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訃報:米原万里さん56歳=エッセイスト、作家

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20060529k0000e060099000c.html

Essayist Mari Yonehara dies at 56

Essayist Mari YoneharaFamous essayist and leading member of Japan Pen Mari Yonehara died from ovarian cancer on May 25, it was learned on Monday.

Her family has already held a funeral service for Yonehara, who died aged 56.

After learning Russian at Soviet Union-led schools during her elementary and junior high school days in Czechoslovakia, Yonehara became an interpreter.

She served as the chairperson of the Russian Interpretation Society in Japan from 1995 to 1997. She won the Yomiuri Literary prize for her report on the interpreters' world. Yonehara also won several other essay and non-fiction prizes for her books.

Yonehara's father was the late Diet member Itaru Yonehara and novelist Hisashi Inoue is her brother-in-law. (Mainichi)


May 29, 2006


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ショック。。。


世界からまた素晴らしい物語が生まれる可能性が失われた。


ご冥福を祈ります。

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評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★☆星4つ半)

■オドレイ・トトゥ(Audrey Tautou)がかわいいっ!


『ダ・ヴィンチ・コード』 米国的ハリウッド的なメディアミックス展開が悪い形で①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012642166.html


↑上記のラストで書いたのだが、主演のソフィー役オドレイ・トトゥが、あまりにいい女だったので、びっくりして過去の作品を思わず見直してしまった(笑)。なぜ、びっくりしたかというと、『アメリ』に代表されるように、どちらかというと不毛な日常を描くヨーロッパ作品の代表であるフランス映画のテイストが強い作品に出ていたので、不思議子ちゃんのイメージが強くて、ソフィ役の知的でスマートな現代的な役というのを見ていなかったせいで、そのギャップにノックダウンだったよう。



■ナルシシズムから脱出するお話


アメリを見直して強烈に思い出したのは、村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』という小説だ。

この作品は、何がテーマかというと、一人っ子として育つこと・・・・・そして、それに代表される他人との関係を切り結べないナルシシズムから脱出することだ。村上春樹自身も、一人っ子らしく兄弟がいない環境で育って、他者がいない全能感が持続し続けた子供時代を持った人間の内のこもりがちな精神状態を、大きなテーマの一つとして持っている。


実は自分が、結婚もして、子供もいても、深い孤独の世界にいることを、あきらめとともに受け入れている主人公の前に、その孤独を共有できる女性に出会ってしまう、というお話。


別に、一人っ子に限らず、非常に物質的に豊かで、親に甘やかされて育った団塊のJr以降の世代(もちろん僕も入る)は、内面の自分が孤独のままで、、、、ナルシシズム・・・・・ナルシーというのは地獄なんですよ、出口がない世界だから、、で苦しみ続けます。


このナルシシズムからの脱出が、村上春樹の最大のテーマです。『海辺のカフカ』になんか、そのあたりがあまりにストレートに出ていますよね。



そして、この『アメリ』も映画のテーマは、まさに、ナルシシズムからの脱出です。


学校にも行かず、神経質な両親のもとで育ったアメリは、幻想の中に逃げ込む癖を持ってしまい、現実と関係を結ぶことにひどく恐怖を覚えています。


この他者との関係を切り結べない孤独な世界を、ある意味、不思議子ちゃんとして妙におかしみのある感覚で描くのは、ヨーロッパ的・・・とりわけフランス的だなぁ、と思います。


日常の不毛感覚を、アメリカや日本ではまだ絶望として描くのですが、ヨーロッパ映画だともう当たり前として描いてしまうからなんですよね。


意味伝わるでしょうか?


たとえば、アメリの恋人となる青年は、パスポート用の証明写真の失敗したものをゴミ箱からあさって収集したり、工事現場のバイトで生コンクリートについた足跡を収拾したりしています。


これって何か分かりますか?(笑)


これは、他人の人生の断片を収集しているのです。


そうすることによって、他者に出会いたいと思っているのですが、直接ぶつかる勇気はないので、外側からのぞき見る、という臆病な行為になるのです。


アメリの隣人もそうですが、ほぼ全ての登場人物が、のぞき見の癖を持っていますが、これには、他人と直接ぶつかるのが怖いという現代社会特有の臆病さを戯画化しているのです。


またアメリのお父さんが・・・・あのドワーフのシーンは、最高に笑えるのですが・・・・彼は、妻が死んで以来の引きこもりですが、ある時、アメリのある働きかけによって、世界中に旅する気概が生まれ、旅行に出かけます(笑)。彼も、自分の世界逃げていたところからの脱出ですね。


