【用語解説】 妖刀 村正 (ようとう むらまさ) | 桃象の観劇書付
「村正」は室町時代に伊勢国桑名で始まった刀工の名で、その一派が打った作品の銘。
 


初代村正、天下の名工 正宗のもとで修行しているときに
あまりに切れ味にこだわりすぎる村正を案じた正宗は、

ある時、互いが鍛えた刀を川面に突き立てました。
刃は上流を向いています。

正宗の刀は、水流を分けるのみで、流れてきた落ち葉は刀を避ける様に下流へ去っていく。
かたや村正の刀は、落ち葉を吸い寄せ、それを真っ二つに斬る…。

これを見た正宗は「斬れるだけでは真の名刀とはいえない。
斬れ味にこだわり過ぎる心は邪気となって刀に宿り、
斬らなくてもいいものまでを斬ってしまうのだ」と諭しました。
しかし、村正は「斬れることこそ刀の真髄」と言い残し、正宗のもとを去ったといいます。

そんな寓話が残る程、村正ブランドの最大の売りは、その畏しいまでの切れ味だったと伝えられております。
一旦鞘から抜くや血を見ずにいられぬと、そんな風にいわれております。


 
村正が、妖刀といわれるようになったのは、
関が原を制し戦国に覇をとなえた徳川家に数々の禍を為したから。 
徳川と村正の因縁は、まずは家康の祖父・松平清康から始まります。
 
若くして三河を平定した清康が、尾張の織田を攻める最中、
守山城攻略戦の内に家臣である阿部正豊に後から
袈裟に懸けてズンバラリンとやられてしまったのが発端。

正豊が振りかざしたのは、言わずもがなの村正。
その切れ味は評判を損なう事無く、傷は右の肩先から左の脇腹まで達していたといいます。

敵城の大手門まで攻め上ったところでの暗殺事件により、
松平軍は撤退、その後勢力は衰えていきます。
「守山(森山)崩れ」といわれる事件です。清康は享年25歳でした。
 
 さらに、家康の父・広忠も家臣・岩崎弥助に暗殺されたそうで、その時の刀も村正だったとか。
 
さらにさらに、家康嫡男の信康が切腹する折に介錯したのも村正。
 
さらにさらにさらに、家康自身も村正の槍を検分している時に手を滑らせ指に怪我をしたり。
 
そんなこんなで、村正は妖刀の名を欲しいままにするのです。

■ 
 
反面というか当然、徳川家に恨み反感を持つ者はこぞって村正を所持したそうです。

真田、島津、鍋島、福島といった豊臣恩顧の大名達も密かに所有し、
時代は変わって明治維新を迎えては西郷隆盛や、有栖川宮熾仁親王も
村正を帯刀していたという話が残っております。
嘘かホントかは判りませんが、由井正雪も村正愛用者だったとか。



その後、大衆の間で「村正」の噂が色々と脚色されて広まり、
血を好む「妖刀 村正」として今に伝わっていった。



寛政9年 (1797) に初演された初代並木五瓶作の
歌舞伎『青楼詞合鏡』(さとことば あわせ かがみ)で村正は「妖刀」として扱われており、
この頃にはすでに妖刀伝説が巷間に普及していたことが窺える。

万延元年 (1860) には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた
二代目河竹新七(黙阿弥)作の『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)が初演され、
大評判を博した。

明治21年(1888年)には、三代目河竹新七によって『籠釣瓶花街酔醒』が作られたが、
これにも作中に村正が登場する。




さて このようないろんな伝承がある  「血を好む妖刀村正」

劇団都の お芝居「夢花火」

金田宅の場面で  金田さんが コレクションをしているものの中に

「妖刀村正」があり、
その刀 で 夢乃真は 金田さんに 斬りかかってしまいます。

もし、金田さん宅にある刀が 「村正」ではなく
「正宗」で あったとしたら こんな事件は起きなかったかもしれません

お芝居中 この「妖刀村正」という刀の名前は 金田さんのセリフに 
一度だけ登場するだけで サラッと 流れてしまうのですが

この「刀」には かなり 深い意味合いが込められているのでございます。