【disposition(性向)】


 「性向」とは、行為者を規定している社会構造(職業、地位、身分、学歴、威信など)が内在化・身体化されて主観的な心的構造となったものであり、反復される個々の慣習行動を規定している潜在的なベクトル、ある事態を前にしてほとんど「無意識」の内に機能する諸々の基本的な志向性として、定義されるものである。「性向」は、大きく生活態度に関わる「倫理的性向」と、趣味判断に関わる「美的性向」に大別することができる。前者の集合はethos(エートス)と呼ばれ、後者の集合はgoût(趣味)と呼ばれる。

「美的性向」の集合=goût(趣味)


 「美的性向」によって選択される文化的慣習行動は全て、それが「差し迫った必要性から遠く隔たっている」という事実によって序列化/階層化される。必要性への距離が大きければ大きいほど、つまり「脱利害的」であればあるほど、その慣習行動のlégitimité(正統性)は大きくなる。逆に、日常的に必要不可欠で止むを得ず取られた慣習行動ほど、文化的な次元での正統性は小さいものになる。ブルデューが『国家貴族』で述べたように、真の教育は「社会で何の役にも立たない」ことにこそ最大のdistinctionを与えるのである。例えば、「オペラを劇場で鑑賞する」、「美術館で絵画の実物を観る」行為は社会的には何の実益性もない単なる「趣味」だとみなされるかもしれないが、実はこうした分野においてこそ「文化貴族」は最大の時間的/経済的投資を行うものである。

「倫理的性向」の集合=ethos(エートス)

 一つ一つの性向は、行為者の中で全体としてひとつのシステムを構成して緊密に「連携」し合い、相互補完的な関係にある。「美的性向」は全体として「趣味」判断を構成し、「倫理的性向」は集合としての「エートス」を形成する。また、様々な身のこなし、身振りの性向の全体は特にhexis corporelle(身体的ヘクシス)とも表現される。ある作家が愛用するレトリックとか、頻繁に採用されるテマティックなどは、言語的性向の集合として「言語的ヘクシス」と呼ばれる。

hexis corporelle(身体的ヘクシス)

無意識的、慣習的に行う身のこなし。例えば、ジムに行ったりサイクリングしたりするのは、身体的ヘクシスの洗練のため、すなわち体力・スタイル・身のこなし、そして何よりそれらを向上させる「モチベーション」を維持させる意味合いも含まれている。

disposition rétive(反骨性向)

 ブルデューは『自己分析』の中で、自らのハビトゥスを「土着のハビトゥス」と規定した上で、以下のようにその生まれもった「性向」を分析している。「私は少しずつ、特に他者の眼差しを通して、自分のハビトゥスの諸特性を発見した。男の誇りと見栄にこだわる傾向、いつも半分は御芝居だが明らかな喧嘩好き、些細なことで憤慨する傾向、今考えると、これらは私の出身地方の文化的特性に結び付いているように思われる。そのことによりよく気がつき理解するようになったのは、例えばアイルランド人のような、文化的あるいは言語的少数集団の気質について書かれたものとのアナロジーによってである」(p141)。本論でブルデューが自分の持つ「気質」として何度か用いている言葉が、disposition rétive(反骨性向)であるのも、こうした些細なことですぐに怒ってしまう喧嘩好きな村人気質――「土着のハビトゥス」から説明されている。この概念は『自己分析』で展開されるhabitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)の概念とも深く相関している。

