技術と時間 3: 映画の時間と〈難 ― 存在〉の問題/法政大学出版局

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 このページでは、現代思想の必読書の一冊に入っているデリダ、ドゥルーズ、フーコー以後のフランスを代表する哲学者ベルナール・スティグレールの主著『技術と時間』についての読解記録を残す。本書は全三巻シリーズだが、その中で特に著者自身が読者に「独立して読むことができる」、「前著のよき序章」として推薦していたのが、「映画の時間と〈難-存在〉の問題」(『技術と時間3』)における映画=意識論である第一章、第二章である。

【第一章「映画の時間」読解】

 何故、そもそもスティグレールは「映画」を哲学しているのだろうか? まず第一に言えることは、彼が大の映画愛好者であろう点である。彼は本書第一章で、以下のように自身が映画を観る前と、観た後の気分の違いについて言及している。

鬱陶しい日曜の午後、映画やTVの気晴らしが人工の他者を与えてくれるのは、映像の流れが私のために選択をしてくれるからだ。それが私を変容させ、私の渇きを癒し(リラックスさせ)、元気付け(それは一種の強壮剤だ)、他者に接近させてくれる。しかし、この他者はまず私の内にいるのであり、生、すなわち、映画、他者の映像を待ち、それに自らを前方投射することで動き始めるのだ。他者を発見できるのは、自己の内においてでしかない。(p56)


 映画――それは彼にとって、まず何よりも「他者性」の核心である。それは、スクリーンにまさに「他者の映像」を現前させる。そして映画を観ている時、人は実は自分自身の「意識」の構造をスクリーン越しに追体験している。無論、映画は虚構である。しかし、スティグレールはフッサール現象学の理論的な心臓部を要約するかたちで、以下のように述べている。

もし、生き生きした現実が常に想像力と共立し、虚構化され、幻想に取り憑かれている限りでしか知覚され得ないのが示されるなら、おそらく最終的には、知覚は想像力と横断伝導的な関係にある、つまり、想像力なしに知覚はありえず、またその逆でもあり得ないということになるだろう――知覚は想像力が投影されるスクリーンなのであり、関係性が、それに先立ってあるのではない関係項を構成するということだ。それゆえまた、生は常に映画的なのであり、そのため「生を愛すると、映画に行く」と言うのだろう。あたかも生を再発見するため、いわば生き返るために映画に行くかのようだ。(p32)


 このように、スティグレールは「映画」を我々の知覚構造そのもののアナロジーとして解釈している。この考えを更に深化させるために、彼はフッサール現象学における「過去把持のメカニズム」を考察している。そもそも、フッサールによれば人間の意識は、それがどのようなものであれ常に「~についての意識」であるという性格を持つと考えていた。つまり、意識とは本質的に「志向的」であるとされる。その上で、「過去についての意識」、すなわち「過去把持」には段階があると考えられている。

「過去把持の階層性」

第一次過去把持

 今まさに過ぎ去ったとはいえ、「現在」の内部に「不在」のものとしてmaintenir(現持)されている過去。最良の例はメロディーであり、これはどの楽音も先行する楽音の流れの中で成り立っている以上、ひとつひとつの楽音には過去の楽音が「不在」のものとして保存されている。こうした、まさに「今」を構成するために必要な「ほんの少し前」とか、「一分前」などの現在に近い過去の流れを指している。これらの流出としての過去を統覚し、maintenant(現持するもの)を、フッサールは「第一次過去把持」と表現した。


第二次過去把持

 フッサールによれば、これは記憶によって思い起こす「想起(回想)」を指している。スティグレールは「第二次想起、すなわち、想像力や虚構のもの」(p35)として解釈している。想起が必然的に「虚構」化されるのは、それが「起源的に忘却」(p51)の作用を受けているからに他ならない。意識の流れは、本質的に時間の「縮減」なのである。例えば、巨大な災害やテロルによって現実に日常が変わってしまった場合でも、意識はそれを事実として受け止めつつ、全く別の「出来事」として「上演」することは常に可能である。ある誰の眼にも明らかな出来事を「誤読」すること、そこに全く別の何かを「幻視」すること――この意識のメカニズムを哲学的に考察したのがフッサールであり、彼の理論において「知覚」とは常に既に「虚構的直観」なのだ。

