ピース君の息子です。


父が旅立ち、早いもので1年が過ぎようとしております。
葬儀は、家族の意向で一切宗教色を出さない自由葬で行いました。
父の最期、お忙しい中見送りに来ていただいた皆様、本当にありがとうございました。


私達のその後なのですが。

父の遺骨は、4等分して、

一つは家に保管しています。

一つは父が毎日ジョギング、ギター弾き語り、テニスに勤しんでいた長居公園の墓地に納骨しました。

一つは友人にお願いして、父の青春時代をすごしたアメリカのミシガン湖に流してもらいました。


そして最後の一つ。

父の生まれ育った和歌山串本湾の海に今週末家族で行って流してきます。


まるでロードオブザリングの指輪を各地に散らばらせるような行為ですがどの土地も父の人生に欠かせない場所です。
なので本人もこの意向に賛成してくれると思います。


残された家族はみんな元気にやっています。
大阪にお立ち寄りの際はぜひご連絡下さい。

心待ちにしております。

iec_peace@hotmail.com


最後に皆さんから頂いたメッセージです。



父自身、BLOGを始めてから常に皆さんのコメントに励まされていました。
皆さんからの書き込みを楽しみにBLOGを更新していたのでコメントが少ない日は
「なんで誰も書き込んでくれへんねんやろう?」
と、凹んでいました。



