに入れていくことはできなかった。

とはいえやはり英語圏は層の厚さが違うので、いくつもの興味深い本に出会えた。私が特に関心をもったのは原子力関連の本である。日本も原発関連本はあふれているが、日本のそうした書籍よりも「科学的」というか「学術的」な本が目立った。逆に言えば、日本の原発関連本があまりにも学術色薄いものということかもしれない。

もう一つ、児童書、特に電子書籍の形での児童書が新しい市場を獲得していることに驚いた。日本はなんだかんだ言っても電子書籍の普及率は非常に低い。ヨーロッパは電子書籍に関して日本よりも積極的であるように思えた。紙の本からしてそうだが、ヨーロッパの児童書は子供だましでない。デザインが非常にすぐれている。かつてよりあるその態度とアイディアが電子書籍発行の児童書にも生かされている。日本は独自にすぐれた電子書籍児童書のコンテンツを作ることは多分難しいだろうから、これをうまく翻訳することを考えればよいだろう。日本の出版社はもっと児童書に力を入れてもよいのではないか。日本は絵本市場はかなり発展しているが、親が欲しくなるようなオシャレな児童書は非常に少ないように思う。




以上が全体に対する概括的感想と報告である。ここからは個人的な見解を付け加えていきたいと思う。その際に参考にしたいのは、前回の2011年にフランクフルト・ブックフェアに参加された大澤真幸さんの提出された報告書「Frankfurt Book Fair 2011 報告・所感」(2011/11/01)である。

私はこの報告書に強い興味を抱いた。簡単に大澤さんの論をまとめておきたい。大澤さんはこのブックフェアに参加し、日本の出版界のこれからに対して強い危機感を抱いたという。日本の大手出版社はこのフェアに参加していない。それは、日本の出版社が海外からオファーを受けるような書籍を出版していないからである。日本はコミックと小説しか輸出できていない。それはそれなりの評価を受けている。しかし大澤さんによれば、それらは「美学的」に消費されるものでしかない。つまり、海外の知性に脅威を与えるようなものになり得ない。日本が文化人類学的な興味の対象になっているに過ぎない。

ここで日本の出版社の使命はしたがって、当然のことながら、海外から翻訳のオファーが来るような理論的な思想書・哲学書を出版していくこと、となる。だがどうやって? 大澤さんはここで思いもよらない例を引き合いに出し、それを今後の日本の出版戦略立案のための参考にしてほしいと言い出す。その例とは、野球選手のイチローである。

大澤さんはイチローを松井秀喜と比較する。松井と比した際のイチローのすごさは、彼がベースボールの定義そのものの変更を迫ったことにある、と大澤さんは言う。松井はホームランを打つバッターとして頭角を現した。これは力と力がぶつかり合い、力が強い方が勝つというこれまでの「アメリカ風」のベースボールの定義そのままのプレイである。したがって、松井は日本ではすぐれた選手として目立っていたが、メジャーリーグにいくとそこまでの活躍はできない。松井のような選手は既にそれなりに存在しているからである。

それに対してイチローはこれまでのベースボールが想定していなかったプレイを発明する。それはボテボテの内野ゴロであっても、俊足によってヒットをもぎ取るというプレイだ。普通は内野ゴロになると、その時点で勝負はついていると判断されて、投球を見守っていた野手達の緊張感はほぐれる。ところがイチローがバッターボックスにいる場合は違う。イチローがボテボテの内野ゴロを打った瞬間に、最大の緊張感を強いられるドラマが始まるのだ。

しかもイチローはボールのリリース後に、ピッチャーの投球にあわせてバットを振るという特殊な技をもっており、それが驚異的な安打数につながっているという。大澤さんによれば、これはイチローがあくまでも受動的に振る舞っていること、受動的に振る舞うことによってむしろ自由を発揮していることを意味している。そして、大澤さんはこれを「非常に日本的なアイディア」だと指摘する。これは西洋的な文化のコンテクストではなかなか出来ない発想である、と。

報告ではこのイチロー的発想を出版の具体的戦略に直接結びつける記述は見られないが、ここで意図されていることは明らかであろう。西洋とのパワー合戦に勝利しようなどといきり立たないこと。そして、むしろ受動的に振る舞うことで自由を獲得し、それによって相手にゲームのルールそのものの変更を迫るような球を打ち返すこと。

