$新時代のキリスト教$新時代のキリスト教
5千円札の肖像で知られる新渡戸稲造は1862年、岩手県盛岡市に生まれ9歳で上京、13歳で東京英語学校に学びました。その後札幌農学校に入学、第2期生として内村鑑三などと共に学びます。

農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。

一期生はほぼ全員クラークの影響でキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々続々と入信、入学前からキリスト教に興味をもっていた稲造も入信し、キリスト教にのめり込んで行く。

1883年に東京大学へ進学するがその研究レベルの低さに失望し、1884年、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。内村鑑三同様、稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会う。

教授として札幌農学校に赴任するが、夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。この間に英文で書きあげた『武士道』が1900年に出版されると、各国語に訳されベストセラーとなり、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを、世界の人々に紹介した。

アメリカやドイツに留学し、ハレ大学より農業経済学の博士号、ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。1901年には、台湾総督府の技師に任命され、台湾糖業の基礎を築くことに貢献した。その後、1903年には京都帝国大学法学部教授、東京帝国大学法学部教授、第一高等学校校長を兼任、東京殖民貿易学校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。当時の日本人としては珍しいほど幅広い学問を修め、豊かな国際性を身につけていた。

1920年の国際連盟設立に際して、事務次長に選ばれ「国際連盟の輝く星」と賞賛され活躍。しかし時の流れは軍国主義が勢いをまし、日本は国際連盟を脱退。「太平洋のかけ橋」となり奔走するも、日米から理解されなかった。

「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と語ったことが新聞に載り、軍部や右翼、左翼の激しい反発を買い、命の危険にさらされる。すると、それまでの新渡戸を賞賛した声は、糾弾の叫びに変わり多くの友人や弟子たちも去っていった。

昭和天皇は深く信頼していた新渡戸を幾度か宮中に呼び、戦争を回避したくアメリカ情勢を尋ねます。反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えますが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、1933年カナダ・バンフの太平洋会議に出席の帰路、病に倒れ死亡、71歳でした。

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写真左 メアリー・エルキントンとの間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折
写真右 谷崎潤一郎と新渡戸稲造