しかし最後にこれだけ多くの方々にいろいろなメッセージを頂き、本人も安心かつ喜んでいると思います。


たくさんのメッセージ、本当にありがとうございました。





~~~~



■病を中心に生きたくない
厳しい病状に一日一日翻弄される方、先が見えず真綿で絞められるような息苦しさに苦悩される方、楽しい筈がありませんよね。
私もまだ病を苦しみとしか捉えられなて・・・。
自分はこう生きたいのに、病によってわき道へ引き込まれたり後退させられたり。こんなの自分の欲する人生じゃない!って思ってしまいます。


私の受けたイメージでは、ピースさんはそうじゃなかった、ですね。
ご自分の欲するままに行動されてましたよね?
自分の身体なのに思うようにならないくやしさもあったと思いますが、ライブで皆さんを楽しませ、人との関わりを最後まで大切になさってました。
私は現実に存じ上げませんが、またピースさんも私の「言葉」でしか判断し得ないのです。
私は、見得も無い、まやかしもない世界でピースさんと向き合うことができたのです。これは、力、となって私に返ってきましたよ。初めは、頑張って、との思いで書き込み始めましたが、私のほうが安らぎをいただきました。
ピースさん、いつかムーンリバーを一緒に歌いましょうね。今まで暖かい心で向き合ってくださってありがとうございました。
もうしばらくの間、がんばってみようと思います。
バニラ (2006-08-04 14:50:27)



■自分を貫いた
ピース氏とは彼が転校生としてやってきた時からの付き合いだったから、50年近くになる。それを一言でまとめるなら、自分の人生を貫いたということ。絶えず前向きで積極的で。その姿勢は病に冒されてからも変わらなかった。ブログでも彼らしさが存分に発揮された。病を病と思わないほど。冗談でふきとばす勢いで。。。だから、皆まだ彼がブログに再登場するのでは、また、ライブを開くのではという錯覚から抜けきれない。
イカ釣り氏 (2006-08-04 23:01:33)



■バニラさん、一日一日やっていきましょね。
バニラさんのリクエストに応えようと、4月のライブに備え”Moon River"はよく練習してました。
残念ながら、4月26日に救急車で病院に運ばれ、もう歌なんか歌える状態じゃなくなりました。でも、5月31日にホスピスに転院し、3~4日は信じられないくらい意識がはっきりしてきたのです。二人で童謡を何曲かと”Moon River"を歌いました。歌を歌ったのは、それが最後になりました。
”Moon River"は忘れられない曲になりました。
今、CDをかけました。バニラさん聞こえますか?Andy Williamsで我慢しましょう。
ピー子 (2006-08-04 23:22:32)



■安らかにお過ごしください
今頃は雲の上でギター片手に歌を歌っているんですか?
59歳の人生ご苦労さんでした。
日下君との若き日の懐かしい思い出を大切に
これからの人生生きてゆこうと思います。
もう少し待ってください我々もそれぞれ楽器を
練習して雲の上でコンサートを開きましょう
仲間に練習するように言うておきます私が一番
覚えが悪いのでうまく演奏できないかもしれませんがその時は教えてください。
雲の上の新しい仲間も集めておいてください
楽しみにしています。
短いようで長い間ご苦労さまでした。
息子さんも娘さんも奥さんもしっかりしておられ
るので安心ですね。
しばらくの間雲の上で安らかにお過ごしください
                      マサユキ
シュウクリーム (2006-08-05 10:10:43)



■天まで届け
最後の最後までコメント出来ませんでした。実感のないまま、コメントをしているこの時が夢と現実の狭間に居るようです。僕はピース氏から色んな事を学ばせて頂きました。少々照れ屋で奥ゆかしくて、それでも暖かいピース氏の背中を追っていきたいと切に思っています。音楽の好きな氏に届くように大きな声でライブハウスからメッセージを送りますので聞いて下さい。そしてあの暖かいメッセージをいつか僕に返して下さい。夢の間に間に・・・。
kataoka shozo (2006-08-06 23:52:55)



■つたない英語ですが・・
昨年、同じ病気で亡くなった方の奥様宛に、「千の風になって」という詩を送られた方がいらっしゃいました。それを読んでとても心うたれました。
ぜひ、ピースさんのご家族の方に送りたい詩だと思い、調べたら作者不明で元は英語の詩だったそうです。ピースさんは英会話の先生であり奥様もご一緒にアメリカに行かれたとの事。なので英語で送らせていただきます。(スペルが間違えていたらすみません)