私はこの大澤さんの説明に非常に興味を持った。というのも、いわゆる「海外で本を出版する」ということについて私がぼんやりと考えていたことに説明とまでは言わないまでも、イメージを与えてくれたように思えたからだ。敢えて単純化して言えば、これまで「日本の思想」に関しては、日本の内部でべったりと自己満足にひたりきって存在し続けるか、海外とのパワー合戦で勝つといきり立つか、そのどちらかしかなかったように思う。その際、「イチローの思想」は非常に示唆的である。

ここで私はこの大澤さんの論を受け、「イチローの思想」に非常に近い事例を取り上げたいと思う。それは、いま日本文化の中で相当な海外進出を果たしている分野でありながらも、当の日本ではそれほどその事実が知られていない分野である。そして大澤さんが日本出版事情を語りながらイチローに突如言及することが唐突に思われたように、私のその事例に対する言及も同じく唐突である。その事例とは「ヴィジュアル系バンド」である。





「派手な化粧やファッション、独自の様式美で異彩を放つ日本のビジュアル系バンドが世界を圧巻しているアニメやコスプレと連動し、数々のバンドが海外公演を成功させるなど、今や音楽を超えた「日本の文化」だ」。

これは共同通信の記者、多比良氏の手による
2011年5月頃の配信記事である(本稿では20116月7日づけ京都新聞に掲載された記事を参照している)。

ヴィジュアル系についてご存じない方のために説明しておくと、これは化粧などをして派手に着飾った男性ロックバンドの総称である(敢えて言えば70年代のグラムロックに少し似ている。しかし、音楽的傾向や趣味の傾向などは全く異なる)。
1989年にメジャーデビューした「X JAPAN」(当時は「X」)がその元祖とされている。派手なファッションは当初、一部の熱狂的なファンを除いては、ほとんど支持を受けることがなかったが、「X JAPAN」の圧倒的な人気によって認知度は急上昇し、多くの後輩バンドたちが生まれた。

〝硬派〟なロッカーおよびロックファンたちは当初から「あんなのは格好だけ」と非難を浴びせていた。自分たちこそが本当のロックをやっている、と。しかし、ヴィジュアル系が現れて二〇年たった今、その非難はどこか空疎なモノに聞こえるようになってきている。というのも、ここで言う硬派なロッカーたちほ発言に見え隠れする海外への劣等感がこれまで以上に明らかになってきてしまっているからだ。彼らは欧米の(具体的にはイギリスとアメリカの)ロック・ミュージックを模範としている、ロック界の優等生である。当然、ビジュアル系などはちんけな不良に見えただろう。

だがこの「不良」たちは、そんな傍の目など気にせず、自分たちがやりたいように突っ走った。おそらく誰がなんて言ってようと関係がない、やりたいようになるという強いパッションは、かつてのロックが守っていた気持ちそのものであろう。そしてそれは強いポピュラリティーを獲得する原動力となった。やはり人を小馬鹿にする優等生の態度よりも、人の言うことなど知らんぷりでやりたいことをやっている人間の純粋さの方が人の心を打つのだ。しかも、興味深いのは、この日本のヴィジュアル系が海外から強い支持を獲得し始めたことである。

ヴィジュアル系の中でも特に「これはやりすぎだろ!」という派手なファッションで知られる「ヴェルサイユ」(バンド名もやりすぎである)は、国内よりもむしろ海外で最初に人気に火がついた。結成間もない
20075月、何気ない気持ちでYoutubeにバンドの映像を公開すると、海外からの取材や出演依頼が相次ぎ、翌春には欧州5カ国を回るツアーが実現する。メジャーデビュー後には14カ国を回る世界ツアーまで行っている(先の記事を参照)。

これまで日本のロッカーたちが夢見て憧れてきたのが「海外進出」だった。実際、海外デビューを果たした日本のロックバンドは少なからずいる。「ラウドネス」「ヴァウワウ」等々。そして、それは少なからぬファンを獲得したことも事実である(日本でも大人気だった「
Mr. BIG」のギタリスト、ポール・ギルバートは高崎晃の熱狂的ファンであった)。しかし、その「成功」を熱く語る日本の硬派ロックファンの言葉には、どこか寂しさが付きまとう。「ラウドネス」の音楽は確かに素晴らしい。しかし、その「海外進出」は「向こうに認めてもらう」という範囲を出ていない。どうもそこには日本を長らく支配してきた、海外への、あるいは「欧米」なるものへの劣等感が見え隠れする。硬派なロッカーたちは「海外進出」をまるで聖地巡礼のように神聖視してきた。しかしそれは劣等感の裏返しなのである。

