★無教会主義の創始者「内村鑑三」はなぜ無教会でなければならなかったのか?
キリスト教の神髄は聖書の中にこそあるとして、個人による聖書研究を重視し、教会、儀式、教義、神学、典礼といった制度、形式を退けたのです。


内村は次のように言ってます。

「神の造られた宇宙自然が無教会信者の教会で、青空、星が天井で、青い野、色々の花は床、楽器は松の木、梢、楽人は森の小鳥、説教師は神様御自身である。僧侶・牧師・神父のごとき職業的宗教家を拒否洗礼も聖餐式も拒否し教会をつくりませんでした。となればおのおのの信者が聖書によって直接に神から真理を学ぶことができ平信徒が伝道者となり万人祭司が実現します。」



<わが宗教>(1908年9月 『聖書之研究』)(信8/248)

神を愛し人を愛する事なり。
わが礼拝はこれなり。わが信仰はこれなり。わが奉仕はこれなり。
これを除きて、われに宗教なるものあるなし。
教会何ものぞ儀式何ものぞ教義何ものぞ神学何ものぞ
もしわれに愛なくんば、われは無神の徒なり。異端の魁(かしら)なり。
われ、口と筆とをもってわが信仰を表白したればとて、われは信者にあらず。
われは愛するだけ、それだけ、信者たるのみ。
わが愛以上にわが信仰あるなく、またわが愛以下にわが宗教なるものあらざるなり。