A THOUSAND WINDS
-author unknown-
Do not stand at my grave and weep.
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow.
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumun's rain.


When you awaken in the morning's hush.
I am the swift uplifting rush
of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.


Do not stand at my grave and cry.
I am not there, I did not die.


この病気で戦いながらも皆さんに歌と勇気を与え続けたピースさんは本当にすごいと思います。同じ病気の母をもつ娘として、今まで戦ってきた勇気とこれからの戦いの勇気を頂きました。
私の母ももうすぐそちらに伺うかもしれません。どうか暖かく迎えてやってください。
miya (2006-08-07 01:13:55)



■皆さん書き込みありがとう
シュークリームさん>
私もピースは雲の上で歌を歌っているように思います。
Kataokaさん>
ライブを盛り上げていただいて感謝します。最後のライブ(3・26)で、Kataokaさんのお友達の写真家に撮って貰った写真は最高のプレゼントになりました。ありがとうございました。
Miyaさん>
私も『千の風になって』の詩は、新聞で読んでから心から離れないんです。
ピースはこの詩は知らなかったと思います。でも、「いつもそばにおるから、寂しがらないで!」って言ってました。風になったんでょうか?
出来るだけ長く、お母さんのそばに居てあげて下さいね。
ピー子 (2006-08-07 02:00:36)



■先生へ
今まで本当にありがとうございました!
先生の所に行きだして四年目かな?めんどくさがり屋で何週間も行かなかったりしたけどいつも笑顔で迎えてくれたね!勉強の事、私生活の事、仕事の事、夢の話し、先生にはたくさん話したね。そしていつも楽しそうに聞いてくれたね。いつもあたしを誉めてくれた。いつもあたしを楽しませてくれた。本当にありがとう!一緒にご飯も行ったね!自分はタバコも吸わないしお酒も飲めないのにあたしにはいつもすすめてくれたね。
あたし病気良くなってるってばかり思ってたの。だから大阪来たけど落ち着いたらまた習いに行こうと思ってた!ごめんね。ホントにごめんね。もっと早く会いにに行かなかった事悔やんでもくやみきれない。
今どこにいるの?
ちゃんと家族や友達そんであたしの事もみててね。
先生に会えて心から良かったって思うよ。これからもずっと今までとは少し遠いけど見ててね。ホントにありがとう☆
NAOKO (2006-08-07 12:20:11)



■ピースさん、ピー子さん
ずっと拝見していましたが、初めてコメントさせていただきます。
ピースさんが倒れてからのこの一年は、P介さんから今まで以上にいろんな濃い話を聞いたり、
こちらのブログを読んだり、命についてとても多くのことを学ばせていただきました。
とても感謝しています。
みなさんのコメントやお話を聞いてると、ピースさんの人柄がとても楽しく大きな方だというのが易く想像できます。
GWにお見舞いに伺ったときの、ピースさんの力強い握手は忘れません。
ピー子さん、その節は大変お世話になりました。
仲の良いご夫婦で、見ていてすごく心が和みました。
また大阪へいくときは、ご挨拶させてください。
心よりご冥福申し上げます。
ひい(P介さんの彼女) (2006-08-07 17:19:14)



■ありがとうございます。
ピースさんとは最後になってしまったライブの日、一度きりの出会いでしたが、内容は濃かったです。あの頃写真へのモチベーションが下がりかけていたのですが、ピースさんのブログを拝見して、久々に心から撮りたい被写体が見つかったと、勇んで大阪まで訪ねた甲斐がありました。ライブでピースさんの生命の力を間近で見せつけられ、圧倒されながらひたすらシャッターを押し続け、かと思えば、お客さんとのやりとり中心のライブの和やかな雰囲気にのせられ、シャッターを押すのも忘れ、一緒に歌を口ずさんだり...。本当に内容の濃い、素晴らしい時間でした。あの日、ピースさんとそのご家族、ピースさんの歌を聴きに来られていた方々に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