ヴィジュアル系バンドが何より新しかったのは、そうした劣等感から全く自由であることだ。もちろんそれは言い過ぎであり、たとえば最初期の「
X JAPAN」は強い海岸進出意欲を燃やし、実際、メジャーデビューのオファーを受けて、アメリカで記者会見まで行った。しかし、「X JAPAN」のメンバー、特にリーダーのYoshikiはやはりどこかその劣等感から自由な精神の持ち主であったように思われる(それにはYoshikiの“育ちのよさ”、いい意味での“おぼっちゃん”的な精神が関係している)。

Yoshiki
はどうもこのままのやり方ではアメリカデビューは難しいと判断して、この、これまで多くの日本のロッカーが夢見てきたチャンスを捨て、計画を反故にしてしまう。そして、それがむしろ「X JAPAN」にとっては「海外進出」の真の回路を開くことになった。彼らは逆に海外のファン達から発見されていくことになるからである。現在では「X JAPAN」は全米ツアー、欧州ツアーを開催している。もちろん、日本でやるような何万人も集まる大規模なものではないが、無理矢理に「海外」の音楽業界の論理に合わせるのではなくて、自分たちのやり方を保っていたがために、彼らは海外のファンの目にとまったのである(実際には「X JAPAN」は一度解散しており、再活動は絶望視されていた)。

ヴィジュアル系の海外進出を考える上で、技術革新の問題は絶対に無視できない。要するにインターネットによって情報が瞬時に地球の裏に、ほとんどコストゼロで届けられるようになったことが、彼らをスターダムへと押し上げた。情報化が進まなければ彼らビジュアル系が海外に知られる可能性は非常に少なかっただろうし、少なくとも人気が出るまでには膨大な時間がかかったであろう。しかし、そもそも音楽の歴史は技術革新の歴史と切り離せない。ピアノが量産できるようになったのは産業革命のおかげだし、ロックコンサートができるようになったのは、
PA設備が発達したからである。そして、我々が最近の技術革新が音楽に与えた影響としてここで最も注目するべきは、音楽産業の変化である。

情報化によって音楽産業は大きな転換を迫られたことは間違いない。かつては、販路を確保しているレコード会社に圧倒的な権力があった。レコードはレコード店でしか売っていない。ならばレコード店に卸しができるレコード会社の支配は圧倒的である。おそらくそのために、我々が想像もできないほどの悲惨な出来事が数多くあったに違いない。レコード会社に強いられてどれだけのミュージシャンがイヤなことをさせられてきただろうか。
2012年末、紅白歌合戦で復活を果たし、全国のテレビの前のアラフォー世代を号泣させた「プリンセスプリンセス」は、当初、そのような力を発揮することを許されず、「赤坂小町」というアイドルグループを強いられ、朝の情報番組でニコニコしながら五人で手を振っていた。「ラウドネス」の前身の「レイジー」は、今となっては想像もできないが、変なダンスをしながらテレビの歌番組で「赤頭巾ちゃん御用心」を歌っていた。私はミュージシャンではないが、そうしたミュージシャンたちのことを思うと強く胸が痛む。

しかし今は違う。自分の音楽を人に届けたいと思ったら、無数のやり方が広がっている。レコード会社の圧倒的支配は(もちろん今もあるだろうが)、かつてのようなものではありえない。それは基本的に情報化によってもたらされたものであり、これを特に享受しているのがヴィジュアル系バンドなのである。





ヴィジュアル系の面白さは、イチローのおもしろさに比しうるものである。ヴィジュアル系はゲームのルールそのものを書き換えている。海外で作られたゲームのルールの上で、海外のプライヤーと力勝負するのではなく、ゲームのルールそのものを日本的に書き換えてしまうこと。

ロックはいわゆる欧米、特にアングロサクソン圏に起源をもつ。ロックミュージックはそこで作られた強力なルールをいくつかもっている。先に言及したロックの優等生たち、硬派なロックファンはそれを大切に守り、それに基づいたロックミュージックを日本で作ろうとしてきた。それは立派なことである。

