写真は現在の観光化されたキリストの墓

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青森にキリストの墓があると初めて耳にしたのは、1975年頃アメリカ人宣教師の家で聖書研究をやっているときでした。
「ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で贖いのふたをおおい、・・・あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。その中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前を仕切り、(出エジプト37-9~40-3)」と聖書を読みながら宣教師は幕屋とアークの絵を見せた。「幕屋は日本の神社に、アークは御神輿に似ています。」と絵を見ながら答えると、「そういう説もあります。キリストが日本で死んだという説もあります」。「まさかそんなことはないでしょう」といったら、ガリバン刷りの竹内文書の一部を奥の部屋から持ってきた。

アークはその後、映画インディ・ジョーンズで広く知られるようになりました
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当時そのような本がなかったので、それ以上調べはしなかったが、5年後くらいだったろうか車で恐山、十和田湖、奥入瀬などドイツ人女性と青森方面へドライブしてた途中に思い出し、資料がないのでまず役場を訪ねた。応対した女性職員は解らず、話を近くで聞いていた男性職員が「それでしたら沢口さんのところですよ」と地図で教えてくれた。

沢口さんの家を訪ね、事情を説明し見学させてくださいと言うと、ご主人が丁寧に案内してくれた。細い道路を挟み家と反対の丘に古墳のような盛り土があり、十字架やダビデの星と似たものがあったので、「これはいつ頃からあったのですか」と訪ねると、「昔は藪に覆われ盛り上がった土が2か所あっただけで、偉い人が葬られているから大事にしなさいと先祖からの言い伝えがありました。十字架とかその他は茨城県の竹内さんという先生が、ここを訪れキリストの墓と言い加えられました。」とのことだった。

聖書にはキリストの青春時代は空白で謎になっている。その空白の時代に日本で修行をしていたそうです。それから中東に戻ったキリストはキリスト教を開き、ローマに処刑されたのは実は弟イスキリでした。難を逃れたキリストは再び日本に来て108歳まで生き、この地で没したそうです。


「キリストとかユダヤ人と関係のある遺物などはありませんか」。と聞くと先生が証拠の品と言った「ダビデの星」と「石の器」がありますが私には解りません。との返答に正直な人だな、山師的人間ならキリストの墓にして観光地にして・・・などと考えるであろう。この地方には「ナニャドヤラ」というヘブライ語の盆踊りも伝わっているらしい。彼女はまったく興味を示さなかったし、お偉い先生が来て突然キリストの墓にでっち上げたと私も思った。
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【その後の調査】
その後その手の本が出回るようになり、考古学者の調査で石の器は中東の物ではなく、古代日本で使用された器で、各地で同じ物が発見されている。
板戸の書かれた「ダビデの星」は誰が見ても「桔梗の紋」です。
ヘブライ語の踊りもあやしい学者が近年そう言ってるだけで、まともな研究対象にはなっていない。 

昭和10年酒井勝軍の招きで戸来村を訪れた竹内は、土盛りを見て「キリストの墓」と認定する。根拠は皇祖皇太神宮に保管されているイスキリスクリスマスフクノ神と名乗る「キリストの遺言状」だという。

最近の資料を調べると証拠の品である「石の器」と「ダビデの星」の写真も話も見られない。この手の情報を収集すると必ず出会うのが『日本のピラミッド』『青森キリストの墓』『竹内文書』『日ユ同祖論』『シオン賢者の議定書』『反ユダヤ主義とフリーメーソン』『陰謀論』 。これらはいつ誰が発表、発見したか調べると1924年から1938年に集中しています。

・1918年(大正7年)酒井勝軍シベリア出兵で白軍将校を接待して『シオン賢者の議定書』と反ユダヤ主義の存在を知る。
・1924年(大正13年)酒井勝軍 『猶太人の世界征略運動』、『猶太民族の大陰謀』、『世界の正体と猶太人』を相次いで発表、日本に反ユダヤ主義の存在を紹介する。しかし、酒井の主張は単純な反ユダヤ主義的主張ではなく、ロシアやナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に口実を与えた史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』による陰謀論であった。
・1928年(昭和3年)3月29日竹内巨麿『竹内文書』を公開、初期は格別に人を驚かすようなことは書かれてなかった、昭和10年代以降版が改められるごとに大量に加筆された。
・1929年(昭和4年)3月10日酒井勝軍は鳥谷幡山らとともに竹内文書(前年公開)を拝観、古代イスラエルのオニックスを求め「発見」し同年『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』(国教宣明団出版)を出版した。11月3日、11月21日にも皇祖皇太神宮訪問。
・1934年(昭和9年)4月24日、酒井勝軍、葦嶽山をピラミッドであると断定
・1934年(昭和9年)10月、鳥谷幡山、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を発見
・1935年(昭和10年)8月初、竹内巨麿、青森県戸来村(現新郷村)においてキリストの墓を発見
・1938年(昭和13年)5月22日、酒井勝軍、岩手県釜石市「ヒヒイロカネ」を発見

これら一連の陰謀の中心人物が酒井勝軍で、戸来村へ竹内を招いたのは酒井で、酒井を戸来村へ招いたのは鳥谷幡山(とやばんさん)です。

青森県戸来村出身の日本画家、鳥谷幡山は酒井の友人で故郷を観光名所にしたく、酒井の「葦嶽山=ピラミッド説」を知り「ピラミッドなら私の故郷にもあります。」といい戸来村に招待、十和利山を第二のピラミッドと認定させる。昭和9年「東奥日報」に「太古日本、第二のピラミッド発見~三戸村戸来村に於いて」という鳥谷の手記が掲載され、十和田湖国立公園からもはずれ観光資源のない戸来村の佐々木村長も大喜びしたという。

1934(昭和9年)10月、鳥谷幡山、青森県戸来村でピラミッド大石神を発見、翌年
1935年(昭和10年)8月、竹内巨麿キリストの墓発見

注”1928年(昭和3年)3月29日に公開された竹内文書は格別に人を驚かすようなことは書かれてなかった、昭和10年代以降版が改められるごとに大量に加筆された。


それではキリストの遺言状まである『竹内文書』とはどのようなものでしょうか。

竹内文書の黒幕】へ続く