タネ (2006-08-09 23:33:12)



■夢
日下、君の告別式から早や二週間。
振り返ると、日下の人生カッコよかったで本当に。少し短かったけど。
君は語学力やギター演奏などたくさんの才能を持っていたけど、それ以上に、人の追随を許さない強い意志力と、驚異的な集中力を持っていた。
中学時代、勉強とは無縁だった君がほんの短期間に社会に国語や英語など文科系の学科をマスターし希望校に進学したっけ。
肥満体質で美食家だった君が夕方6時以降の食事を一切断ち、必死に体重コントロールしていたっけ。
お金も持たず、何のコネもなく、無謀にも会社を辞めて奥さんと二人アメリカに渡り、語りつくせない苦労の末大学を卒業したんだものね。
確かに君は人生を精一杯生きた。本当に格好良かったで。
お互い歳を取ると昔の事がことさら懐かしくなる。
君の和製アストンマーチンで毎週末のように行った若狭へのキャンプ。
いっぱしの雀士をきどり、某スポーツ新聞主催のマージャン大会に乗り込んだものの、こんな筈ではと肩を落としトボトボ帰った日のことを懐かしく思い出す。
同じ時代を共に歩き、同じ時間を共有した友がいなくなるのは寂しい。
今度、君の”夢”が叶うんだって?
出来ればブログを形にして残したいと言っていたけど、大ちゃんが意志を継ぐと聞いた。
胸の熱くなるメッセージが一杯あったものね。
僕は日下のもう一つの夢も何時か必ず実現すると思っている。
何年先か何十年先か、いやもしかすると世代を超えてしまうかもしれないが、
いつかきっと、老人ホームや介護施設への歌の全国行脚の夢は叶うのだろうと。
君の家族に”音楽の血”は脈々と受け継がれている筈だから。
最後に日下、君がいなくても友達一同君の家族と今まで通りつき合わせてもらうよ。
それじゃあ。
東北の奇人 (2006-08-11 04:42:31)



■ありがとう
いつも、煙草吸い過ぎたらあかんで、お酒飲みあ過ぎたらあかんでと、あたしの体のことまで気にしてくれる、健康管理の行き届いた人に、神様は不公平にも難病をおしつけて!!!
いつも褒めてくれましたねえ。自信を失いかけている時、頑張ってると言ってくれ、病に倒れたらピースさんの家族との絆をあたえてくれ、意識があやふやになっても、お見舞いに行けば手をぎゅっと握ってくれましたね。
ありがとう。
最後に行けなかったドライブ、形見になったステップワゴンで、今度ピー子さんと行こうと思います
その時は御一緒して下さいね。
まあ (2006-08-11 10:00:03)



■ピースさんに心から感謝します
ピースさん、それからピースさんのご家族に勇気と、人として生まれたことのすばらしさを教えていただきました。ブログを拝見するたびいつも温かい気持ちになりました。おだやかなお顔のお写真はお会いしたこともないのに懐かしいような感じがしていました。ピースさんのお人柄、その魅力がたくさんの人々の心を結び、勇気づけてきたことを絶対忘れません。人と人が同じ空間で心一つにして歌をうたうということはなんという幸福なことでしょうか。平和とはそういうことですね。これからも私達の心の中で歌い続けてくださいね。
けいこ (2006-08-13 01:05:09)



■無題
先生、YOSHIです。
先生の事は毎日思い出します。
授業は僕の事務所で有線で音楽をBGMにしてましたね。
僕は小学校からビートルズが好きで、当然歌詞の意味も知らずですが。
たまたまビートルズが流れると、その歌詞を英語で書いて説明してくれました。
イエスタデーやレットイットビー等は20年して歌詞の意味を理解しました。
僕や先生の好きな曲が流れると、しばしば中断して歌詞の意味を教えてくれましたね。
おかげで沢山の思い出の曲が出来ました。
これからもテレビ・ラジオ等で聞く度に先生の事を思い出すことでしょう。


そして今の時期、中東情勢、原爆、終戦のニュースには必ず「平和」という先生の名前が出ます。
そんな訳で毎日先生の事が思い出されます。


先生、待ってて下さい。
僕が逝ったらライブのお手伝いをさせて下さいね。
tito (2006-08-13 11:41:52)



■お世話になりました。
お亡くなりになってから初めてブログを拝見しました。もっと早く見てれば良かった・・。
ボランティアで音楽活動をなさってたこともお聞きしていましたけど、本当に大勢のひとの心にいつまでも生きていらっしゃる素敵な人生を送られたのですね。
こんなに早く逝ってしまわれるなんて夢にも思わず、私も子供達もお世話になりながら、何のお役にも立てなかったのが残念です。
心からご冥福をお祈りいたします。
