2014年春に前立腺がんがわかり、通院治療をしていた父は数値も安定し、落ち着いた状態でした。
が、11月27日、突然左下肢が動かなくなり、転移性脳腫瘍と診断されました。
病院によると、数値が安定していた前立腺がんの転移は考えられず、他の臓器をよく調べたほうがいいと言われました。
その病院で放射線治療を受け、3週間後退院。足はまだ不自由で、放射線治療の影響で吐き気等もありました。もともと前立腺がんで治療していた病院で内科の検査をし、腎がん、それも進行性の末期で、余命6カ月の宣告を受けました。もう腎臓は手の施しようがないと。
春に血尿で前立腺がんと言われた時も、本当は腎臓から来るもので、そのときにもっとなぜ他の臓器を調べてくれなかったのかと、そうすればまだ何かできたのではないかと、後悔ばかりでした。もともと父は、主治医に「弟も前立腺がんなのに血尿なんか出たことがない。」と言ったら、「それは腫瘍のできた場所の違いです」と言われていました。だから安心してしまっていました。すべてが私たち家族はもとより、父本人も受け止めるには厳しい現実でした。
2014年大晦日、結婚して初めて、父母と過ごしました。
おそらく父にとって最後になるかもしれないお正月を静かに一緒に迎えることができました。
お正月になって、妹家族も来て、にぎやかに過ごしました。
しかし父の食欲はあまりなく、足もまだ思うようにいかず、家の中でも車いすを使っていました。
そんな父が一つだけ思い残していることがあると言っていたことが、妹の埼玉の新築した家に行ってなかったことでした。母は暖かくなったら、と言っていましたが、妹がお正月に来たときに連れて帰って次の休みのときに私たちが迎えに行くことにしました。もし春に連れていけなかったら・・・と思ったからです。
1月4日に埼玉に父母も一緒に行って、寒く雪の多い新潟と違って、毎日暖かくお天気の良い埼玉はとても居心地がよかったらしく、父の食欲も足もみるみるうちによくなって支えがあれば自分の足で歩けるようになっていました。放射線治療の効果もあったようでした。
父は新潟に戻った後も、埼玉にいたときの調子を維持したい、それが本人の励みになっていました。気力の支えでした。
しかし、2月に入ったころから、吐き気がひどくなり(つわりのような感じ)、食べられるものを、食べれるときにという状態になってから、みるみる痩せてしまい、体力も落ちてきていました。
2月18日母の新大病院眼科、最後の診察の日、父も一緒に連れて行ってほしいと言いました。
この時が通院以外の最後の外出でした。
3月9日通院の日、会社帰りに父の顔を見に行ったとき、ひどく疲れた様子でした。
そして3月11日朝、母から、「熱もあり、起きれない状態で眠っているから、入院する」と連絡があり、夕方母は主治医にあと一週間くらいだと言われ明日から、個室に移りますとのことでした。わたしが病院へ行くと、熱でもうろうとした感じですが、私の声に反応し、目を少し開けるようなしぐさをしていました。その時は熱が下がったら少し持ち直してくれるのではと思っていました。
が、11月27日、突然左下肢が動かなくなり、転移性脳腫瘍と診断されました。
病院によると、数値が安定していた前立腺がんの転移は考えられず、他の臓器をよく調べたほうがいいと言われました。
その病院で放射線治療を受け、3週間後退院。足はまだ不自由で、放射線治療の影響で吐き気等もありました。もともと前立腺がんで治療していた病院で内科の検査をし、腎がん、それも進行性の末期で、余命6カ月の宣告を受けました。もう腎臓は手の施しようがないと。
春に血尿で前立腺がんと言われた時も、本当は腎臓から来るもので、そのときにもっとなぜ他の臓器を調べてくれなかったのかと、そうすればまだ何かできたのではないかと、後悔ばかりでした。もともと父は、主治医に「弟も前立腺がんなのに血尿なんか出たことがない。」と言ったら、「それは腫瘍のできた場所の違いです」と言われていました。だから安心してしまっていました。すべてが私たち家族はもとより、父本人も受け止めるには厳しい現実でした。
2014年大晦日、結婚して初めて、父母と過ごしました。
おそらく父にとって最後になるかもしれないお正月を静かに一緒に迎えることができました。
お正月になって、妹家族も来て、にぎやかに過ごしました。
しかし父の食欲はあまりなく、足もまだ思うようにいかず、家の中でも車いすを使っていました。
そんな父が一つだけ思い残していることがあると言っていたことが、妹の埼玉の新築した家に行ってなかったことでした。母は暖かくなったら、と言っていましたが、妹がお正月に来たときに連れて帰って次の休みのときに私たちが迎えに行くことにしました。もし春に連れていけなかったら・・・と思ったからです。
