人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて/青土社

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 ガタリによれば、資本主義社会の「個人」は「社会」によって全面的に製造される。個人の知覚様式、欲望、意識の構造も全て彼が「集合的装備」と呼ぶ不特定多数のマクロな集合体の小さな歯車に還元される。例えば、朝の通勤ラッシュに見られるような「満員電車」の圧縮空間は、現代人がこうした匿名集団の一個に過ぎないという図式を無意識の内に刷り込む資本主義社会のいわば日課的な儀式となっている。資本主義社会では働いて得た給与を「何に」使うかといった「趣味」のレベル、より正確にはガタリが「欲望の分子状のエネルギー」と表現するミクロの次元にまで根深く作用する。そして、欲望はやはり自分が属する集合体によって再生産されているのだ。興味深いのは、ガタリが人間の「顔」、「ファロス」、「自己意識」といったものは、全て“同一の抽象機械”を中心によって展開されていると述べている点だろう。
 大都市の書店では客の眼に付く所に、世界で最も美しい島々を紹介したような書籍や雑誌が置かれていることがある。実際にはイメージの中のオアシスの機能を果たしているこれら「仮想の島々」は、やはり資本主義社会における「集合的装備」が「イメージ」のレベルにまで拡散していることを如実に物語っている。いわば、人々が何に対して「癒し」を感じるか、「旅行するなら何処へ行くべきか」などといった消費の形態そのものが、知らず知らずの内に都市の作り出した「台本」をなぞる形式になってしまっているのだ。ガタリはこれを、「集合的な〈安心〉のシステムが言表行為の領土化を人工的に再生産する」と述べている。
 ガタリの分析は、世界的に話題になった映画『シェイム』について新たな考察へと導く。この作品では自立し、都市で暮らす成人男性としては成功した部類に入る一人の男性が、知らず知らずのうちに欲望機械を性的なものにのみ先鋭化するようになってしまい、そこで自己閉鎖化して居場所を喪失してしまう現代の悲劇が描出されている。このような「欲望価値の単一化/ルーティン化」と、異性関係を消費主義的に冷めて把捉する意識は、個人の抱える病理というよりも、実は資本主義社会というマクロな「精神分析」を行うことで、より深化した考察を得られるものである。
 日本では3.11以後、御厨貴氏が述べていたように、精神的な癒し、新たな救済の感覚を求める若者たちが増加しつつあるという。それは一般的に「スピリチュアル」とか、「精神世界」などというカテゴリーで大型書店でも一定の区画を設けている。こうした現象について、ガタリは本書で興味深い分析を行っている。そこでは、「中心化作用を持つ樹木状の自閉的なブラックホール」が生み出され、このブラックホールが新たに「記号的座標系の総体を統合する」ようになる。西洋ではユダヤ・キリスト教が一神教のシステムを自己完結しているが、元々日本には一神教システムは存在しない。しかし、近代資本主義社会がマックス・ヴェーバーが述べるように「キリスト教的宗教機械」に起源を持っている以上、現代日本社会は可能性としては常に「すべての抽象機械が一神教の中にその宗教的表現を見出す」ようになる危険性を孕んでいるのである。いわば、大文字の神(伝統的宗教)から、小文字の神(新宗教や新しい精神的ムーブメント)へとシフトする過程で、ガタリが示唆するように一種の「単一的主体主義」(自己中心的に再編成された宗教機械)が台頭しつつあるのだ。
 本書『人はなぜ記号に従属するか』のキーコンセプトとなっているのは、訳者の杉村氏が解説で述べているように、「集合的装備」と「記号的従属」という二つの概念である。これは同時に、現代資本主義社会が我々「個人」にもたらす様々な悪影響について分析する上での重要な方法論にもなっている。すなわち、ニューヨークや東京、パリなどの大都市では、全てが記号的に編成され、同時に消費され、再生産されているのだ。記号的従属は商品流通の世界だけでなく、個人の「無意識」の在り方にまで及んでいる。先述したように、大都市の中央駅では電車が毎日ダイヤグラムに従って運行している。ダイヤグラムは電車の遅れなどで多少乱れることもあるが、基本的には常にこれが守られねばならない。ダイヤグラムには時刻表が表示されており、人々は出勤時刻に合わして適切な車両に乗り込む。この「ダイヤグラム的」な駅運行のシステムに、現在の物流業界などに見出されるチームワークによる納期の遵守、「オペレーター」による監視システムなどを合体させたものは、ガタリの捉える資本主義原理の基本的定式の一つになっている。シュンペーターはかつて資本主義の本質を「創造的破壊」に見出したが、実はこれは一部の「企業家」や企業上層部によるものであり、実質的には企業の下層構成単位は「ダイヤグラム的オペレーター」によって日々監視され、日常生活をルーティン化され、「趣味の均質化」に支配されているのだ。このような、社会における画一化・均質化はやはり「神の平安」に集合的な安穏を見出し、それを神聖視していたキリスト教的宗教機械にこそ原点を見出すことができる。修道院という自己閉鎖的システムでの修道士機械の産出、そして「神の平安」に違反する人々を「異端者」として排除し、抑圧する図式は、今日の資本主義社会にも再現前している。ここにブルデューが『国家貴族』で展開した考察を踏まえると、資本主義社会では「集合的装備」、「記号的従属」の原理に従ってコントロールされているのと同時に、フランス革命以前の「アンシャン・レジーム」体制が、企業の官僚的階層構造として新たに再現前していると考えることができるだろう。このように考えると、「都市の近代」は実は「中世・近世」の社会システムを未だに温存しているのだ。
 では、こうした個を封殺する資本主義社会の中で、我々はどのようにして人間性を回復すべきなのだろうか? あたかもカフカの世界のように冷酷なこの社会において、ガタリが全力で提示する概念こそが、既に『千のプラトー』で世界的に広く認識され、現代思想の常識にまでなった「リゾーム」なのである。ドゥルーズ以上に、ガタリはこの概念を「国家権力の解体」が可能なコンセプトとして重視する。いわば、資本主義社会の抑圧的なシステムから「逃走」するための最大の武器が、リゾームに集約されているのだ。では、改めてリゾームとはガタリにとって何であるのか? 本書で規定されている重要な定義(厳密に言えば、リゾームはいかなる自己言及的言語によって形式化されることもなく、それらを常に跳躍していく)を、以下に七項目で整理しておこう。