マミィ (2006-08-13 22:52:41)



■ピー子さま
色んな煩雑過ぎる手続き等でおつかれでしょう?
早やお盆を迎えて、ご家族様の慌ただしさがほんの少し哀しみを脇に押しやってくれるといいのですけど・・・まだまだ見るもの全てにその人の存在を感じさせられてしまうのはよくわかります。
ホスピスへの道、それは生きているピースさんへと繋がっていた道ですものね。辿り着いてもその人はいないという現実。ほんとに涙がこぼれてしまいますね。


精霊様とんぼの背に乗り、皆さんに会いに帰って来られたのでしょうか?
きっと苦しみや痛みの無い世界のピースさんは、いつもニコニコと皆さんのお話に加わってらしたことでしょう。
時にはピー子さんの肩を抱き、お子さんたちの頭をそっと撫で、自称悪友の皆さんと酒を酌み交わされたのでしょうね。


ピー子様もどうぞお気をつけて・・・。
私にまでお気遣いありがとうございます。
(ムーンリバー、ほんと私にも思い出の曲になってしまいました。)
バニラ (2006-08-15 20:54:11)



■ありがとう
僕は人とのコミュ二ケーションをとるのが苦手で、この文章も下手なものになると思いますが、日下先生にはとてもお世話になったので、できるかぎり文を書こうと思います。
日下先生には英語を、先生が入院される前まで教えてもらっていました。僕が英語を教えてもらおうと思うようになったきっかけは、自分がビートルズが大好きだからでした。習い始めて、そのことを先生に言うと授業にビートルズを取り入れてくださいました。詞を日本語に訳したり、パソコンのカラオケを一緒に歌ったり、とても楽しい授業でした。先生は「I Should Have Known Better」や「In My Life」などが好きでした。他にはジョン・レノンの「Imagine」が詞がすごいと感心しておられました。僕は「I Feel Fine」が好きでした。先生には「めずらしいなあ」と言われましたが、それらの歌を二人で一緒に歌いました。
先生は戦艦大和も好きでした。先生は生前、「大和美術館に一度は行きたい」と言っていました。残念ながら、それはかないませんでしたが、僕も結構好きで、授業に、戦艦などが載っている本を持って行って、艦の大きさや、砲の数など先生に問題を出したりしました。
いろいろ、誘われたりもしました。「長居公園でギターひきながら、一緒に歌わない?」とか「ライブ一緒に見に行かない?」とか誘われました。僕は人前に出るのがすごく苦手なので、そういってことわっていました。お宅に招待された時はあまりことわるのもわるいので、おじゃましました。軽い食事をいただいたり、お話したりしました。
先生との付き合いは一年半ほどでしたが、いろんな事をおしえていただき、いろんな体験をさせていただきました。
下手な文章の羅列になりましたが、僕のおもいを書きました。
天国でも、先生らしく、先生の好きな色んなことに挑戦してください。
最後に。
ありがとう。
三ッ林 侑亮 (2006-08-16 23:49:40)





お陰で通夜、葬儀など無事終わりました。


ややこしいのはここからのようですが、とりあえずは落ち着き始めています。


この父のBLOGですが、冊子化のサービスがあるようなので何冊か本にします。


しばらくの間、表記が変わったりすると思います。


BLOGの内容がそのまま冊子になるようなので、


改行を統一させたり、コメント部分を本文に移動したりしますが、お気になさらずに。



ピース君の息子より。

7月1日
7月2日
7月3日
7月4日 導尿をしてもらう。
7月5日
7月6日
7月7日
7月8日
7月9日 痰を減らすため薬を変え、量も増やす。点滴を500ccから200ccに減らす。
7月10日
7月11日
7月12日
7月13日
7月14日 咳や痰が多いのでモルヒネを使ってみる、と主治医より電話連絡があった。
7月15日
7月16日 朝10時頃病院より「血圧が下がり酸素の取り込みも悪いので、直ぐに来て欲しい」と電話があり家族で駆けつけた。この日から泊り込むことになった。
7月17日 熱37度台、血圧130/70、酸素値90%、痰がよく絡む。
7月18日 ちょっと落ち着いてきた。
7月19日
7月20日 熱38.2度
7月21日 余り変化なし。歌のテープをかけると目を開けてじっと聴いている。
7月22日 一旦下がっていた熱が38度台に上がってきた。
7月23日 バイタルは少しずつ下がってきているが、穏やかな表情をしている。
7月24日 昼間下がっていた血圧が90台に戻った。
