無教会は、内村鑑三によって提唱された日本独特のキリスト教と思っている方が多いようです。
しかし内村は次のように言ってます。



無教会主義は不肖私が初めてこの国において唱えた主義ではありません(教文館:内村鑑三信仰著作全集18,
105p)

預言者エリヤ、アモス、イザヤ、エレミヤも無教会主義者であり、宗教改革者として有名なルターも、最初は無教会主義でした」教文館:内村鑑三信仰著作全集18, 89p,
104-5pより)



熱心に聖書を読み神からの霊感により聖書解釈したクリスチャンにとっては牧師も神父も教会も必要なかったのです。



【無教会と一般的教会の関係】

内村鑑三日記から


1924年10月22日(水)小雨
近ごろ、ある親切なる教会の牧師が余に忠告してくれた、アナタはある時は単独で寂しく感ぜらるるだろうが、しかしアナタはそれを忍ばねばならぬ。アナタは神様に、単独であるように造られたのである。ゆえに成るべく教会の集会などへ出て来ない方がよろしい。私はアナタの後援者として、アナタが昔の預言者が立ったような地位に立って、神との直接の関係を維持して、ひとり学んで、ひとり教えんことを切望する」と。

実にありがたい忠告である。教会内にもかかる親切なる兄弟の有るを知って、感謝に堪えなかった。実に兄弟の言うとおりである。余のごときは単独で神に仕えまつるべき人間である。人はすべて他と共同して働くべきであるとは決まって居ない。エリヤのごとき、アモスのごとき、バプテスマのヨハネのごとき、みな単独で一生を送り、善く神の御用を務めた者である。余は単独である時に最も幸福であり、また最も善き事を最も多くなすことができる。余が単独であるのは、気まま勝手であって人ぎらいをするからではない。単独は余の天性であって、余は単独である間に最も親しく天の父様と交わることができるからである。教会の人で、この事を知ってくれる者に、今日までかつて一回も会うたことはない。しかるにこのたび、この兄弟に会うて、実に心の底までうれしかった。余がもし今日まで単独の寂しみを忍び得たならば、余は人生の多くの失錯(しくじり)を避け得たのである。しかるに、忍び得ずして交際を求めて、数多(あまた)たび、苦き、つらき目に会うたのである。


単独、しかり単独、これは余の宿るべき平安のホームである。