「スコラ的性向」

 どのような〈界〉にもスコラ的な貴族主義を身体化した行為者が存在し、「支配の正当化原理」によって暗黙裏に支配している。彼らは揶揄的にセザロパピスム(皇帝教皇主義)などとも呼ばれる。ブルデューの「ハビトゥス」の概念は〈界〉内を巣食うスコラ的性向ないしスコラ的エスノセントリズムの魔を暴き出すために構想されたものである。
 スコラ的性向は行為者の認知構造の無意識にまで浸透し、彼、彼女の行為を全て根源的に支配しているものであり、この枠組みから逸脱したり違反すると排除、追放する仕組みが〈界〉内には存在する。しかし、逸脱もスコラ的性向はその理論によって吸収するものであり、厳密な意味でこの〈界〉の外に出ることは不可能である。ブルデューのいう「身体」はこの〈界〉から生成する。換言すれば、我々のものの考え、行動、趣味、感情の諸様態も含めて全ては〈界〉内の構造的原理の所産であり、この限りで構造を身体化した存在としての行為者の概念が浮上する。

スコラ的性向――これは、全てのスコラ的世界が要求する入〈界〉金であり、そこで卓越するためにうってつけのオクシモロン(同着語法)で、私が「エピステーメー的ドクサ」と呼ぶものを構成している。ドクサとは、明示的・意識的なドグマの形で現表される必要さえない根本的な信念の集合だが、パラドクサルなことに、ドクサほどドグマ的なものはない。スコレーが育む「自由」かつ「純粋」な性向は(能動的あるいは受動的な)無知を伴っている。(『パスカル的省察』p32)


 スコラ的見方を身体化し、権威的に振る舞う主知主義的な知識人という姿がここで浮かび上がってくる。それは隠された形で行使される無意識に対する権力であり、界に存在する行為者はそれに自覚的であることすらできない。それは既に制度として、ルールとして、界内特有の規則として出現しており、その現前している法の中に反映されているからである。

【capital(資本)】


 まず、ブルデュー社会学において「資本」は以下のように大別できる。

capital économique(経済資本)

capital culturel(文化資本)

capital social(社会関係資本)

capital scolaire(学歴資本)



「資本種の交換」

 「資本種の交換」とは、「資本の特定種を他の<界>において流通している資本種に転換すること」である。
 例えば、芸術<界>内部で活躍している写真家Aを例にしよう。Aはファッション系の写真家として活動し、一定の社会的認知を受けているが、他方で彼の「社会関係資本」を覗いてみると、その人脈ネットワークにはファッションデザイナーやモデル、服飾店舗経営者などが含まれている。こうした横の繋がりを利用して、写真家として培った「文化資本」を、今度はファッション<界>に「交換」することで、新しい活躍の場が見出せるかもしれない。このような戦略のもと、写真家Aは学生時代の友人網を基盤にした人脈を利用し、新たに「ブランド」を立ち上げた場合、そこで生起しているのはまぎれもなくブルデューのいう「資本種の交換」である。資本種を交換するためには、それだけの資本量をあらかじめ潜在的に蓄積しているだけの「貴族性」が必要である。
 「資本種の交換」は、「戦略変換」ともいわれ、貴族階級がアンシャン・レジーム体制から、ブルジョワ的な株式会社運営に新しい活路を見出した時点での戦略変換と通底している。貴族は貴族階級特有の卓越化した資本種を、社会体制の変化と並んで絶えず「交換」していかなければならないのである。


【capital culturel(文化資本)】


「定義」

 文化資本とは、経済資本のように数字的に定量化できないが、金銭と同じように社会生活において一種の「資本」として機能することができる種々の文化的要素のことである。学校教育で得られた知識、書物など多様なメディアで得られた教養、育った家庭環境や周囲の友人環境を通して形成された趣味、美術館やコンサートでの芸術との接触や種々の人生経験によって培われた感性なども、文化資本の一種と考えられる。文化資本は各個人の内部に不可視の属性として同化されている場合もあれば、個人の外部に具体的な物として、あるいは社会的に人称された肩書きや資格として客体化されている場合もあって、その形態は一様ではない。

【incorporé(身体化された)文化資本=goût(趣味)】

 身体化された(ハビトゥス化)された文化資本、すなわちgoût(趣味)は、あらゆる財産と同じく、何らかの市場(学校、社交、労働市場など)において投資することが可能で、その結果として一定の「利潤」――物質的利潤だけでなく、他者の尊敬や評価といった「象徴的地純」、「認知資本」も含む――を生み出すことも期待できる。ブルデューは『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように「趣味」を規定している。