第三次過去把持

 「第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日では産業」(p74)という表現にもあるように、これはスティグレールが本書の中心概念として押し出す最後の段階であり、かつ意識そのものを根底から支えている技術性を指す。「第三次過去把持とは、空間的であると同時に時間的であり、空間と時間を区別する可能性そのものを条件付けているのである。その意味で、文化・プログラム産業という第三次過去把持の産業はまた、速度の産業でもあるのだ」(p124)。「第三次過去把持が(意識の機制において)本源的な役割を演じている」(p73)。人間の認知構造、意識を成立させているのはデカルト的なコギトでは最早なく、第三次過去把持であると主張するところに本書の真価が存在する。「もちろん、どんなかたちの対象による想起であっても――映画、写真、レコード、文字、絵画、胸像だけでなく、私自身が必ずしも生きたわけではない過去を証し立ててくれる記念碑、対象一般――第三次過去把持と呼べるだろう」(p50)。



 例えば、同じメロディーでも昨夜聴いた曲と、翌日の昼間に聴いた同じ曲では既に同一対象に対する「解釈項」(パース)に変化が起きている。「聴く度に聴取の仕方が同じでないのは、二度目の聴取が最初の聴取に影響されたからに他ならない」(p33)。意識は全てを把持するわけではなく、また昨夜と今日の意識には微妙な変化が生じているのが常なので、同じ曲と言えども、ある時には甘美に、またある時には甘ったるくに、またある時は単なる背景音として感じられるのである。この過去把持における重要な原則は、例えば「幼年時代に水死しかけた記憶」のような現象についても妥当する。出来事は一回性のものだが、一年後にこれを回想した時に獲得される過去のイメージと、五十年後に回想した時に獲得されるイメージは最早同じではない。そこには、彼がこの体験を一つの種子として、そこに幾重も「解釈項」の年輪を覆わせ、包んできたことによって生じた意識構造の変化が対応している。同様に、同じ本でも読む度に違う感銘や再発見を与えられる理由も、こうした過去把持の理論から説明することが可能である。スティグレールがフッサール現象学の最大のポイントとして重視しているのは、まさにこの「対象は同じだが、現象はそのつど異なっている」(p34)という定式である。換言すれば、現象は常に「絶対的に新しいもの」として到来するのである。
 例えば、日常の中で特別に何か変わったことが最近起きていないという倦怠感についても、スティグレールは軽く触れている。彼によれば、新しいことが起きないがゆえの倦怠であっても、その意識は常に、その度ごとに更新されている。いかなる感情も、実は本質的に一回性のものであり、今日感じた喜悦と同質のものを明日、明後日、そしてその後全ての生涯に渡って感じることはない。それは、また異なる別の歓びとして彼女、彼に体験されるからである。これをスティグレールは、「新たな生を与えられる」と表現している。具体例として挙がるフェリーニの映画『インテルビスタ』には、『甘い生活』を観ているマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバークが登場する。彼らは『甘い生活』でも共演しているのだが、それを別の映画で観ているという場面である。スティグレールはこの場面について、「改めて観られたもの」は、既に『甘い生活』とは「別の何か」であり、「常に新しい」と解釈している。これはまさに、過去把持によって過去のイメージがその度ごとに更新される構造と同様である。ここで生起しているのは、『甘い生活』を既に観てきた観客にとっては、自分自身もフェリーニ作品の流れに伴って年を重ねたという事実、「自らが過ぎ去っていくのも目にしている」(p44)である。『インテルビスタ』は、『甘い生活』を「回帰」させることで、この映画との間で生じる「時間」の問題を主題にしていると解釈されている。