全編、そういった他人と直接の関係を切り結べないナルシシズムの行き止まりの世界から、現実へジャンプすることを描いています。


アメリも、行動力がありそうに見えて、実は世界をすべて空想と妄想でとらえています。だから不思議子ちゃんです(笑)。


生の現実を直接にとらえて行動するのではなく、自分の妄想・・・コントロールできる範囲でしか、他者と現実にアクセスしない微妙な距離で世界と対峙しているのです。



けれど、それではだめだ。



それではだめなんだ、とアメリは、思い、自分を変えようとします。


しかし、その変えるためのきっかけが、40年前の少年が隠した宝物箱で、その宝物箱を40年後の男性へ返すことができたら自分を変えようと決めます。


この辺の、わけのわからない偶発性に人生をかけよう


とするところは、いかにもフランス的


僕は、エリック・ゾンカ監督の『天使が見た夢』を思い出した。

ハピネット・ピクチャーズ
天使が見た夢

これも、主人公の女の子が、植物人間になった子供に、病院に忍び込んで、ずっと意味もなくしゃべりつづけることが、主人公を救うことになります。


このへんの、自分がナルシシズムの閉塞感から逃れるための


決定的な何か!


が訪れるのを待つ時に、ロシアや東欧では、すぐに虫になってみたり(カフカ!(笑))、老女を殺害してみたり(ドストエフスキー!(笑))するのに比べ、ずっと洗練されていて、そして、ずっと気が弱いと思うのが、とてもフランス的ですね。


こうしてみると、このアメリという作品は、典型的なナルシシズムの地獄からの脱出物語となっているんですね。


いやー見事な脚本です。




Wikiより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%A5

・主な主演作

エステサロン/ヴィーナス・ビューティ Vénus beauté (1999)
アメリ Le Fabuleux destin d'Amélie Poulain (2001)
愛してる、愛してない... À la folie... pas du tout (2002)
スパニッシュ・アパートメント L'Auberge espagnole (2002)
堕天使のパスポート Dirty Pretty Things (2002)
巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)Pas sur la bouche (2003)
ロング・エンゲージメント Un long dimanche de fiançailles (2004)
ダ・ヴィンチ・コード The Da Vinci Code (2006)


ハピネット・ピクチャーズ
ミシェル
レントラックジャパン
愛してる、愛してない...
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■『皇国の守護者』 原作:佐藤大輔 マンガ:伊藤悠 日露戦争のような戦記ものファンタジー

http://ameblo.jp/petronius/entry-10011959897.html


■『皇国の守護者~2巻:勝利な気名誉』 佐藤大輔著

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012612635.html


評価:★★★★☆星4つ半(僕的主観:★★★★☆星4つ半)

現在、8巻まで読了。


戦記モノのファンタジーとしては、傑作といっても過言ではない。好きな人ならば、相当入れ込んで読める。ただ惜しいのは、まだ完結していないので、続きを待つのが苦しい、ということだ。


これは、物語としては田中芳樹さんの銀河英雄伝説と似たカラーを持った戦記ものと考えればいいと思う。つーか作品の構造とか文体とかそっくり。


そして、何度もいいたい!が、表紙の絵が、挿絵が悪すぎる。なにもライトノベルのように萌える絵を用意しろとは言わないが、もともと格調高い分なのでむしろ挿絵ゼロのほうが、望ましい。中身に比例しない絵は、だめだ。8巻からかろうじて変わったのが救い。あの感じならば、許せる。気に入りの副官天霧冴香は、僕の中でもう映像ができているので、あまりにぶち壊す挿絵を書かれると、泣きたくなる(笑)。そもそも、伊藤悠さんのマンガが先立ったから、イメージが違いすぎてダメだもん。あっちが僕には正統に感じるから。



■主人公の新城直衛はナポレオンがモデル?


新城という主人公のキャラクターが、どうも最初の巻でつかめなかった。魅力的ではあったのだが、実体がつかめなかった。


その魅力を僕は、グインサーガのグインのようにそんな奴はいるわけねーよ的な無謬で偉大な特異点を設けることによって、物語のコアとして機能させようという意図なのか?と疑った。


その場合は、中身はまったくなくてもいい。


中身というのは、実体ということ。たとえば、グインには、個性というものよりは、英雄~何でもできるという実体であり、それは逆にいえば人間としての個性が消失していることを意味している。


とても矛盾するし、この筆者の格調高い・・・というか、軍記、戦記ものにありがちな実は表現が修飾語が過剰に多いのに、さっぱりした印象を与える(これも銀河英雄伝説の田中芳樹の文体と似ている)文章にありがちの、ただの修飾語のための修飾語なのかな?とも思っていた。