趣味は分類し、分類する者を分類する。社会的主体は美しいものと醜いもの、上品なものと下品なもののあいだで彼らが行う区別立ての操作によって自らを卓越化するのであり、そこで客観的な分類=等級付けの中に彼らが占めている位置が表現され現れてくるのである。(『ディスタンクシオンⅠ』p11)


 趣味は、ある個人AとBの「差異」を最も強烈に際立たせる指標である。例えば、「私は英文学ではヘンリー・ジェイムズが好きです」と言うためには、翻訳のみならず原書で頻繁に作家の文章を熟読していることは勿論、ある程度のジェイムズについての研究書を読んだ経験を持っていることが望ましいし、比較対象として他の英文学の作家についても知っていることが要求されるはずである。そうした「背景」を理解することで、初めてジェイムズという一人の作家の文学を嗜む「鑑賞眼」が培われる。この意味では「趣味」や「感性」も、それらを培養する土壌の形成という「知的労働」の痕跡を留めている点で、まぎれもない「文化資本」の一種である。
 また、「趣味」は貴族的な「贅沢趣味」と庶民的な「必要趣味」に大別することができる。前者は「オペラを劇場で愉しむ」、「美術館で絵画の名品を観る」、「高級レストランで最高のディナーを味わう」などの行為に代表される。後者は「仕事上の必要性から営業スキルアップの本を義務的に読む」、「空腹を満たすためにスーパーで安上がりで大容量の食品を買う」などの行為に典型化されるような、日常生活において必要性が高い行為を指している。こうした分類から可視化するのは、「必要性」への度合いが低ければ低い行為ほど、それだけ文化的なlégitimité(正統性)が高く、行為者の実質的な文化資本を反映した「美的性向」によって選択されている可能性が高いという点である。

【objectivé(客体化された)文化資本】

 これはbiens culturels(文化的財)を指している。所有している美術品や書物、家具などの質・量によってその所有者の「文化資本」の多寡を推定することができる。つまり、客体化された「物」として眼に見える形式で所有されるまでには、まず文化資本自体が個人に「身体化」されていなければならない。質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。

【institutionnalisé(制度化された)文化資本】

 これはincorporé(身体化された)文化資本と、objectivé(客体化された)文化資本の「折衷」的な形態である。代表的なのはtitre scolaire(学歴資格)である。志望校に合格した者は、受験生時代に培った文化貸本を「学歴資格」という「制度化された文化資本」にまで格上げすることが可能だが、不合格者の場合、文化資本は望まれた肩書きへの転換を遂げられることなく、まだ何の制度的承認も得られていない、ただの文化資本としての状態に放置される。これこそ、ブルデューのいう「制度化する権力のパフォーマティブ(遂行的)な魔術」である。
 逆に言えば、文化資本は常に既に何らかの「制度的な形式」への昇華を望んでいる。例えば様々な職業資格や免許証なども、「試験」によって獲得した文化資本の質・量を認証するための制度である。ただし、ヘルマン・ヘッセのように学校を辞めて文学的な活動を開始した作家の場合、この時の「挫折」の体験(制度的に認められない「不可視の領域」)は芸術的に「回収」されることになる(例えば『知と愛』、『車輪の下』)。この「形式」こそが、「文学」である。ブルデュー社会学では、これは「文化資本のméconnaissance(誤認、見過ごし)」と表現されるが、実はこの失敗のメカニズムにこそ、ブルデュー社会学が「芸術の発生」の場へと接続していく点を見出せるだろう。制度への参入の失敗、頓挫という人生上の「危機」体験は、実は逆説的にも「芸術」への偉大な道を開く。