1月4日に埼玉に父母も一緒に行って、寒く雪の多い新潟と違って、毎日暖かくお天気の良い埼玉はとても居心地がよかったらしく、父の食欲も足もみるみるうちによくなって支えがあれば自分の足で歩けるようになっていました。放射線治療の効果もあったようでした。
父は新潟に戻った後も、埼玉にいたときの調子を維持したい、それが本人の励みになっていました。気力の支えでした。
しかし、2月に入ったころから、吐き気がひどくなり(つわりのような感じ)、食べられるものを、食べれるときにという状態になってから、みるみる痩せてしまい、体力も落ちてきていました。
2月18日母の新大病院眼科、最後の診察の日、父も一緒に連れて行ってほしいと言いました。
この時が通院以外の最後の外出でした。
3月9日通院の日、会社帰りに父の顔を見に行ったとき、ひどく疲れた様子でした。
そして3月11日朝、母から、「熱もあり、起きれない状態で眠っているから、入院する」と連絡があり、夕方母は主治医にあと一週間くらいだと言われ明日から、個室に移りますとのことでした。わたしが病院へ行くと、熱でもうろうとした感じですが、私の声に反応し、目を少し開けるようなしぐさをしていました。その時は熱が下がったら少し持ち直してくれるのではと思っていました。
3月12日、朝、危ないという知らせで飛んでいきましたが、新幹線で向かってきていた妹はもちろん、15分ほどで着いた私は病院の入り口で母と一緒になったものの最期には間に合いませんでした。
ひとりで行ってしまったのかと愕然としましたが、後で聞いたところ、父の弟が奥さんが偶然入院していて、たまたま病棟の廊下で主治医にあい、教えてもらい、病室へ行き、看取ってくれたそうです。
偶然というか、父が呼んだのでしょう。苦しまずに逝った父は本当に眠っているようでした。
あわただしく、通夜、告別式、そのあとの役所なども忙しくあっという間の1週間でした。
これからは一人残された母の支えにもならなければいけません。
幸い、これまで、心の準備が少しでもできたこと、本来の明るい性格のおかげでなんとか元気でいられます。しかしこれからだと思います。
この1年、今までになく実家に行きました。
できるだけのことはしたという思いと、もっとしてあげれたんじゃないかという後悔。
でもみんな父にしてあげれることを一生懸命考えていたし、悔いのないように家族として過ごした日々。一日、一秒でも長く生きてほしい。それだけでした。
幸い、父は吐き気や左腕が痛いぐらいで、そんなに苦しむことがなかったのが救いでした。
そして妹との父の様子のブログもこうやって終わることになってしまいました。3月9日に病院へ行った日のことを書いたのが最後になりましたね。
半年と言われ2か月半、1週間と言われ2日。足早に父は逝ってしまいました。誰にも迷惑も掛けずに。
書道、登山、カラオケなど趣味も多く、友達も多かった父。
今頃、天国で先に亡くなった友達と再会していることでしょう。
棺に入れた筆で書でも書いているかな。
父が、残してくれた言葉です。
「気は長く 心は丸く 腹立てず 口慎めば 命永らえる」
私たち家族はこれからもずっとこの言葉を胸に生きていきます。
ひとりで行ってしまったのかと愕然としましたが、後で聞いたところ、父の弟が奥さんが偶然入院していて、たまたま病棟の廊下で主治医にあい、教えてもらい、病室へ行き、看取ってくれたそうです。
偶然というか、父が呼んだのでしょう。苦しまずに逝った父は本当に眠っているようでした。
あわただしく、通夜、告別式、そのあとの役所なども忙しくあっという間の1週間でした。
これからは一人残された母の支えにもならなければいけません。
幸い、これまで、心の準備が少しでもできたこと、本来の明るい性格のおかげでなんとか元気でいられます。しかしこれからだと思います。
この1年、今までになく実家に行きました。
できるだけのことはしたという思いと、もっとしてあげれたんじゃないかという後悔。
でもみんな父にしてあげれることを一生懸命考えていたし、悔いのないように家族として過ごした日々。一日、一秒でも長く生きてほしい。それだけでした。
幸い、父は吐き気や左腕が痛いぐらいで、そんなに苦しむことがなかったのが救いでした。
そして妹との父の様子のブログもこうやって終わることになってしまいました。3月9日に病院へ行った日のことを書いたのが最後になりましたね。
半年と言われ2か月半、1週間と言われ2日。足早に父は逝ってしまいました。誰にも迷惑も掛けずに。
書道、登山、カラオケなど趣味も多く、友達も多かった父。
今頃、天国で先に亡くなった友達と再会していることでしょう。
棺に入れた筆で書でも書いているかな。
父が、残してくれた言葉です。
「気は長く 心は丸く 腹立てず 口慎めば 命永らえる」
私たち家族はこれからもずっとこの言葉を胸に生きていきます。