が、六芒郭の要塞戦闘以降の彼の政治的立場の表現が出てきてから、わかってきたと思う。



これは、ナポレオン・ボナパルトがモデルなんだ、と。民衆に支持された専制国家の独裁者の登場。中国の戦記モノ・・・三国志などの情緒を感じさせる銀河英雄伝説のラインハルトフォンローエングラムに比較すると、これはやはり近代戦の最初期に登場した軍事的天才ナポレオンを思わせる。



背の低い体躯、もてなそうな異形の形相、性格の異常さ、天才的軍事・・・とりわけ戦術面での才能、登場によって時代のパラダイムを一気に転換させてしまう新時代のシンボル、


そして圧倒的な民衆の指示を受けたポピュリズム的専制皇帝


読んでいると、どうしてもナポレオンが浮かんできて仕方がない。


どこにもそんな描写がないが。そう考えると、<帝国>というのは、ロシアがモデルなのは間違いないので、地政学的には、大陸の端に在るという地政学的位置からして


フランス VS ロシア


日本 VS ロシア



というのは、構造的に似ているですよね。全編に貫く、冬の戦略的意味とかも同じだし。


僕もイメージと少ししか、ナポレオンのことはわからないのだけれども、『新暗御行史』のホンギルドン伝説 についての書評で書いたのだが、私有財産制を明確な法体系としてまとめた彼には、非常に興味を持っていて、調べたいと思っている。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10004704548.html



話がそれたので戻ると、新城直衛の人物描写、時代の役割はナポレオンのそれに似ていると思われる。舞台設定があまりに日露戦争時代の日本に酷似しているので、思いつかなかったが、気づくとなるほどと思った。


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■ファンタジーの世界のける武力


それと、この作品は、あきらかに中央公論社のこの類からライトノベルとかファンタジーを題材に扱ったどちらかというと軽い読み物形の作品の位置づけられている。


僕も言葉で説明できるならば、架空戦記ファンタジーといえるだろう。


ただ、ファンタジー世界の武力というと、どうしても魔法になる。以前、魔法先生ネギま!の書評で、戦闘の距離に関すること を簡単に書いたことがあるが、あれって、すべての作品に通じる話で、


物語を物語らしく、「らしく」見せるためには、ウソをリアリスティックにつかなければならないのですが、


そこで戦争・武力における距離の問題をよく理解しているかどうかと言うのは、凄く物語の『ほんとらしさ』に影響します。なぜならば、現実もまた、その原理に従って構成されているからです。


戦闘を描くときの距離の問題

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001786221.html


そういう意味では、ほとんどのファンタジー世界を描くときには、近接戦闘のことしか描けない人が多い。デルフィニア戦記やアルスラーン戦記、もしくはヲタク的な魔法モノのマンガ群なんかを思い起こしてもらえれば、ほとんどが剣と魔法といわれるように、中世の騎士レベルの戦いしか想定していない。


まっ舞台が中世なので、それでいいという話もあるし、そもそも、彼らが描きたいのは、「ここではないどこかに自分を連れ出すこと」「人間関係」なので、そもそも戦争における距離の原理などを勉強して、それを作品に反映させる動機がないのだと思う。


戦争における距離の問題を描きたいというのは、社会のマクロの動きについて描きたいという意思がある、ということだから。ミクロ=人間関係を描きたい人と、人間を超えた仕組みや流れを描きたい人は、求めているものがまったく違うのです。


本来は、中世にも既に攻城戦闘やダイナミックナ運動戦やゲリラ戦、火薬や爆薬など様々に複雑な戦術が出揃っており、ただ剣だけで戦うわけでもないのだ。本当はね。ただ、興味がないので、描かれていないのだと思う。


なぜならば、そういった・・・・とりわけ戦車(馬や牛、象が引くものね)や城攻めのための道具を戦争に描くためには、それをそろえる兵站や技術レベルの問題点、戦術論などなど、社会の背後にあるシステムが理解できて、描けていないとだめだからだ。


例えば、グインサーガなんかは、グインがなぜ戦争に強いのかといえば、それは近代戦的な情報将校や伝達のシステムを中世ながらの戦争に新しく革新的に取り入れているからだし、イシュトバーンが重要視しているのは有効需要政策による国家の経済力の活性化や人材登用のシステムリニューアルを実施しているからだ。さらっと描かれているが、


こうした技術や産業、戦術などのあらゆる社会的背景が、戦争の最前線に結実するようになった昨今の、近代・現代戦を描こうとするファンタジー作家は少ない。先ほども行ったように、ファンタジー作家がもともとなんで異世界を描くのか、という動機が、それと異なっているからだ。


そういう意味で、完全に異世界を構築しておきながら、近代戦というものを真正面に描いて、しかもそれをエンターテイメントとして面白く成り立たせてしまっている、というのは素晴らしいコンセプトだと思う。