【文化資本の獲得と相続】

 クラシックな趣味が当たり前のように浸透している文化資本の高い家庭に育った子供は、それだけ比較的容易に文化資本の「身体化」を行うようになる。獲得された文化資本は、やがて不可視の「性向」として、子供が成長した際の「趣味形成」を決定付ける。彼らは「遺産相続者」と呼ばれ、子孫へ文化資本を更に「再生産」していく。たとえ両親への反撥から、全く異なる趣味を獲得しようとしても、「性向」へと身体化している上流階級特有の認知構造まで容易に変えることなどできない。文化資本の相続とは、いわば父母から分泌される「文化的樹液」(石井洋二郎)である。生物学的遺伝ではなく、こうした家庭環境によって得られる資本をブルデュー研究者の石井氏は「環境資本」と定義する。日本では、特に親の学歴に近接した学歴を子が「再生産」する構造が顕著である。

【「文化貴族」と「文化庶民」】

 「文化貴族」は『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように定義される。

…文化貴族の肩書きの持ち主は、ちょうど本物の貴族の称号の持ち主についてはその存在が専らある血脈、土地、人種、過去、祖国、伝統などへの忠実さによって規定され、ある行為とか技量、機能などには帰せられることがないのと同様に、ただ現に自分があるところのものでありさえすれば良い。というのも、彼ら文化貴族の慣習行動は全て、それらが達成されるための源泉となる本質を肯定し恒久化するものであるために、行為者当人が持つのと同じだけの価値をそのまま持つからである。(『ディスタンクシオンⅠ』p38)


 この説明からも判るように、「文化貴族」は生まれた時点で既に「超越的な本質」を身体化するために必要な「環境資本」に属している。換言すれば、卓越性の標識を一種の遺伝子情報として体内に宿した存在であり、その意味では「貴族」という言葉は譬喩以上の深い意味合いを持っている。彼らは生まれたときから肩書きを自動的に保証される貴族階級と同様に、自分が「貴族であること」をいちいち証明してみせる必要がない。その存在自体が「貴族としての本質」の発現だからであり、全ての振る舞いが貴族的だからである。とはいえ、ブルデューは『国家貴族』においては、「ノブレス・オブリーシュ」を実践しない貴族は「貴族でなくなる」ことを、ノルベルト・エリアスを引用しつつ述べてもいる点にも留意しておくべきだろう。いずれにしても、生まれながらの貴族は、庶民の身振りを真似ても貴族であることに変わりはないが、庶民は貴族の真似をしても、所詮スノッブな庶民にしかなり得ないことに変わりはない。
 ブルデューの「文化貴族」の概念の対立項として、石井洋二郎氏は『差異と欲望』の中で「文化庶民」という概念を提示している。その決定的な差異は、以下のように「食事の取り方」において際立つ。

「〈味覚〉のアナロジーによる文化貴族の諸特徴」

⑴量より質
⑵実質より形式
⑶材料より調理法
⑷栄養より盛りつけ
⑸重くて脂っこい食べ物より軽くてあっさりした料理
⑹気取らない無造作な食べ方より、マナーを重視する礼儀正しい食べ方



 この六つの特徴は、なにも「食事」に限定されたものではなく、例えば「読書のスタイル」や「芸術の審美眼」などにおいても共通した性向である。性向が最も顕著に特徴付けられるのが、いわば食事におけるマナー、その獲得された「味覚のセンス」なのだ。つまり、生活上の必要性から最も距離を置き、「貴族的に振る舞うこと常に意識する機会」、「ある〈界〉内において劣等感を感じる機会」、「生活費について意識する機会」が少なければ少ないほど、その行為者はより「ゆとり」があり、本質的に貴族的である(真の貴族はノブレス・オブリーシュを自然に身体化しているため、背伸びして貴族的なスノビズムを演じる必要もない)。そして、何よりもこうした文化貴族が発揮する優雅なdistinctionは、「無意識的」なものとして自然に行われるものである。あらゆる分野において「貴族特有の〈ゆとり〉」を持つことが「文化貴族」の身振りと深く結び付いている点について、ブルデューは『ディスタンクシオンⅡ』で以下のようの述べている。