7月25日 朝、熱38度、血圧78/--、脈150、酸素値は測れない。尿が出ているからまだ大丈夫と言われた。午後は、血圧も60に下がり、脈も速く、尿の出方も悪いが呼吸はまあまあ落ち着いている。
7月26日 12:23pm息を引き取る。


○26日朝6時過ぎのナースの巡回時、血圧、脈など測ってもらって「昨晩と余り変わりないですね。」と話している間に呼吸と呼吸の間隔があいてきた。もしかして…と言う事で子供達や主人の兄姉に連絡した。

6月1日 環境の変化のためか会話が出来るくらい調子がいい日が何日か続く。
6月2日
6月3日
6月4日 また余り反応のない状態に戻ってきた。
6月5日
6月6日
6月7日 腕のレントゲンの結果骨が弱く折れやすい状態。リハビリで負担を掛けるのは危険。
6月8日 看護師立会いの下で果物や喉越しのいいものを食べる。
6月9日
6月10日
6月11日
6月12日
6月13日
6月14日
6月15日
6月16日 痰が多くむせることが多いので、口から食べ物はとれなくなる。
6月17日
6月18日
6月19日 2ヶ月ぶりに散髪をした。
6月20日
6月21日
6月22日
6月23日
6月24日
6月25日
6月26日 分泌物を抑える皮下注射(ブスコパン)開始。
6月27日
6月28日
6月29日
6月30日


○チューブが取れて楽になったのか6/1~6/3まで、びっくりするくらい話が出来た。「興奮している」と言って夜も余り眠くなさそうだった。「喉が渇いた」なんて久しぶりに聞いて感激した。自分の欲求なんてもう言わなくなっていたから。でも二人しかいない病室で、「もう一人いるのは誰や?」なんて言う。幻覚や幻聴もあったようだ。


○痛いところもなく、穏やかな表情になってきた。でも微熱がある日が多い。痰や咳も気になる。お医者様は「ご本人の苦痛を和らげるようにしましょう。」と咳ひとつにも気を遣ってくださる。

5月1日 夕方より病院食開始。
5月2日
5月3日
5月4日
5月5日 頭痛を訴える。鎮痛剤のせいもあり昼も寝てばかりでまた食事が出来なくなる。
5月6日 MRIを撮る。チューブ食開始。チューブからテモダール1クール目開始。
5月7日
5月8日
5月9日
5月10日
5月11日
5月12日
5月13日
5月14日
5月15日
5月16日
5月17日
5月18日
5月19日 淀川キリスト教病院ホスピスの外来に相談に行く。
5月20日
5月21日
5月22日
5月23日
5月24日
5月25日
5月26日
5月27日
5月28日
5月29日
5月30日
5月31日 ホスピスに転院。チューブがはずされ、生命維持の点滴500ccに変わった。


○食事が始まったら、またあのイソバイド30ccもはじまった。あの苦い薬を飲まないといけない、と考えると食欲もなくなるようだった。


○MRIの結果報告あり。腫瘍による脳浮腫のため、脳幹が圧迫され変形してきている。危ない状態で、いつ急変するかわからない。


○6日夜、テモダールを流してもらった。副作用の吐き気がひどい。


○ほとんど眠っている。起きていても余り会話は弾まない。耳は聞こえているが目は何を見ているのか分からないときがある。


○もう治療方法がない患者にとって、病院はとても辛い。ホスピスに入ることにしてベッドが空くのを待った。

4月1日 だんだん調子が悪くなり始める。
4月2日
4月3日
4月4日
4月5日 最悪の状態。『今までで一番しんどい。』と言った。
4月6日 通院。水13cc抜く。
4月7日
4月8日
4月9日
4月10日
4月11日
4月12日 北野病院にテモダールの治験を訊きに行った。
4月13日 北野病院に(テモダールの治験は無理なので)個人輸入で処方してもらえるか問い合わせに行った。 4月14日 頭痛を訴えるようになった。(ロキソニン+座薬)
4月15日
4月16日 救急車で救急病院へ行く。水10cc抜く。
4月17日
4月18日 通院。水8cc抜く。水の色がいつもより赤味を帯びていた。脳浮腫の薬(イソバイド)追加。リンデロン1mgに増量。 4月19日 北野病院に行くが、テモダール個人輸入でも処方してもらえないことになった。
4月20日
4月21日
4月22日 テモダール、ネットで発注。
4月23日
4月24日
4月25日 MRI。専門の病院で撮ってもらう。
4月26日 救急病院へ運ばれる。入院。
4月27日 絶食。
4月28日
4月29日
4月30日 水分を少し取れた。


○クリニックまで通えなくなった。4月中旬まで先生に家まで来てもらってリハビリを続けた。それ以降は、自宅に来てもらっても眠気がひどくリハビリは出来なかった。


○脳浮腫の薬イソバイドは、苦い水薬で本当に飲みずらそうだった。


