個の意識と集合意識 | LOVE & PEACE

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スピリチュアルな毎日

最近 知人と話した時に

出た話題で 日本人宇宙人説

というものがあって。

 

それは 

 

海外の人から見れば

日本人は独特のものを持っている

というものや

 

やたら 技術的に未来的なもの

 

例えば トイレのウォッシュレットとか

ボタン一つでお風呂のお湯溜まるとか。

 

あとは新幹線などがあるのに

古い文化もあるというギャップとか。

 

そういう ちょっと違和感のあるもの。

 

 

ま。

 

他にもいろいろあるんだろうケド。

 

 

 

そういったことの他に

 

DNAなんぞや 言語的な昔を

たどると とても日本人が古い人種

でもあるみたいなこと。

 

あれやこれやと 

やっぱり「宇宙人じゃね?」みたく

なるという話。

 

 

 

 

phaballa的には

もちろん そういったことも

あるんだろうなぁ~とは思いつつ。

 

どうしても ベクトル反対説

ということも思ってしまうんだケド。

 

日本は 和の文化だから

全体の意識とか空気とかを大切

にする文化で

 

海外は個人の意見とか選択とか

そっちを大切にするところがある

みたいな。

 

いわゆる個人主義と全体主義

みたいなやつ。

 

 

これは

どちらが良い悪いということはなくて

それぞれ 両面がある的な。

 

 

phaballaのような 個性が強い人は

どうしても 出る杭は打たれる という

経験があるので 生き辛い気がするケド。

 

日本ならではの良さはあるわけよね。

 

あまりに個人主義過ぎると

それはそれで ある意味新自由主義的

競争の優劣や 自分さえ~ってことにも

なるし。

 

逆に 個人主義だからこそ

個性や個人の存在尊重する的な

ものがあったり。

 

あとは 

 

個人がしっかりしてるから

「大人」な文化があるとか。

 

集団に慣れるとあなた任せ的とか

簡単に上に従っちゃうとか。

 

ま 

 

その辺は 戦後の教育だの

GHQの策略だのと

 

意見も分かれるところで

昔の日本は違ったってことも

あるんだろうケド。。。

 

 

 

ま とにかく本当に両面がある

という話で。

 

 

できれば 

足して二で割ってください。

 

って感じかもしれない。

 

 

 

 

 

 

そういうことで。

 

改めて こういう個を考えてみたら

 

個人主義の個というものは

当たり前だけど 個=エゴという

話でもあるなと。

 

個性ってのは エゴの性質。

 

エゴちゃんは この世界での

自分自身そのものでもある。

 

だから 悪者でもないし

その子のお陰で 今この世界を

生きているというもの。

 

 

個人主義vs全体主義

というわけではないケド。

 

比べるのなら

 

それぞれの個性=エゴを

大切にするのか。

 

それとも 全体のことを考え

るのか。

 

そういう風になる。

 

ま このエゴというのは

我儘とか系な方ではなくて

 

個性の尊重的な方で

という話なんだろうケド。

 

どうしても エゴちゃんの

エゴエゴ性質の理解になる

方向も大きい。

 

勝手でしょう?みたいな。。。

 

 

だからというのか。

 

海外から見たら とんでもなく

個よりも全体を考えるのが異文化

的魅力に映るのかもしれないし

 

日本からすると 自由気まま

な雰囲気を魅力に感じる人も

多いのかもしれないと。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

全体主義というものから

集合意識というものに連想が

飛ぶというのか。

 

共産主義的なものではなく

暗黙の了解的な「和」の精神な

集合意識というのか。

 

そっち方向考えてみたいと。

 

 

 

 

スピ系世界で

意識を広げるというものが

あるよね。

 

phaballaのブログでも何度も

登場している話だケド。

 

この意識を広げるというのは

phaballa的には 本質との繋がり

があって初めてできること。

 

そういう風に思っていて

 

個の意識では分からないことが

本質との繋がることで見えてくる。

 

本当の私との繋がり。

 

で。

 

この本質というのと

潜在意識というものは どういう

違いがあるのだろうと?