しかも、秋山好古が活躍した日露戦争やナポレオンの時代というように、まだ近代戦が登場しつつも、個人が個人足りえ、英雄が存在できた時代であるという時代設定もまた憎らしい。


これ以上先に行くと、現代戦になってしまい、


現代戦は、個人はほとんど登場する余地がない、マクロの政治の時代になるからだ。また核兵器という遠距離火力の登場が、有史以来数千年の戦争の仕組みを変えてしまっているので、もう個人の意思ではどうにもならないレベルまで来てしまっているのだから。


■東方辺境姫ユーリアの心変わり


テーマとしても、物語としても、とても面白いし深読みすると納得もできる。しかしながら、やはり内面の動機の変換について説明が不足しすぎている。

部下の叛乱にあったとはいえ、事実上の<帝国>の1/3を支配する東方辺境領の副帝家のトップでありながら、そして、天才的な軍事戦略家としての才能と強大な軍を専制的に動かせる地位の全てを捨てて、新條直衛の愛人となって亡命するには、やはりもう少し内面の描写が繰り返されないと、意味不明になってしまう。


作者の佐藤大輔さんは、戦争をダイナミックに描写することも、新條直衛という得意なキャラクターの視点で世界を眺めることも上手いが、その他の人々の心の動きを描写するのが凄く下手。


逆に、マンガ版の伊藤悠さんの素晴らしさが浮き出たのは、


この戦記モノのダイナミックさをヴィジュアルで表現できたことと、


人間の・・・・その他大勢の人々の群像劇を描くことによって、


より深くい新條直衛という存在が巻き起こす、状況を動かす力、というものの凄みを演出するのに成功しているからだ。


かなり魅力的なキャラクターを作り出しているだけに、そこが残念。


   


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評価:★★★★★星5-α (僕的評価:★★★★★星5つ)


■大きな物語を壊したいと思う衝動


そもそも「大きな物語」は、人々が反抗し、壊し、解体したという欲望の対象になるものだ。


なぜか?


それは、物語が「現実の多様性」を隠蔽・抑圧してしまうという機能を持つからだ。


ここで、「大きな物語」とは、クーンのパラダイムと同様の意味で使用しています。パラダイムと同じ文脈で機能する共同幻想と置き換えていいです。


パラダイム※1とは、その時代、時代で支配的な物の考え方と前提のことです。


まぁキリスト教の天動説と地上説に、その次のニュートンの古典力学と量子力学への流れなどを見れば良くわかるのですが(このへんの話は多いですよね)、そもそもその時代に支配的な「大きな物語=パラダイム」というのは、それそのもので、系(コロラリー)として完結する体系を持っています。


ニュートンの古典力学なんかは、まったく異なる世界観に貫かれた量子力学とはほぼ相容れない存在なのに、同時に科学の体系として今は信じられ利用されています。


だから、その完成度の高さが、それ以外の価値観を見えなくする・・・・理論と体系を持って世界を秩序付ける視点で見ると、それ以外の価値観が見えなくなり、、、そもそも生の現実を生で見る機会を消失してしまいます。


これは、ガルブレイスの書評時に、「なぜ経済アナリストや経済学者の予測がまったく当たらないのか?」という疑問で、書きました。


僕の物語論の核心でもあるのですが、



人間は、生の現実を見て生きてはいない



人間は、自分の信じる物語を生きている




という部分ともリンクします。だから、僕の倫理的メッセージは、絶対的な物語を信じつつ豊かに生きよ、そして、同時に生の冷酷な現実を直視できる強さを持て・・・です。


話はそれましたが、物語に、人間をして幻想を見させて、生の現実を見失わせてしまう機構が存在するとするならば、大きな物語と相反する現実を生きる人間にとって、非常に息苦しいというのは、お分かりでしょう?。


この息苦しさが、ヨーロッパの異端審問や魔女狩りを思い出していただければ、いかに、危険なものかわかるでしょう。異端や異物は、排除したがるものなのです。


また、政治・思想的にも、外部との独立を守るためのオーソドックスの維持・擁護は決して否定できる行為ではありません。

だから、その時代の数多区の人間が生きる「大きな物語」とは、ただそれがたくさんの人が信じるというそれだけで、少数者の抑圧となるのです。


そして、だから常に、「大きな物語」には、大きな責任と、強烈な少数者からのレジスタンスが広範囲内在して隠れているということないなります。


このダ・ヴィンチ・コードの核心は、やはり、オーソドックスなカソリックという世界観に対するあまりに見事な物語の解体を志向しているが故に、これほどの大きなうねりになっっとのだと、僕は思います。