【第二章「意識の映画」読解】


 スティグレールによれば、フッサール、ホルクハイマー、アドルノの三者は、映画(虚構)が現実と区別されねばならないという見解を示していた。しかし、フッサール自身は「意識」そのものが「虚構的直観」の上で初めて成立することを前提にしているので、スティグレールがここでフッサールに「現実」と「虚構」の「区別」の概念を導入しているのは奇妙である。
 フッサールの「虚構的直観」の概念を、スティグレールは映画的なもの(統合=合成化された映像としての)に置き換えて思考している。しかし、私が本書の一章、二章を綿密に読解した限りで言えば、スティグレールは明らかにフッサール現象学を過小評価していると言わざるを得ない。彼は実質的にフッサールにほぼ全ての理論的功績を負いつつ、以下のように影響源を「批判」することで自らが押し出す主要概念である「技術」(第三次過去把持)の重要性を読者に暗示させている。

フッサールが認めようとしないのは、知覚が映画的、「映画的でしかない」ということであり、また知覚されたものが、この映画が投影されるスクリーンに他ならないということである。それ故また、自らの分析から第三次過去把持、特にレコードを排除しようとするのである。ホルクハイマーとアドルノが、フッサールの四十年後、そして、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」――明らかに、彼らはこの論文の大きな射程を取り逃がしている――の執筆の十年後に、同じことを繰り返しているのはなぜか?(p71)


 スティグレールの分析によれば、彼らが共通して「レコード」や「タイプライター」のような、音楽を聴いたり思考を展開したりするために必要な「道具」を棄却しているのは、カントが『純粋理性批判』で、こうしたテクノロジーの結晶である媒体に対して考慮に入れることをしなかったためだとされている。しかし、意図的にここで言及されていない、フッサールに学んだハイデッガーは、『技術への問い』や、第二の主著『哲学への寄与論稿』における「工作機構」の概念などによって、既にテクノロジーと現存在との関わりを熟慮し、至上の課題としていた。現象学、存在論の系譜において、「技術」への問いは根本的であり、フッサールの『イデーン』や『デカルト的省察』も、二十世紀という「虚構(映画)の世紀」であったからこそ、その読解可能性が常にラディカルな地平へと接続されてきたのである。「形而上学という映画で、技術は役割を見出さなかったのであり、本来的なものとしては、まったく存在もしておらず、理論的哲学の対蹠物でしかないのである」(p114)と断言してもいるスティグレールの本章での思考は、けして斬新なものではなく、むしろフッサール現象学の理論的帰結であり、課題でもあるとされて既に研究されてきた「技術」を、特に「映画」産業を最良のアナロジーとして慣用することで、再生産したものである。すなわち、それは以下のような定式として表明される――意識とは、常に既に「上演化」されているものである。
 スティグレールは、具体的に「意識」を「映写機を動かすプロセス」に擬える。「意識」を考察するために、彼は「映画制作」のプロセスそのものをアナロジーとして巧みに用いるわけだが、そこで述べられていることがフッサールの与えた理論的貢献の範疇を出ることはない。何故なら、この現象学の始祖自身も、対象は常に虚構的に直観され、「真理」なるものの本質はどこにも存在せず、イリュージョンであるということを何度も繰り返し言及していたからである。また、人間の「意識」の構造が本質的に「映画」的であることに気付いていたドゥルーズの以下のテクストも引用されている。

しかしそれにしても、ベルクソンが最も古い錯覚に、大変モダンな、しかも極めて最近の名(「映画的」)を与えたというのは、奇妙なことである。…映画とは、ある普遍的な恒常的錯覚の映写、その再現であるなどと理解しなければならないのだろうか。あたかも、ひとはこれまで常に、そうとは知らずに映画を作ってきたかのようだ、ということにでもなるのだろうか。(p26)