しかし、繰り返すが、そこに海外に対する劣等感が見え隠れしていたことは間違いのない事実だ。日本のロックバンドによる目立った海外進出は結局果たされぬまま、時代が過ぎる。そして突如、情報化の波とともにヴィジュアル系が現れる。彼らは海外のロックを目指していないから劣等感がない。というか、もしかしたらほとんど知らないのかもしれない。彼らは純粋に着飾って音楽をやることを楽しむ。それはこれまでのロックのルールから外れる何かを持っていた。それが海外のファンからも注目されることになる。これは実に注目すべき事柄だ。

海外に対する劣等感というのは他分野にも見出されたものである。そして、おそらく日本ではいかなる分野においても、そうした劣等感が衰え始めている。私は自分が身を置く人文系の研究の世界でもそれを感じている。研究の世界では「海外の研究」が恐ろしいほどに力をもっていた。しかし、海外の研究だからすごいわけがない。こんな単純なことがあまりに理解されてこなかった。別に「日本の研究はすごいんだ」と居直るわけではない。すごいものもあればダメなものもある。それだけだ。それを素直に見定めることができるようになってきているのだ。

しかし、ヴィジュアル系に比べると日本の人文系の仕事の海外進出はまだまだ進んでいない。だが私はすこしも悲観していない。実際に、私の周囲に現れている仕事は世界水準のものだからである。私はそれを知っている。だから、おそらくヴィジュアル系が自分たちの
PVYoutubeに載せたのと同じ程度の努力を重ねていけば、いわゆる日本の人文系研究の海外進出は進んでいくだろう。私の本も翻訳が進行中であるし、海外で日本語のできる人たちが私のインタビュー映像を見たり、本や記事を読んだりしてくれている。そのおかげであろうか、台湾で行われるドゥルーズの国際会議で、私はなんとアジアの研究者の代表のような形で招待スピーチを任されることになった〔6月頭に実施〕。

私は、日本の書き手にあまり肩肘張らず、とにかく最高のものを創り出すという気持ちをもって仕事を続けてもらいたいと思う。成り行き任せのように思われるかもしれないが、「海外進出」のためにはそれが着実な道である。

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2014年02月09日

『SPA!』(2/11・2/18合併号)での浅田彰さんからの批判について

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1】『SPA!』で浅田彰さんが僕に批判的に言及されているというので読んでみました。いくつか説明しておかなければならないことがあると思うので、すこし連投したいと思います。

 

2】まずこれです。《京大の人文研にいる〔…〕王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。〔…〕國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、 古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ》。

 

3】最初にはっきりと述べておくと、僕はいままで一度も、「スピノザ論」を語って欲しいと依頼されて京大の人文研にお伺いしたことはありません。これをまず確認しておきます。

 

4】ただ二年ほど前、一度京大にお招きいただいたことがあります。その時の論題は市田良彦さんの『革命論──マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)で、合評会をやるからこの本を論じて欲しいというのが王寺さんからいただいた依頼の内容でした。

http://www.amazon.co.jp/dp/4582856276/ref=cm_sw_r_tw_dp_INK9sb1QES7E4

 

5】僕はこの会での自分の振るまいについて王寺さんや市田さんに謝りたいと思っています。市田さんの本について僕はどこか納得できませんでした。前日の準備の段階で僕は違和感を抱きながらとても悩んでいました。

 

6】その結果、発表はさんざんなものになりました。市田さんの本を正確に読むこともできませんでした。意見が合わないからといって、本を正確に読まないのでは、建設的な議論はできません。ですので、市田さんには本当に申し訳なく思っています。

 

7】さて、その会で僕は市田さんの本の話をしました。ネグリのスピノザ解釈に批判的に言及はしましたが(契約論について)、「古典的なスピノザ研究の蓄積」に言及する必要は感じませんでした。なお、僕はスピノザで博論を書いたので、「古典的なスピノザ研究」は勉強してきたつもりです。

 

8】浅田さんはその会にいらっしゃっていました。そして、浅田さんは市田さんと大変仲がよいように見えました。僕が市田さんの本を否定する振る舞いを見て、浅田さんも不愉快に思っただろうと思います。そのことについても謝りたいです。

 