ダヴィンチコード065.20


■シラスとアリンガローサの描き方に不満がある


映画版と小説版の大きな違いのひとつはここ。


>また、ほとんどの場面を省略していないくせに、シラスが霧の中で祈る、この物語の中で最も感動的かつ美しいシーンをカットしているのは疑問が残る。これではシラス役、ポール・ベタニーの好演も台無しだ。
http://movie.maeda-y.com/movie/00726.htm 引用(超映画批評)


これ、物凄い同感。


これでは、作者の意図が全然伝わらないし、シドニィ・シェルダン的に外面の舞台設定ばかり上手く展開させる技巧者になりがちのダン・ブラウンが、唯一人間の内面の深さを描いている核心の部分が、失われている。これは、作者の意図の悪い意味での曲解と思う。


廉価版下巻のp212の原作の霧の中でシラスが祈るシーンは、僕も落涙した箇所なので、凄い残念。


そもそも、このダヴィンチコードという作品の主人公はシラスだと思っている。


そして、キリスト教・・・というか信仰のせつなさと素晴らしさがこれほど見事に描けている場面も無い。


僕は、超好きな落合尚之さんの『黒い羊は迷わない』の2巻のラストシーンを思い出した。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10002518260.html


死が、絶望でなく希望として描けるのは、天才のなせる業だと思うから。


せっかく原作にセットされているアリンガローサ司教とシラスの深い師弟関係の美しさが、全然描かれていない。つーか、映画ではたぶん全然理解できまい。

06.5.26 1

06.5.26 2

オプスデイという組織のアリンガローサ司教とシラスは、聖杯をめぐるカソリック教会とシオン修道会の大きな対立に巻き込まれて、



少しでも自分の信じる良いことをしようと清廉な思いを貫き



そして、殺人を犯し、愛し合う子弟で殺し合い、結果としては最悪の結末を迎えてしまっている。この視点は、素晴らしい。



なぜならば、単純な陰謀説や善悪二元論の対立構造の中で描けば、カソリック教会やオプスデイは最低の陰謀組織として描いてもいいはずだ。



この作品は、オーソドックス・正統派(大きな物語)の解体を思考するレジスタンス勢力(シオン修道会)からの視点で描かれているのだから、すべては教会が悪い、と結論付ける物語のダイナミズム(=敵は誰だ!)でいいはずだ。


ところが、実際は、そう簡単じゃない。


たぶんこの影の評議会を動かしているヴァチカン教皇庁では教皇はこのことを知らないようだし、聖杯の真実を公開しようとするシオン修道会側も、思いもかけない部外者が、狂信的にそれを公開しようと暗躍する。


つまりね、必ずしも本質では、聖杯をめぐる対立がそんな戦争や殺し合いなどの悲劇を招かず話し合いで解決できることも多々あるはずなのだ・・・・モノの道理のわかったトップレベルの人間同士ならば。


けれど、組織は一度動き出すと止まらない。また一部の曲解する狂信者などが暴走して、結局は、大きな悲劇を生んでしまう、という



世界の良くある縮図



なのだ。



だから、アリンガローサの最後のシラスへの素晴らしい愛についての言葉・・・・これを最後の最後にしゃべることができるアリンガローサ司教は、多くの過ちがあったとしても、その弟子への愛、そのキリスト教理解の深さが、本物であったことが分かって、僕は感動した。


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p194
「赦しの心は、神がお恵みくださった最高のものだ」


「ですが、神父さま・・・・」


「シラス、祈りなさい」


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そして、あの悲惨な人生の中から、愛するに足る親にも似た無私の愛をくれたアリンガローサに出会えたことが、シラスという男にとって、いかに素晴らしかったか・・・・。


そんな素晴らしい師弟愛を基にしたものが、あんな悲惨な間違いへ叩き落されるさまは、、、、権力というものや世界の仕組みがいかに汚いかを、僕は強く感じさせる。


ここでは単純な陰謀論、単純な善悪二元論(カソリックVSシオン修道会)といったレベルの低い枠組みではない、片鱗が垣間見えて、いい作品になっている、と思っている。



が、映画ではこれが全然ないのだ。



少なくとも、初めて見た人は分からないだろう。


それは、ダメだよ、ハワード監督。


閑話休題




■原理主義への眼差し~宗教は本来は反社会的なモノなのだ



ちなみに、p192のアリンガローサと教皇庁との会話は、現代の宗教を考える上で、素晴らしく興味深い。


これは、原理主義の復活を志向している話だからだ。


ある時、ニューアカデミズムの少し後か(笑)、、、中沢新一(チベット仏教のニンマ派の紹介をした人で宗教人類学者)があれほど人気あるのに、なぜ仏教自体は人気がないのか?とある僧侶が不思議の思っているという文章を読んで、、、そんなこともわからないのか(笑)、と情けなくなったのと同じ。