 スティグレールが強調するのは、「第三次過去把持が(意識の機制において)本源的な役割を演じている」(p73)という点――すなわち、今日においては「メディアの形式」が、人間の認知構造の「組成の配列」を根本的に決定付けているという構造的原理である。例えば、「タイプライター」で評論を書く作家と、「鉛筆」で評論を書く作家、そして「Macの最新機種」で評論を書く作家――彼らの差異について、従来の現象学では巧く理論化し切れていなかったというのが、スティグレールの主張である。使うツールが変われば、変化するのは「時間コスト」や「収納スペース」だけではない。我々は、使用するツールに導かれて思考している。換言すれば、「技術」が実はその時代を生きる人間の認知構造そのものを根底から支えているのである。この点は現代フランスの重要なメディア学者であるレジス・ドゥブレがそのメディオロジーにおいて主張していた点とも通底する。ドゥブレによれば、「宗教改革」が起きたのは宗教史的な過渡期に属していたから、というよりも、むしろグーテンベルクが「活版印刷」を世に広め、新しい思想が人々に流布され易くなったからである。同じように、フロイトの精神分析学があれ程一世を風靡し、盛んに研究されたのは彼の理論的功績も無論あるが、まず何よりもフロイト自身が「協会」や「講演会」や「機関誌」などの独自の「界」創出に向けて貪欲に活動し続けたところに拠っている。同じフランスのドゥブレのようなメディア学者、あるいはスティグレールのような現代の哲学者が注目しているのは、何よりも人間の知的生産活動の支柱であり、媒体であり、思想Aと思想Bを橋渡ししながらテクスト上ではこれまで「余白」に追放されてきた、「書いている媒体」そのもの、すなわち「技術」への問いなのだ。
 カントは映画を知らない。しかし、スティグレールによれば、カント自身も実は「意識」を「映画的」に捉えていたと解釈されている。カントによれば、人間の多様な意識の流れを統一する心的機制が「超越論的親和性」と呼ばれる機構である。これが過去を想起する場合、かつての意識やイメージは「再生産」される。この「再確認による統一」が、まさに超越論的親和性に他ならない。再生産されら過去の意識は、その当時感じていた意識とは「別のもの」である。ある想起が、常に別の過去を呼び覚ますのだ。それは、同じ本でも年月を隔てると全く別の本として感じられる理由を説明する際の最良の方法でもあるだろう。カントの「超越論的親和性」は、スティグレールによれば「意識=映画」という図式を成立させるための理論的土壌なのだ。
 意識は、映画編集のように「本質的に統合=合成(編集、ミキシング、ポストプロダクションなど)」されるという心的機制を持っている。その上で強力な力を発揮するのは、その人間が「何の道具を使って知覚したか?」である。カントは無論ノートパソコンではなく、編集作業やテクストの切片化と再結合が困難な伝統的方法である「紙にペンで書く」ことによって作品を残した。こうした道具、思考のためのツールのことを、スティグレールは「意識の前方投射の媒体」と表現する。カントは、今日の視座からすると、いわば「紙にペンで書く」人間らしい思考方法に、自然になってしまっているわけである。カントはあらかじめ書いているものが「書物」という統一体の形式を採用することを熟知していたし、彼の厳密に体系付けられた論理的な構成方法は、それ自体で思考そのものも「書物」のような統一体にしなければならないという「暗黙の掟」を採用していたことを如実に物語っている。人は何かを思考する時、やはり「書くツール」や、「書かれたテクストが最終的に発表される空間性」などに依存しているのである。

カントはフッサールと同様、いかなる「第三次過去把持」も導入しないが、『純粋理性批判』の執筆に至るカント自身の意識の流れの文字による記録が、あらゆる意識活動の分析――本書が野心的に目指しているのも、この分析だ――の本質的条件そのものである。カントの思考が我々に現前し得るのは、書物としてのみである。それはまた、かれ自身にとってもまったく同様だ。(p84)