生活様式のレベル、そして更には「生活の様式化」のレベルにおける最も重要な差異は、世界に対する、すなわちその物質的拘束と時間的切迫性に対する客観的・主観的距離がどれくらいものであるかによって決まってくる。世界と他者に対する距離をとった、超然たる、屈託のない性向、内面化された客観性に過ぎないがゆえに主観的とはほとんど呼ぶことのできない性向は、その一面である美的性向がそうであるように、切迫性から解放された生活条件の中でしか形成されない。(『ディスタンクシオンⅡ』p211)


 このように、「文化的階級構造」は現代日本社会においても歴然たる事実として存在している。身分の差異の構造は、「文化獲得様式の差異」の内に端的に露呈されているのだ。ブルデュー社会学がなぜ日常において最も卑近な「趣味」分析から出発するのかの理由が、まさにここにある。
 また、文化貴族としてのステータスも、親から子へとそのcapital statutaire(身分資本)を担保として再生産されていく。エリートの家庭で育った子供は、「自分にとって親しみ深いモデルの内に実現された分か」を、初めから一挙に与えられているのである。

Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu
Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu

【distinction(卓越化、差別化)】

 ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionとは、まず何よりも「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。基本的な意味は「区別、弁別、識別」であり、AとBの差異、あるいはその差異の認識である。この言葉は元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。distinctionには、他にも以下のような多義的な意味が存在する。また、distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。
 このように、distinctionとは、他者よりも上品で優雅、かつ卓越した存在として自己を提示する行為である。使い方として、例えば「彼女にはディスタンクシオンがある」という場合、これは「彼女には上品な物腰、趣味、教養がある」という多義的な意味を与えることになる。以上から、ブルデューが頻出させるキーワードであるdistinctionは、日本語では「卓越化、差別化」と訳されることが多いが、実質的にはこのような重層的な意味が存在している。

「distinctionの類似概念」

・différences(差異)
・différenciation(差異化)



 そして、ここからネガティブな意味にも繋がるdiscrimination(差別)という概念へも派生していくので、distinctionの持つ概念の射程圏は極めて広範囲に及んでいると言って良いだろう。

【légitimité(正統性)】

 正統性――正確には「文化的正統性」とは、「自然化された社会的差異」である。それは〈界〉内での支配の正当化、あるいは階層化の効果によって、最早恣意的なものとは意識されないほどに正当化されるに至った恣意性である。換言すれば、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異」、「無根拠な根拠」である。ノブレス・オブリージュの原理、あるいは界内の信念(祖国愛、イデオロギーなど)も全てlégitimitéの所産であり、これらは「正統化」された「ドクサ(臆見)」として、ブルデューは『パスカル的省察』でortho-doxie(正統ドクサ)と表現している。légitimité(正統性)、ortho-doxie(正統ドクサ)の類似概念が、illusio(イルーシオ)である。
 イルーシオとは、行為者間で共有されたそれぞれの〈界〉特有の集団的な幻想を意味する。スコラ的貴族主義は自らの支配を正当化するために制度的な認識論的フレームを行為者に与えるが、これがイルーシオそのものである。イルーシオ、あるいは臆見としてのドクサとは〈界〉内に存在し、我々の「身体」を幻想的に構成してきた類のものであり、これは〈界〉内の権力者たちによって暗黙裏に正当化されている。ドクサとは、我々の認識的な鋳型の総体であり、全ての行為者が何らかの界に属する限りで、常にドクサを無意識に受容していることになる。ドクサは往々にして界内の「敵対関係」を生み出す作用因としての機能している。敵対は往々にして二項対立的な図式を取るが、彼らはいわば「対立する相手」を持つことによって自己を界内の場に穿つのであり、このためには互いに対立し合っているという共通の視点が必要である。「正統派に属そうが異端派に属そうが、全て界にコミットしている者たちは同じドクサへの暗黙の帰依を共有している。このドクサが競争を可能にし、競争の限界を画するのである」(『パスカル的省察』p174)。
 文化的に何が正統的であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して実現される。例えばクラシック音楽の中でも、リヒャルト・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的であるとか、英米文学でもパトリシア・ハイスミスは大衆的だが、ヘンリー・ジェイムズは厳格で純文学的である、などといった様々な「印象/効果」が存在するが、これを生み出す根源的な操作がclassementである。そして、こうした階層化/階級化の原理は、その〈界〉の「歴史」によって生成する。すなわち、ある作品が他の作品よりもいっそう「高尚」に感じられたり、評価されていたりする背景には、ハビトゥスそのもの歴史的背景が横たわっている。無論、全ての行為者はこうしたdistinguer(区別する)行為を通して、se distinguer(他者から区別される)存在でもあり、classementによって一定の「クラス/位置」に常に分類「される」分類者でもある。

