$新時代のキリスト教
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内村鑑三の言葉

★1919年6月16日(月)陰雨
「教会の自己滅亡を憂う」
午前、主婦を伴うて、京橋、古宇田病院を訪(おとな)うた、ある科学的新治療を受けんがためである。薬品を用いざる治療法は、これを歓迎せざるを得ない。医術は悪魔の発見であるというは、まちがいである。明日に天然の法則に合(かな)うと信ぜらるる治療は、感謝しかつ祈りて受くべきである。

 ○おもしろいうわさを聞いた。青年会をして余を断わらしめ、田島進氏が余の講演を助けたりとて彼を詰責せし(以上は確かなる事実である)教会は、さらに進んで警醒社書店をして余の著述の発行を止めしめんと試みつつあるとのことである。教会はかかる事をなして、よし余の事業を壊(こぼ)ち得るとするも、ついに自ら滅びざるを得ない。何ゆえに正々堂々と議論をもって戦わないのであるか。何ゆえに、婦女子がなすがごとくに、蔭に廻りて卑劣手段を弄するのであるか。余は彼らのために悲しまざるを得ない。余は元来、教会の人ではない。ゆえに、教会に憎まれたればとて、少しも痛痒を感ずるものではない。講堂は青年会館以外にもたくさんある。余の援助者は田島君一人に止まらない。また警醒社のみが唯一の書店ではない。余は教会信者を目的(めあて)に筆を執らない。少なくとも日本全国民が余の読者である。ああ、あわれむべき教会よ、なんじらは総掛かりとなりて、余一人を倒すことができない。ただ注意せよ、なんじら自身の倒れざらんことを。なんじらの多数は、外国の伝道会社が日本より手を引くことあれば、直ちに倒れる者ではないか。外国人の御慈悲によって存立するなんじらが、一人の独立信者を倒し得ざるはもちろんである。ああ教会よ、余は恐る、なんじらは自己の滅亡の時期の近づきつつあることを。余はなんじらを憎まない。なんじらが余に反対すると同じ熱心をもって、なんじら自身の異端と俗化とを改めんことを欲す。

★(1904年7月 『聖書之研究』) (信8/223)
「アメリカ的キリスト教」
成功を統計に徴す、これアメリカ主義なり。
しかしてこの主義をキリスト教に応用せしもの、
これ余輩の称してもってアメリカ的キリスト教となすものなり。
アメリカ人は意を真理の探求に注がずして、ひとえにその応用を努む。
しかしてたまたまその、大建築物または多数の帰依者となりて現わるるあれば、
成功を歓呼して神に感謝す。

彼らは物に現われざる純真理の美を認めず、
また統計をもって表わすあたわざる霊的事実の成功を知らず。
彼らは現実を愛すると称して、万事(すべてのこと)の機械的なるを欲す。
余輩は多くの他の点において深くアメリカ人を尊敬す。
されども宗教の一事においては彼らと趣好を同(とも)にするあたわず