 カントのこのような「盲目」(ド・マン)を更に別の角度から分析するために、スティグレールは再びカント自身が言及していた興味深い考えに触れている。判り易く説明すると、それはつまり「10億」という数字を我々が耳にした時、おそらくまず何かをイメージしているということだ。例えば、「10頭の牛」とか、「5匹の亀」などは簡単に絵に描けるし、イメージもできる。お望みならば、昨夜目にした映画のワンシーンを多少変化してイメージ化することも可能だろう。しかし、「10億」という数字は、原始時代にはなかなか人生のうちに考えることのない桁外れに大きな数字である。「10億」は、それが想像できない代わりに、「数知れない満点の星空」とか、「トランクにぎっしり詰まった札束」などとしてイメージされるはずである。ここで重要なカントの見解は、以下である。すなわち、桁外れに大きな数字になってくると、その数字の「実体」は記号表現である「記数法」という、眼に見える形象化の表現システムによって代理=表象されるという図式である。「10億」という数は、何らかのイメージ、「像」(例えば無数の星)なしに意識されるということはありえない、とスティグレールは断言している(「像なしに図式[この場合は記数法]が表れることはない」p93)。カントは逆に「図式が像に先立つ」のだと主張していたが、いずれにしても「10億」に我々が何らかの漠然としたイメージを呼び覚まされるというのは間違いのない事実である。
 あらゆる抽象的図式、制度化されている記号体系は、常に何らかのイメージ、像に依存している。「10億」という数字は、数知れない札束のイメージを媒介にして初めて把捉することができる。換言すれば、「前方投射(形象化)」される何らかのスクリーンの「像」を媒介にして、初めて観念・事物は存在する、というよりも「生成」するのである。「像(イメージ)」が先なのか、それとも「図式」が先なのか、この問題はスティグレールの思考プロセスの中で以下のような変奏を生んでいる。すなわち、「概念の構築とは、形象の構築なのであり、またその逆でもある」(p95)と。これは「図式」と「像」の根源的な一体性、より正確には「共創発的」かつ「横断伝導的」な性格を表したものである。ここでスティグレールが主張している点をもう少し判り易く考えると、例えばものを「数える」ようなレベルにおいて、既に何らかの「像」を我々は常に意識しているということに他ならない。彼のいう「心的な抽象像の前方投射」は、既にこうした「数える」次元において生起しているのである。
 スティグレール以後、現代思想のテーマ系において重要な前提となるのは、人間の認知構造、意識を成立させているのはデカルト的なコギトでは最早なく、「第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日では産業」(p74)であるという定式である。思想の中身ではなく、その思想が伝達されたり制作されたりするためのメディウム(媒介項)にこそ、その思想そのものを成立させている核心を見出すというこのスティグレールの視座は、明らかにドゥブレのメディオロジーと理論的な深い相関を示していると考えられる。ある文学テクストは、それが何によって書かれたか、あるいはそれがいかなるメディアによって発表されるのか、といった諸々のメディウムに依存する。これは究極的には、人間の「脳」を外部性として位置付けられる近未来世界が到来した時に、おそらくより深く我々の課題として急迫する哲学的命題の一つであると言えるだろう。何故なら、もしも「脳」も思考のための一つの道具として捉えた場合、彼が述べる「技術」として交換可能な存在こそが、まさに思考そのものを作動させる「脳」になるからだ。ここで透けて見えてくる新たな思想の地平とは、まさに「起源の技術性」(p99)に他ならない。私の所有する「脳」が、もし仮にテクノロジーによって製造されたものである場合、スティグレールが好む「意識=映画」というアナロジー的な位置付けは、文字通りの意味で解釈せねばならなくなるはずだからだ。
 このように、スティグレールの思考は、我々を「アンドロイド」や「人工脳」などのテマティック――すなわち、「身体」はどこまで「技術」によって代理可能か?――に導いていく。実際、彼は主体性そのものを、何らかの情報を「ダウンロード」して初めて「顔」を復元することのできるような機械、容器としてイメージしている。

〈我〉は、内容によって満たされるような容器ではなく、流出の力動によって構制される形式なのであり、それ自身が(観ている映画の登場人物の時間を取り込むように、取り込む)内容なのである。(p122)