○20日以降、意識がだんだん遠くなる。眠っているのを起こすのが難しくなる。


○26日は朝起きてごはんを食べる頃に意識が遠くなり呼んでも返事をしなかった。救急車を呼んでる間に意識は戻ってきたが、食事はせずに病院へ。救急車の中から救急隊の方が電話で診てくれる病院を探してくれたが、なかなか見つからず、1時間近くかかって、やっと見つかった。その病院でもMRIやCTを撮ってもらっただけで、治療らしいことはしてもらえず、成人病センターに搬送された。主治医の手術が終わるのを待って、脳圧を下げる点滴をしてもらい、水も抜いてもらった。脳浮腫のためオンマエがずれてきて水は抜けなかった。成人病センターは空きベッドがなく、16日に診てもらった近所の救急病院へ入院することになり、また救急車で搬送された。そこでも検査があり全て終わって救急患者の病室に運ばれたのは夜11時ごろ。結局、一日病院を移動している間に、肺炎を起こしていた。熱も高くなり、あくる日からは食事も出来ず、肺炎の治療のため点滴が続いた。

3月1日
3月2日
3月3日
3月4日
3月5日
3月6日
3月7日
3月8日
3月9日 通院。
3月10日
3月11日
3月12日
3月13日 MRI。MR専門の病院へ。
3月14日
3月15日
3月16日
3月17日
3月18日
3月19日 調子が悪い。(トリプタノールを飲む)
3月20日
3月21日 『最悪』と嘆いていた。
3月22日 通院。
3月23日
3月24日 自宅でミニパーティー。この日から月末まで体調の良い日が続く。
3月25日 第三回ライブ。
3月26日 息子のライブを難波に見に行く。
3月27日
3月28日
3月29日
3月30日 調子がいいので通院をキャンセルした。
3月31日


○10日に担当のリハビリの先生がクリニックを辞めた。3月下旬くらいまでは、クリニックに通ってリハビリを続けた。


○元気な日と疲れて眠い日があった。薬のせいなのかはっきりしなかった。ライブや仕事や約束があるときは、比較的調子が良かった。24~26日に掛けては自宅療養中で一番元気だった。

2月1日
2月2日
2月3日
2月4日 第二回ライブ。
2月5日
2月6日
2月7日
2月8日
2月9日 通院。
2月10日
2月11日
2月12日
2月13日 車椅子、風呂の椅子がとどいた。
2月14日
2月15日
2月16日
2月17日 『絶好調』と言うメールが届く。
2月18日 歯医者に行く。
2月19日
2月20日
2月21日 ヘルパー派遣依頼。
2月22日
2月23日 通院。放射線科でも診察あり、これで無事放射線治療終了。
2月24日
2月25日 老人ホームでライブ。
2月26日
2月27日
2月28日


○眠気が取れなかったり、しんどかったりで薬の調整が難しかった。リハビリは週に2~3回通った。肩がよくなり腕が上がるようになってとても喜んでいた。


○ヘルパーさんにはクリニックへの送迎をお願いした。


○疲れやすかったり眠気が取れなかったにもかかわらず、老人ホームの依頼を受け、ギターに人と音あわせも頑張っていた。歌も歌えなかったのによく練習して少しずつ声も出るようになってきた。

1月1日 親戚宅で新年会。
1月2日 眠気が取れない。
1月3日 スポーツトレーナーに往診してもらう。
1月4日 成人病センターに入院。
1月5日 第四回カテーテルによる抗癌剤(ニドラン)投与。
1月6日 水10cc抜いてもらい退院。眠気の原因を探るためトリプタノールを止めてみる。
1月7日
1月8日
1月9日 歯科に行く(車椅子で初めて地下鉄にのる)。
1月10日
1月11日
1月12日 通院。
1月13日
1月14日 発病後初ライブ。
1月15日 ライブの疲れで元気がない。
1月16日 障害者(2級)手帳を貰った。
1月17日
1月18日 スポーツトレーナーに往診してもらう。
1月19日
1月20日
1月21日
1月22日
1月23日
1月24日 リハビリのためクリニックに通い始めた。
1月25日
1月26日 通院。
1月27日 パーティー。
1月28日 調子は良い。
1月29日
1月30日 眠気が取れない。
1月31日 眠気が取れない。


○痛み止め(トリプタノールの副作用で眠気が取れない。目覚めがしんどいらしい。薬を調整しながら週3日1~2時間仕事もできた。


○ふと行った仕事場の前のクリニックで、素敵な先生に出会えた。リハビリ中かなり痛いことをされるが、不思議と腕も上がるようになり後も痛まない。この先生には希望を与えてもらった。その上、付き添い、介護など最後までお世話になった。


○歩行練習も頑張った。一人で歩けた。入浴はそれまでシャワーだけだったけど、湯船に入れた。