信仰は、世俗化すればいいわけではない。


大きな、時代を経て社会との折り合いとつけた宗教は、軒並み世俗化するが、

それでは人は救えないのだ(とりわけシラスのような世俗からはみ出る人間をね)。


世俗の世界をはみ出してしまう極端な人間を救えなければ、宗教の価値がなくなるのだ。既成の宗教がその超越志向の部分から手を引いているが故に、新興宗教が乱立するのだ。


その辺の世俗化したオーソドックスな大宗教と原理主義や異端分派の対立のダイナミズムを、良くとらえている、と思った。


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■ノラネコの飲んで観るシネマさんより


いつも映画を見るときに参考にさせていただいているノラネコさんのブログがやっぱり、おもしろいので、いくつか引用。(←だめならばコメントください)。最新の映画でないと、重ならないので、いろいろコメントしたかったのだが、久しぶりに見た映画が重なって、うれしくてコメント(笑)。
http://noraneko22.blog29.fc2.com/



>アキヴァ・ゴールズマンの脚本は原作のプロットにほぼ忠実に、しかし全く同じではない。
何人かのメインキャラクターの性格付けや関係は、原作版とは少し異なり、その脚色は成功している部分と失敗している部分がある。
一番大きく変わっているのはファーシュ警部とアリンガローサ司教の関係だ。



まさに、です。



>原作に比べると、よりカソリックの陰謀部分が強調されていて、明確な悪役としての性格が与えられている。(オプス・ディは執拗にこの映画に抗議しているようだが、確かにこりゃ怒りたくもなるわな)


僕も同感です。


少なくとも原作には、もう少し複雑な背景が隠れていたと思う。世俗宗教の原理主義への復興と、近代社会との軋轢という背景の中で、少なくともアリンガローサ司教は、その狭間で悩む真摯な人物だ。これは、宗教の反世俗的な部分を真摯に追う人間ならば、必ず問われるといであると思う。


数々の新興宗教や過激な異端も神秘主義も、ようは世俗社会にはまらない超越的な人々の救済を志向しているわけだから、この部分の真摯さは、否定できないんだ。凄い危いものだけれども。超越志向は、120%間違いなく反社会的行為に向かうのが普通だから。特に組織化するとね。


僕も、世俗にいる人間だから世俗社会から見ると、そういった新興宗教的な過激さは、明らかに反社会的なので、正直『こちら側』からは肯定できない。が、、、その狭間で悩む人間を否定はできない。むしろ、アリンガローサ司祭の立場からすると、僕にはバチカンこそ、愚劣な正統性に逃げ込むように見える。


・・・・・あくまでこの物語の中から見ると、ですよ(ちょっと逃げ(笑))。



>原作には、ぶっちゃけた話明確なテーマが無い。



映画化するに当たって、ここが一番難しいところだと思っていたのだが、ドラマ的な閉めにテーマを持ってきたのは流石だ。


逆にいうと、それが、悪役の不在という形で、原作・小説をしまらない構造にしてしまっている部分もある。映画化あたって、その悪役の不在を、明確な悪役に位置づける形でオプスデイを出してくるのは、脚本家としては、非常に合理的な判断だ。


しかし、僕からすると、それが原作の曖昧であるが豊穣な部分を、壊したような気がする。もっと、徹底的に悪魔のような存在にできれば、良かったのだが(笑)。


それこそ、すべてバチカンが、教皇が、殺人指令を出していた!ぐらいの超陰謀説まで持ってくれば、逆にインパクトがあったのかな。


>ところで劇中の、教会が守ってきた権威と女性論みたいなところで、妙なデジャヴを感じたのだが、実はこの話は某国の女性の皇位継承問題と良く似ていたりする。
天皇は正しく司祭王そのもので、元々宗教的権威だ。



あーこれは、素晴らしい視点。


もともと、この話は、グノーシス(智恵)に至るための女性との交わり、つまりSEXを肯定し、グノーシスへの入り口となる女性の性を聖なるものとして崇拝する女神崇拝の考え方が、基調低音に流れている。


http://critic.exblog.jp/282302
世に倦む日々


にも書いてあったが、ラジカルすぎた男女平等主義者のイエス・キリストのあまりに当時の状況から離れすぎた過激な意見を、どちらかというと僕は弟子たちが布教に影響しないように緩和した、というのが本当のところのような気がする。ティーピングのいうような弟子たちと教会の陰謀というのは、ちょっと陰謀史観的すぎる気がする。