 ここで念頭に置くべきなのは、スティグレールは映画を愛しており、過去把持と未来予持を統覚する主体の現在の「意識」の構造が、それ自体で映画の編集・上映と類似していることを示しているという点である。原書が2001年に刊行されていることを考えると、ここで我々は果たして「映画」が真にアナロジーの対象として適当であったのかを今一度考察する必要がある。何故なら、実質的にいって現代日本社会はiPhoneやMacなどの便利な「技術」を、常に肌身離さず所有しつつ、読書や講義などの知的活動を行ったりしているのであり、これらに我々の日常生活が依存している割合を見過ごすことは不可能となっているからだ。「映画」を頻繁には観ない人でも、スマートフォンは仕事上不可欠だという人は実際に多く存在する。我々がスティグレールの映画=意識論を読解した後、たちどころに考察せねばならないのは、やはり現代社会を支配している「Web」であり、「ソーシャルメディア」である。
 ここで今、スティグレール的な実験を仮設してみよう。我々の存在を、iPhoneの等価物として哲学的にみなすのである。その場合、我々は何か本を読むことが、iPhoneに新しいアプリをダウンロードすることとアナロジカルに解釈することが可能である。Webの大海で必要な情報を取捨選別して、iPhoneに内蔵されているメモ機能を使用したり、それをTwitterにツイートするという作業自体も、人間が「過去把持」において、過去に生起した出来事を想起するメカニズム(トラウマのような心的外傷のケースはあるにしても、人は思い出したい想い出だけを記録することが常に可能であり、今度はこの記録されたものが記憶を新たに塗り替える)のアナロジーとして捉えることができる。スティグレールのいう「映画」(それは二十世紀の象徴の一つだろう)は、我々の生きるこの二十一世紀においては、ソーシャルメディアとWebの未来を前提にした「道具」の問題として再解釈することができるだろう。重要な点は、起源に技術性が到来するという彼の理論の要諦部分にもあるように、肌身離さず所有され我々の思考そのものを発信する媒体としての「新しいメディア」は、我々自身の「身体」と言えるのではないか? という点だろう。現代のテクノロジーが最終的に、脳内の情報処理速度に接近するほどの「新しく使い易いメカ」を待望している限り、我々の外部に位置するもの(例えば肌に接する衣服)が、実は我々自身の「身体」そのものであるという考えは、けして突飛なSF的夢想などではない。起源に到来する技術性とは、まさに我々の存在自体が、いつかテクノロジーによって生産されることを既に暗示しているのである。
 デカルトの Cogito ergo sumは、かくしてスティグレールの本書以後、完全に書き換えられるに至るだろう。彼は以下のように、これからの社会における主体性を規定している。

おそらく「このわたし」なるものは存在せず、わたしは「このわたし」として仮構、前方投射、自我の幻想、登場人物を取り入れる自我の幻想でしかなく、わたしは幻想を抱く(=一人で映画を作る)ことで、自らを無きものとするのだ。…(略)…わたしはわたし自身の過去把持的環境として、わたし自身へと生成し続け、わたし自身を解釈――来るべきもの、到来したものから未だ流出して来るものを書き/解釈すること――し続けるのである。(p104~105)


 デカルトの図式においては、まずそもそも「我」とは一体何であるのか? という点が一度は考究されねばならない。カントは既に『純粋理性批判』の中で、「自我」とは「意識の単なる形式」に過ぎないと考えていた。
 スティグレールは現在、世界中に宏大な「意識市場」が形成されていると述べている。これは精神の環境の「産業化」、あるいは「意識のエントロピー的共時化」などとも表現されているが、要するにある一つの同じ集合的メディアに全人類が依存することで生起する「意識の流れの同質化・共時化」が問題視されているわけだ。これは明らかに今日のアメリカ主導で行われているWeb圏の拡大と、そこに生息する「Web市民」(スティグレールは「ハイパー大衆」と表現)たちによる情報発信のスタイルを指している。スティグレールは彼らの出現に深く警鐘を鳴らしているわけではなく、あくまでも冷静にこの「精神の新たな環境」を見守っている。しかし、第三次過去把持、すなわち技術、テクノロジー、そして今日ではソーシャルメディアが人類の認知構造を掌握することで生じる「意識」それ自体の「物象化」――それに伴って形成される「意識市場」――には明らかな距離を置いている。「間もなく国家的・地政学的境界は無きものとなるだろう」(p130)という表現にもあるように、自動翻訳システムなどの検索プログラムの進化によって、今後ネットに繋がる全ての人々が自国語であらゆるページを閲覧可能になった時、初めて我々は認知構造そのものがWebという技術を中心に規格化されていることに気付くだろう。精神は同じメディアを利用することで、知らず知らずのうちに同じ「型」に嵌っていく。それが新しい社会の思わぬ「落とし穴」にならぬよう、スティグレールの考察を良き羅針盤として意識しておかねばならない。