9】因みに、僕はその後、廊下で浅田さんに説教されました。それで落ち込み、そして反省しました。反省したのに、関係者の皆さんに今まで謝罪していません。すみませんでした。

 

10】長くなっています。なるべく短く書きます。次に言及したいのはここです。《「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。》

 

11】まず、僕はデモは民主主義の外にあると書いているので、これは事実誤認です。

http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11190461401.html

 

12】次に、住民投票で議会制民主主義の限界を補完するという発想のどこか悪いのかよく分かりません。また、住民投票の必要性を一生懸命に本で訴えることのどこが非難されるべきなのでしょうか。

 

13】そもそも浅田さんのこの発言は、住民投票そのものを否定する意見にも読めます。その必要性を訴える僕の身振りそのものが否定されているからです。僕が否定されるのは構いません。でも、小平の住民投票は切実な願いから始まった運動です。それにまで否定的な印象を与えられるのは僕は納得できません。

 

1450年前から道路問題に悩まされてきた方々は、住民投票が決まった時、「やっとここまできた」という感慨を抱いていらっしゃいました。もちろん関係ない方々には関係ないことです。しかし、詳しい事情も分からずに、否定的な印象を与えかねない言い方をするのはどうでしょうか。

 

15】議会制民主主義に限界があると既にさんざん指摘されてきていることなど百も承知です(僕はもともと政治学専攻です)。本にもそう書いています。今までさんざん論じられてきたことである、と。同じく、官僚支配・行政支配の問題も毎日どこかで指摘されています。

 

16】しかし、行政支配の現実にも関わらず、その国家の政治体制が「民主主義」と呼ばれてしまうのはなぜか?──これを16世紀に発明された「主権」の概念から説得的に説明している本を僕は知りません。「主権」が当初目指していた理想の問題としてこれを語った本も僕は知りません。

 

17】また、これは運動の問題でもあります。住民がどれだけ頑張っても、議会や役所は「議会制民主主義」という言葉を盾にして住民投票を全力で阻止してくるからです。このことに悩まされている方々が全国にたくさんいます。僕はその方々の理論的な支えとなる本を書こうとしました。

 

18】最後です。《國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。 じゃあ何を言うのかと思えば、住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。》

 

19】僕はこの一節に強い関心を抱きました。僕は民主主義を補完する「強化パーツ」の一つとして住民投票を論じましたが、浅田さんはそれに取って代わる制度が「情報社会工学」で可能になると仰っています。それが何なのか知りたいです。

 

20】僕は「強化パーツ」は数が多ければ多いほどいいと論じました。しかし実際には四つしか制度を提示できませんでした。「情報社会工学」に基づく新しい制度が可能ならば、それは新しい可能性になります。それを勉強してみたい。

 

21】論文で結論を出すことが勇気を必要とするように、政治社会に対して具体案を提示するには強い勇気が必要です。僕が誤解も恐れずに具体案を提示したのは、更なる別の提案への呼び水になればと思ったからです。「情報社会工学」がその一つであるならば、その内容を知りたいです。

 

22】以上です。連投すみませんでした。

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2013年11月19日

「現代思想の源泉としてのキルケゴール──生誕200年ワークショップ」開催

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ちまたではほとんど話題になっていないと思われますが、

今年はキルケゴールの生誕200年、記念すべき年であります。

それを記念して、高崎経済大学國分ゼミナール主催で、ワークショップを開催することになりました。

國分ゼミ企画の講演会は恒例となっておりますが、

今回は規模がハンパじゃありません。

10人の気鋭の研究者が集います(そのうちの一人に私が入っております)。

二日間におよぶ開催。

ぜひぜひ足をお運びください。

「この秋、上並榎がコペンハーゲンになる」

というキャッチコピーを前々から考えていたのですが、全然活用していません。

(上並榎は高崎経済大学の所在地の地名)

とにかくおもしろいものになることは間違いないので、ぜひお越し下さい!



