始めて「銀河鉄道の夜」を読んだ70年代は梅原猛氏をはじめ、賢治が熱心な法華経信者であったことから、法華経の世界を表現した作品という評価が定着していた。しかし「銀河鉄道の夜」では賛美歌や人の名前など、エキゾチックなキリスト教的な表現が多用され、この鉄道の旅は十字架から始まり、十字架で終わっていることから、賢治は聖書も深く読んでいると私は確信していた。

賢治とキリスト教のかかわりを知るのは、その後数十年経ってからでした。
NHKテレビの「人間大学 宮沢賢治」の講師をつとめた畑山博氏は『美しき死の日のために――宮沢賢治の死生観――』(学習研究社)で、賢治の一生を、既成宗教との戦いの末に自らの安らぎの死後世界を獲得していく魂の軌跡と見る・・・と言ってるように、賢治は仏教においてもキリスト教においても既成宗教を拒否し、無欲の自己犠牲的宗教に共感していました。

仏教で最もその色彩が強いのは日蓮であり「法華経」といえるでしょう。賢治が田中智学の「国柱会」へ突き進むのは当然の流れです。キリスト教においては小市民的な栄達を嫌い、どこまでも理想のみに殉じていこうとする非妥協的な内村鑑三の「無教会」がありました。

「法華経」と「福音」はそれを実行する者は迫害される運命にあり本質的に近く、内村の著作「代表的日本人」5人の中に、宗教家ではただ一人「日蓮」を書いています。

「日蓮聖人の生涯」


【斎藤宗二郎】
無教会主義のキリスト教徒、斎藤宗二郎は賢治より18才年上で「雨ニモマケズ」のモデルとも言われる人物で、宗派を超えた交流がありました。

1877年岩手県花巻市にお寺の子供として生まれ、小学校の教師になりますがふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。1900年冬洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになった日から親には勘当、人々にはいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めるはめになります。

キリスト教がまだ「耶蘇教」と呼ばれ迫害を受けていた時代、町を歩いていると「ヤソ」とあざけられ、石を投げられガラスが割られ、家を壊されたこともあったそうです。迫害はエスカレートし9歳の長女は「ヤソの子供」とばかにされお腹を蹴られ、腹膜炎を起こし数日後9歳という短い生涯を閉じました。

教師の職を失った宗次郎は朝3時から新聞配達、牛乳配達をし重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながらも夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから寝るという生活を20年も続けました。

あのように自分の娘を失ったにもかかわらず、冬は雪が積もると小学校への通路を雪かきをして道を作り、雨の日も、風の日も、雪の日も「でくのぼう」と呼ばれても休む事なく、地域の人々のために働き続け、新聞配達の帰りには、病人を見舞い励まし慰めました。

やがて宗次郎が東京に引越しする事になり、汽車に乗るために駅に行くと、そこには大勢の人々であふれていました。なんと迫害していたはずの町長、学校の先生と生徒、町中の人々が集まっていました。

【賢治と宗次郎】
賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれており、一方宗次郎の日記にはお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに回想しています。賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せていることからもゲラを見せる間柄だったようです。

その日記には宗次郎が新聞配達をしていて集金に行ったとき、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と書かれ、さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しているそうです。

宗教のエッセンスに触れた人間には仏教もキリスト教もユダヤ教も対立はないのです。それゆえに独善的、排他的既成宗教には激しく拒否反応を示しました。





「雨にも負けず」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