でも、男性原理ばりばりに見えるキリスト教カソリックであっても、実は、マリア信仰のように女性性を崇拝する女神崇拝の志向は脈々と受け継がれているのだ。

そして、そういった原初的な女神崇拝は、一神教のような絶対神が登場する前段階の、ケルトや日本の古代のような社会にこそ、深く残っている。


そして、近代化の進んだ先進国にはめずらしく日本が、そういった古代の古層的な宗教感覚や組織を、近代化の後でも奥底では残しているのは、周知の事実で、新嘗祭などそもそも天皇の存在は、まさに、それそのものだもんね。





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『現在官僚系もふ』の①からの続き

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012763386.html


■物語を評価する時の時間軸として過去


広がり、、、と深み、というのは、小川一水さんの『こちら、郵政省特別配達課』『回転翼の天使~ジュエルボックスナビゲイター』について書評を書いたときに

書いたものの展開なのだが、

日本社会について何かを書くときに、


横軸



縦軸


があると思うのだ。


横軸がよく書かれていると感じるのは、『踊る大捜査線』や『機動警察パトレイバー』などにあるように、日本 社会の組織の構造的問題点をテーマにしているものだ。

     
容疑者室井慎次 THE JUGEMENTDAY
http://ameblo.jp/petronius/entry-10003814797.html

マンガの『駐禁ウォーズ』もそうかも。あげればきりがない。

今井 亮一, ウヒョ助
駐禁ウォーズ 3 警察ってわけわからんの巻―交通取り締まり金脈研究 (3)

この前書評書いた山本七平氏の『日本はなぜ敗れるか』や小松真一氏の『虜人日記』や、山崎豊子の『白い巨塔』『不毛地帯』などなど。 僕は、サブカルチャーが好きなので、マンガなどが多いが、とにかく真面目なものからサブカルチャーまで舞台が日本であればすべて同じ原理で評価できると思います。

小松 真一
虜人日記
山本 七平
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条
山崎 豊子
白い巨塔〈第1巻〉
山崎 豊子
不毛地帯 (1)


これは、現場と指揮官、エリートとノンエリート、キャリアとノンキャリア、本社と子会社、支店などの日本の 社会の構造的権力構造の問題を扱った場合だ。



ちゃんと抽象化する視点があれば、自分が置かれている事の不満や苦しさが、この大きな日本の社会構造を源に発していることが凄まじくあるはずだ。


日本において組織を描くならば、このテーマは避けては通れない。


   


とりわけ、明治維新以来、世界史上最高の平等化システムとして発達したナンバースクールと東京帝国大学を中心としたペーパードラフトによる選抜システムと、その結果としての勅任官の秩序(ようは近代天皇制度ね)を中心とする官僚組織の発達は、日本近代化100年の大成功の根本基盤です。世界に誇る制度です。


そして、その根本基盤こそが、薬害エイズや脚気の問題などの薬害問題や、分けのわからない軍の暴走を許した統帥権問題や、まったく合理性を書いた米国との戦争や、その引き際の最低さ、国家レベルでの戦略性の欠如などなど日本の病巣の最も深い原因でもあり、日本民族の恥でもある。

『もふ』で描いている狂牛病の判断問題も、この薬害問題と同じルーツの話だ。

横軸とは、今現在の問題を分析したり、物語にするときに、この構造的問題点・・・・日本社会の官僚システム(官僚とは、組織があるとこはすべてであって、公務員のみではない)の素晴らしさと病巣の両方を射程にとらえているかどうか?、だ。


日本社会のけるある程度の規模の組織に属し、日本社会の中に生きている人間であるかぎり、この構造的問題点は絶対に無視し得ない。


すべての自分の生活の良さと悪さの遠因・・・もしくは直接の原因となるものだからだ。


この「もふ」ってのは、この横軸はよく見えている気がする。しかも、それを、体験記系の「わかりやすさ」をちゃんと達成できているとおもうのだ。これは、なかなかのことだよ。




■歴史感覚の継続性という縦軸


そして縦軸とは?


歴史感覚の継続性があるかどうか?です。



これが、ほとんどの作品・物語、学説はないんです。


実際は、1940年代に日本の革新官僚の手によって作り出された制度というのが、戦後も継続していて、実は戦前の日本と戦後日本は、まったく本質自体は変わっていないことに、日本人が非常に無自覚なことです。この学説は非常に有名すぎて、もう例を挙げるのもめんどくさいです(笑)。



なんで、そんな歴史の継続性に対して無自覚か?