 

そんなことを考えてみたよ。

 

 

 

この潜在意識というものは

大幅に隠れている無自覚

領域のものだよね。

 

でも 何だか知らないケド

無性に○○したいとか。

 

割とエゴちゃん性質があったり

するとか

 

辛いことや悲しい経験など

隠れていいる傷などもあったり。

 

だからというのか。

 

エゴちゃんが表で

潜在意識が裏じゃないケド

 

一つの大きい塊の

表面と隠れている部分。

 

一般的には そういう解釈だし

それはそうだよなと。

 

 

 

その潜在意識というものは

全体と繋がっている部分があって

 

それが 集合意識と接続して

いるというのか。

 

 

暗黙の了解とか

なぜか同じように感じるものとか。

 

今年はこの色を着たいなと

思うと その色が流行るとか。

 

コンサートや集会なんぞで

ハッスルするのも 涙を流すのも

この「繋がり」からのものがあるとか。

 

それもこれも 集合意識的な

繋がりからくるものみたいな。

 

で。

 

この集合意識は 何段階もあって

 

個人のグループや団体や組織

というものから

 

一時的なイベントなどや

 

国や世界という大きいものまで

色々な段階があるみたいな。

 

 

要は 

 

エゴちゃんには無自覚な部分に

潜在意識があって

 

潜在意識は大小の集合意識と

繋がっているのかもと。

 

そういう話。

 

 

 

でと。

 

本質とは

本来の魂との繋がりのある

部分だし 存在だということで。

 

ま これぞ本物みたいな。 

 

ある意味で phaballaの表現で

いうと「意識」の世界の存在。

 

phaballa的には

「意識」というのは「愛」の領域

のものだと思っているというか。

 

 

そして。

 

エゴちゃんは思考。

 

玉ねぎ論でいうと

 

肉体があって思考があって

その上に感情があって

 

その上に意識がある的な。

 

思考で理性的に抑えても

感情が爆発する時があるわけだから

 

やっぱり感情の方が優位かなと。

 

 

 

感情は良くも悪くもなく

そこに意味付けするのが思考だよね。

 

よく腹で思うとか

「腹」という感じで表現されるように

 

腹の第三チャクラの「思考」というか。

 

感情は第四チャクラの領域でも

あるもので

 

そこから「愛」のお勉強が始まる

部分でもあるわけだし。

 

ま 一言で感情といっても

そういう見方をすると どの部分で

感じているのかによって変わってくるから 

 

どこのチャクラが活性化しているかで

この「感情」というものは変化を起こす

のかもしれない。

 

 

たぶん。

 

まずは基底の第一チャクラの赤と

第三チャクラの黄色の活性化があり

 

その融合色であるオレンジ色が

出てくるわけだよね。

 

そして。

 

第五チャクラの青が出てくることで

第三チャクラの黄色と融合し

第四チャクラの緑が安定する。

 

もしかしたら。

 

感情の対応は こういうものに

よって変化するものかもしれない

という話。

 

ま 考えてみれば

楽しい~時は黄色とオレンジの

活性化があるといわれていて。

 

それは 見る人が見れば分かるし

オーラ写真でも写るわけだし。

 

そういうことだね。

 

だから エゴちゃんは第三チャクラ

の世界観。

 

 

そして。

 

第五チャクラが動き出さないと

感情の最上管轄である第四チャクラ

の緑色が綺麗に出てこない。

 

そういうことかと。

 

 

 

 

 

 

ちょっと脱線しちゃったケド。。。

 

 

そういことで。

 

個と集合意識という表現では 

 

それは 本質に繋がっているものか

もしくは 潜在意識との繋がりという

ものがあって

 

本質と繋がって観えるものは

全体の一部である個という感覚

でもあるし

 

潜在意識での集合意識では

無自覚のエゴの世界観でも

あるというか。

 