日時:
20131129日(金)、30日(土)

29日、13:00開会

30日、10:00開会

場所:高崎経済大学図書館ホール

主催:高崎経済大学國分ゼミナール

 


2913:00~

藤野寛(一橋大学)・「キルケゴールの人と生――ヨアキム・ガルフ『SAK』を読んで」

串田純一(早稲田大学他非常勤講師)・「ハイデガーとキルケゴール、そして、」

長門裕介(慶應義塾大学大学院)・「実存の哲学と人生の意味の哲学:人生の時間的構造を巡って」

3010:00~

國分功一郎(高崎経済大学)・「初期ドゥルーズにおけるキルケゴール」

大橋完太郎(神戸女学院大学)・「操り人形の自律性――キルケゴールのイロニー概念の現代的意味をめぐって」

松本卓也(自治医科大学)・「ラカンにおける「反復」と「不安」の概念」

柿並良佑(立命館大学)・「罪と有限者――キルケゴールとナンシー」

佐藤啓介(聖学院大学)・「神学者たちのキルケゴール――逆説と救済」

星野太(東京大学)・「アイロニーの概念――ヘーゲル、キルケゴール、ド・マン」

宮﨑裕助(新潟大学)・「「決断の瞬間は狂気である」――デリダのキルケゴール論をめぐって」

以上(敬称略)

 

・諸注意点

今回、参加費は資料代といたしまして500(学生は300)を頂きます。

2日間共通の整理券を発行いたしますので、1日目にも来場いただいた方は2日目の入場の際に受付にてご提示ください。

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2013年11月19日

新しい本がでます!──『哲学の先生と人生の話をしよう』

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新刊がでます。

宇野常寛さんの「メルマガプラネッツ」で連載していた人生相談「哲学の先生と人生の話をしよう」を一冊にまとめたものです。


哲学の先生と人生の話をしよう/朝日新聞出版
¥1,680
Amazon.co.jp



いろんなことをかなりはっきり書いております。

人生における様々なお悩みについて、すこしでも参考になれば……。

こちらで紹介文が読めます。
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2013年10月25日

どんぐりと民主主義 part5 〜住民投票と住民参加~徳島と小平から学ぶ~

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中沢新一さん、そして、徳島で吉野川可動堰の住民投票の事務局をなさった村上稔さんを招いてのシンポジウムです。『希望を捨てない市民政治』の著者である村上さんです。直接にお話を伺える貴重な機会。僕も非常に楽しみです。

大変申し訳ありませんが、会場の都合により、今回に限り事前予約が必要です。メールまたは往復ハガキにて、氏名と電話番号をご連絡ください。 受付後に、予約をお受けできたかどうかをお知らせします。

メールでの申込み先:jumintohyo@gmail.com
往復ハガキでの申込み先:〒187-0045 小平市学園西町1-22-15サントピア並木101 小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会

皆様のお越しをお待ちしております!

どんぐりと民主主義 part5

~住民投票と住民参加~徳島と小平から学ぶ~

日時:11月9日(土)18:30-21:00(開場18:10)
場所:小平市中央公民館ホール 小平市小川町2-1325(西武多摩湖線「青梅街道駅」徒歩5分)

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2013年09月18日

鷹の台の雑木林で毎週末イベント開催です

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新著の発売を記念して!



というわけじゃないんですが




小平の鷹の台駅近くにある雑木林で今週末から毎週イベントがあります。



この雑木林、都道328号線の計画地になっており、いま存亡の危機にあります。



多くの方にこの雑木林の魅力を知っていただきたいです。



というわけでまずは現地に来ていただきたいな、と。




『来るべき民主主義』を読んだ人も

読んでない人も

これから読もうという人も

これらのイベント

ぜひお越し下さい。

(発売は9月28日ですが)




まずは今週末、21日に恒例の「月夜の幻燈会」というのがあります。

宮沢賢治の『注文の多い料理店』を、イラストレーターの小林敏也さんが幻燈会用に再構成。

それを巨大スクリーンに映し出します。

テキストを女優の鍵本景子さんが朗読。

生演奏までつきます。



次の週28日には、玉川上水ライフらいんprojectさんの主催で

トーク&パフォーマンス&ワークショップのイベントがあります。

けっこう驚いたんですが

巻上公一さんがいらっしゃいます。

ヒカシューの巻上さんです。

もっと宣伝すべきと思いましたので

ここで改めて宣伝です。



その次の週、10月6日(日)には

僕が第三回「森の哲学講義」をやります。

まぁ、僕が雑木林で座って話するだけですが。

けっこう好評なので

それに本も出たので

やります。

とっておきのネタを披露です。



その次の週、10月12日は

「林のおもしろ探検隊」でまだ詳しくは何をやるか分かりませんが

(すみません、イベントが多くてまだ把握し切れていません…)

子ども連れで遊べるイベントです。



更にその次

10月19日は

都道328号線小平市部分の建設予定地を実際に歩いてみるという会があります。

この通称「歩く会」はこれまでも何度も実施されています。

(この日には来られないが関心のある方はこちらまでご連絡ください。

 jumintohyo@gmail.com  担当:神尾直志

 毎週日曜日、希望者一名から実施です。

19日は僕も参加します!