これは1945年以降の戦後民主主義思想とかアメリカによる洗脳とか、まぁいろいろ理由はあるが、とにかく日本社会自体が、1945年を境に全てが変わってしまった、と幻想を抱きたがっている部分にある。これは、たぶんそれ以前の価値観と国家民族としての世界戦略とそれ以後があまりに変化しているために、どうしてもそう信じ込んでしまうのだろう。また、戦前の経済構造に関する理想が究極に完成したのは、ニューディーラー(ほぼ隠れ共産主義?)の米国GHQ米国占領軍によってという(笑)エラクひねくれたねじれがあることからも来ていると思う。


いまのイラクへの米国の統治や占領政策を見ていると、1945年以後の日本の民主化政策とそっくり。いかに、うそっぽくて手ぬるいかがわかる。米国では、自分たちの手で日本を民主化したと思っているバカも多いようだが(まぁトップ層はそんなバカな話は信じていまい)、そもそも自力で明治維新と近代化を成し遂げ、議会制度を運営し続けた当時の日本人が、もしくは江戸期の日本社会の発展こそが原因であって、外から近代化ができると思うのは、甘いといわざるを得ない。


戦前日本が、東アジアや韓国、台湾へ国を傾けるほど投資したことを考えれば、やるとしても手抜きではできない。しかも一番重要なのは、金ではなくエートス(=行動様式byマックスウェバー)だからね。


マックス ヴェーバー, 大塚 久雄
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

米国だって、日本の戦後近代化のために、軍事費の肩代わりという大きな代償を支払っている。マーシャルプランなんか、すげぇ贈与だよ。


あと、最近思うのは、この1945年以降の日本の戦争の毛嫌いの平和ボケ病は、やはり、第一次世界大戦後にイギリスやヨーロッパがおかれた、戦争拒否の強烈な民衆感覚と同類のためだと思うのだ。


国土が灰になるほどの総力戦を、ヨーロッパは二度経験している。しかも、二度目は、ナチスドイツというあまりも見れば分かるヤバイやつを、躊躇せずに武力介入しなかったために起きたという痛い教訓がある。


そういう意味では、日本は、国土が灰になるほどの総力戦は、まだ一度しか経験がない。



その差と、歴史ステージの問題かな、とも思う。


話がずれたが、、、、


つまりね、社会の構造自体は、戦前のまま。


しかも、日本社会の明治維新のときの坂本龍馬や岩崎弥太郎、伊藤博文、後藤新平とかとか、、、などなどまぁ誰でもいいんだが、


日本という辺境の土民国家が、巨大なパワーズ(列強諸国)に対抗して、近代化し独立を保つにはどうすればいいか?


この日本民族最大のテーマが、まだ継続して続いているんです。


あらゆる文学の基本テーマもそこです。夏目漱石に始まる自我や自立とアジア的共同体主義の対立の問題や、正岡子規の近代国語の成立などなど、、、



それは、たぶん日本のそれなりの大きな、もしくは古い組織すべてに共通する理念であり、志なはずです。その最初期のアジア発の自力での憲法である大日本帝国憲法の建国の父たちの憲法理念や、会社の設立理念に遡れば、すべてこのテーマ、問題設定に遡るはずなんです。


そういうのって、司馬遼太郎とか読むとすぐ出てくるほど、よくいわれる話です(笑)。


たとえば、世界に類を見ない不思議な組織である総合商社は、岩崎弥太郎という坂本龍馬の子分?(といったら失礼か(笑))によって三菱財閥が作られたことにはじまり、それは、龍馬の海洋貿易構想があったために生まれました。旭化成は、満州の電力開発のためのものだし、、、とにかく、調べればきりがないです。


いまの日本のビックネームの会社や官僚組織の、建国、組織設立の父たちのテーマがそれだからなんですよ。


そして、この概念には、民族自決、民族独立という福沢諭吉が一番心砕いた「独立」の概念と結びついているもので、


戦後の日本には、構造こそ変化がまったくないくせに、この「独立」という明治建国の理念と、「現在」が結びつきません。


だって、危険でしょう?(笑)。


こんな日本の組織の当たり前の出発点でも、話すと、すぐ軍国主義の復活か右翼だ!となってしまいます。


戦後日本の右翼はマーケティングを失敗したせいで、日本社会には、健全な愛国心や防衛、独立意識が歪んで育っています。


それは、1945年以後の日本の価値化の選択があるのですが、、、、


それはまた今度にして、


とにかく、日本社会のあらゆる組織を舞台にするものは、まず日本社会の構造的よく横軸の問題点と、


縦軸の歴史の継続性の自覚


というものが、重要だと僕は分析しています。そして、あらゆる会社の理念やミッションにも、これがないと最後の軸が通らないんですね。だって、その組織の設立理念やつくられた構造の原因を無視しているわけですから。


この歴史の継続性を意識して、今の日本の歴史的に続いてきた問題点をえぐることがなければ、


それは、組織分析であれ、経営であれ、文学であれ、小説であれ、つまらん!、と僕は思うのです。


・・・・長かった(笑)


鍋田 吉郎, 並木 洋美
現在官僚系もふ 4 (4)
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