 

 

そもそも 私たちの世界

第三密度の世界は エゴちゃんの

世界観なわけだケド。

 

唯一本質から切り離された

世界でもあるわけで。

 

 

他の世界=密度や存在は

本質と切り離されているわけではなく

 

だからこそ 全体との繋がりが

そのまま集合意識というもの

にもなる的な。

 

で。

 

私達にも集合意識があるけど

それは エゴの無自覚領域でしかない

ということかなと。

 

 

それは

 

最初に個があって それが

集まって集合意識という方向

になるというか。

 

他の世界は 逆に

まずは集合意識があって 

それが個に分かれるみたいな。

 

個からスタートする世界では

それはエゴの世界からのアクセス

でしかない。

 

そこに違いがあるんじゃ

ないのかなと。

 

 

 

よく 宇宙人さんとかの話では

テレパシーで会話とか

 

相手の思考や感情が

バレバレな世界だという話が

あるけど。

 

これも集合意識の全体との

繋がりがあるからだよね。

 

でも個の意識もある世界。

 

 

 

私たちの言う個の意識とは

普通はエゴの個性や思考だけど

 

本質と繋がることで

本物の「意識」が動き出す。

 

同じように

 

エゴの潜在下の集合意識は

儚いものだけど

 

本質から繋がる集合意識は

本物と成り得るみたいな。

 

 

 

本当の絆とは

 

エゴの世界では実現できないし

 

逆に 本質と繋がることで

初めて 繋がりを感じられるもの。

 

そういうことかなぁ~と。

 

 

 

 

 

 

ってことで。

 

日本人が宇宙人と言われる所以

というのは

 

もしかしたら この本物の集合意識

的な繋がりが微かに残っているから

かもしれないというか。

 

先ほどの エゴちゃんの集合意識

ではなく

 

本来の集合意識。

 

 

 

日本人は空気を読むとか

それこそ忖度する(笑)とか

そういう文化があるのも

 

もとは 本来の集合意識に繋がり

があって 相手を慮るのは当たり前で

 

でも その後 どんどんと

エゴちゃんの切り離された世界

へと分離が進んでいき

 

その文化だけが 微かに残った

みたいな。

 

 

 

日本にあるそういう感覚が

 

前の時代 縄文時代の

残り香なのか

 

レムリアの名残りなのか

 

そういう13000年以上前の

統合の時代の置き土産なのか

 

それは分からないケド。

 

確かに残っているものがある

気がする。

 

殆どない気もするケド。。。

 

 

 

 

 

 

 

ということで。

 

個の意識とか集合意識は

 

「意識」ではなくて

 

この世界では

エゴの思考とエゴ集合体なのでは?

という話。

 

 

エゴの作り出すものは

いつかは壊れるし 消えてゆくし。

 

何よりもバラバラ。

 

都合のイイ時だけの繋がり。

 

 

 

でも

 

本質と繋がることで

観える集合意識や個というものは

 

本当の意味での繋がりや

個性の尊重だし

 

揺るぎのないもの。

 

 

 

 

集合意識を変えるというのも

 

エゴの方ではなく 本物にアクセス

する人が増えないと 

 

エゴの集合体では世界は変わらない。

 

同じことを繰り返すだけ。

 

 

 

 

 

真心。

 

愛による繋がり。

 

そういう世界は本当の自分

との繋がりができて初めて

感じられるのかもしれない。

 

そんな集合意識が発動すれば

世界は今すぐにも変わるのかな。

 

 

 

愛するもの

 

それが子供でも親でも恋人でも

ペットや植物でも

 

いつも心にあるもの。

 

でも

 

私たちは 常に意識できている

のだろうか

 

それ以外の世界に。

 

本物とは そういう大きい全体に

常に意識が向いているということ

なんじゃないのかな。

 

上も下も 右も左も 

全部と繋がる心。

 

 

 

 

 

ま。

 

そんなことを考えたのであった。。。(^^)/