「資本主義社会を生きる上で最早必要不可欠な概念――リゾーム」

⑴リゾームは樹形ではなく、ある一点を「別の一点」に結び付けることができる。

⑵リゾームとは極めて多様なコード化の様式であり、あらゆる記号体制だでけなく、非記号的な全てのものをも作動させる。

⑶現在属している個のあらゆるテリトリー(職労空間、趣味領域、住環境など)は、常に脱領土化され、逃走線を起点として作動する。

⑷リゾームの最終目標は「自分らしい地図(マッピング)」の作成である。自己地図は常に分解可能、連結可能、逆転可能であり、絶えずアレンジメント、変更を受け容れることができる。また、あるリゾームの中に樹木の構造を保存することも可能であり、逆にある樹木の枝に、リゾームを芽吹かせることも可能である。

⑸「地図」は構造に対立する。「地図」は常に外に開かれていて、あらゆる次元において接続可能であり、引き裂かれることもあれば、あらゆる種類の組み立てに適合することも可能である。それはありふれた路上の壁に書くこともできれば、芸術として構想することも可能であり、更には政治的行動やフィーリング、瞑想として展開していくこともできる。この「地図」こそが「無意識」に他ならず、無意識はラカンが述べるように「構造化」されたものではない。むしろ、リゾームが「無意識」を新たに建設していくのである。

⑹リゾームはいかなる構造主義的あるいは生成的なモデルにも拘束されない。それはあらゆる種類の記号的なネットワークを介して連結することが可能であり、芸術、科学、社会闘争、などに属する運動的な介入と結合することができる。

⑺リゾームはいかなる「絵」や「図」によっても表象不可能である。何故なら、リゾームは本質的に「可能性」そのものであり、どのような形式にも束縛されないのだから。


 
 資本主義社会で生まれ、そこに適応して生きていると、個を疎外しているシステム(「ミクロ・ファシズム」、あるいは「分子状ファシズム」と呼称される)に知らず知らずのうちに加担していることが多々ある。リゾームとは、まさに都市生活での日常の「危機」を乗り越えるための「思考の変換」方法そのものである。それは資本主義が制度として内包している「主体の記号的従属化」に抗するための、ほとんど唯一と言っても良い武器であり、希望なのだ。以上のような点で、本書は今大都市で生きる全ての会社員、全ての働く人々――中でも働きながらけして小さくはないストレスに苛まれている人々――にこそ、真に開かれた書物であり、この点からすると本書は『千のプラトー』と並んで「革命的」である。