一緒に建設予定を見回りましょう!



更に!(まだある!)

「野草・樹木の名前を聞く会」が29日にあります。


たくさんあります!

どんどん来て下さい!

遠くからの参加、待ってます!




肝心なことを忘れておりました。

雑木林の場所ですが、

西武国分寺線「鷹の台」駅を降りると

駅の背後に小平市中央公園という大きな公園があります。

公園内には大きな体育館があります。

その体育感の向こう側(東側)が雑木林です。






【予定表】


9月21日(土)10:00-16:00
プレーパーク(11:00-16:00自転車発電体験)(主催:NPO法人こだいら自由遊びの会)


9月21日(土)18:30-19:00
第9回月夜の幻燈会『注文の多い料理店』(主催:どんぐりの会)


9月28日(土)17:00-18:30
Water Life~みずからだ~どこへどう向かってる?トーク&パフォーマンス&ワークショップ(主催:玉川上水ライフらいんproject)


10月6日(日) 14:00
國分功一郎「森の哲学講義」


10月12日(土)10:00-12:00
林のおもしろ探検隊(仮)(主催:ちいさな虫や草やいきものたちを支える会)10:00体育館前集合


10月19日(土)14:00
現地を歩く会(小平中央公園体育館前集合)
問い合わせ:jumintohyo@gmail.com  担当:神尾直志


10月29日(火)10:00-12:00
野草・樹木の名前を聞く会(仮)(主催:生活クラブ生協まち小平環境チーム)10:00体育館前集合


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2013年09月18日

新著『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』

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新著『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』が928日に発売になります。

都道328号線問題を巡る経緯、そして、そこから見えてきた近代政治哲学の問題を書いた本です。部屋に閉じ籠もって一ヶ月半で書き上げました。編集者の方が提示された締め切りを二ヶ月も早めての発売です。

それだけのことをしなければならないわけがありました。都道328号線の小平市部分は国交省から事業認可が下りてしまいました。東京都はこれから5年をかけて用地買収を行うと言っています。


さて、この道路計画は50年前に策定されたものです。その後半世紀にわたり塩漬けになっていました。事業認可が下りようとも同じことが可能でしょう。工事が行われなければ、民家も林も無事です。

ぜひお読みください。そして力を貸してください。



内容紹介

「この雑木林をつぶして道路にします。
役所で決まったことなので、
住民は黙っていてください」

役所が決めたらそれで決定。
こんな社会がなぜ「民主主義」なのか?
たった1.4キロの道路計画をめぐる住民運動に
日本中から熱い関心が集まった! 

2013年5月、東京都初の住民直接請求による住民投票が、小平市で行われた。 
結果は投票率が50%に達しなかったため不成立。 
半世紀も前に作られた道路計画を見直してほしいという住民の声が、行政に届かない。 
こんな社会がなぜ「民主主義」と呼ばれるのか? 
そこには、近代政治哲学の単純にして重大な欠陥がひそんでいた――。 
「この問題に応えられなければ、自分がやっている学問は嘘だ」と 
住民運動に飛び込んだ哲学者が、 
実践と深い思索をとおして描き出す、新しい社会の構想。 


著者について

國分功一郎(こくぶんこういちろう) 
1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。 
博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。 
著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、 
『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『哲学の自然』(太田出版、 
中沢新一氏との共著)、訳書に『マルクスと息子たち』(デリダ、岩波書店)、 
『カントの批判哲学』(ドゥルーズ、ちくま学芸文庫)、『ニーチェ』 
(オンフレ、ル・ロワ、ちくま学芸文庫)、共訳書に 
『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(デリダ、岩波書店)、 
『フーコー・コレクション4』(フーコー、ちくま学芸文庫)、 
『アンチ・オイディプス草稿』(ガタリ、みすず書房)がある。

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題/幻冬舎
¥819
Amazon.co.jp

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