【habitus(ハビトゥス)】

 最も重要な骨格を取り出せば、habitus(ハビトゥス)とは「身体化された歴史」であり、「構造化された構造」である。habitusはラテン語habere(持つ)の派生語(英語haveの語源)であり、「所有」の観念を含有している点が重要である。ハビトゥスとは、図式的には以下の四つの子概念を包括した親概念(基礎概念)である。

・各倫理的性向の集合としての「エートス」
(例)「彼は毎朝ニュースを欠かさずチェックする」(几帳面な性格)
・各美的性向の集合としての「趣味」
(例)「彼女はミュージカルよりもオペラを愛好する」(クラシックな文化への志向性)
・各身体的性向の集合としての「身体的ヘクシス」
(例)「彼女はランチの際、背筋を自然に伸ばして上品に食べる」(家庭環境での食事マナーの身体化)
・各言語的性向の集合としての「言語的ヘクシス」
(例)「彼の日常語には自然に英語が多用される」(外国語の理解、習得)



 これら四つの概念(「エートス」、「趣味」、「身体的ヘクシス」、「言語的ヘクシス」)がひとりの行為者の「慣習行動」を生み出す要因となるわけだが、ハビトゥスとはそれらの総称である。つまり、ハビトゥスとは一言で言えば、「エートル(存在)と化したアヴォワール(所有)である」(ブルデュー)に他ならない。したがって、厳密に言えばハビトゥスは「習慣」という訳語に収まり切るような概念ではない。ハビトゥスは「habitude(習慣)を生み出す強力な〈生成母胎〉」であり、「存在」に先立つ唯一の概念である。主著の一つである『パスカル的省察』でブルデューは「ハビトゥス」を以下のように定義している。

ハビトゥスは継起的局面のデカルト的不連続性を運命付けられた瞬間的存在ではなく、ライプニッツの用語を使って言えば、lex insita(天性の法)でもあるところのvis insita(天性の力)である。すなわち法を備えた、したがって恒常的要因と恒常性を象徴とする…力である。…ハビトゥスは、持続的な連帯の場、身体化された法と絆――団体精神の法と絆――に基づくがゆえに、抑え込むことができない忠実性の場である。ル・コール・ソシアリゼ(社会化した身体)の、ル・コール・ソシアル(社会という身体)――(社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている)に対する抜き差しならない密着である。こうしてハビトゥスは、同じような条件と条件付けの生産物である全ての行為者の間の暗黙の共謀の基礎となる。(『パスカル的省察』p246)


 例えば、農夫の家庭に生まれた美しい少年が成長して、ある貴婦人の眼に留まり、社交界でやがて研鑽を積んで一人の「貴族の青年」に「成り上がる」ような物語を想像してみよう。彼は貴婦人から一流の「身振り」、「礼儀作法」を学ぶことはできるが、農夫の子として生まれ、幼少時に身体化された「性向」を教育によって改めていくのはけして容易なことではない。フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられるものではない)は、まさに「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。〈生成母胎〉としてのハビトゥスの本質は、langue maternelle(母国語)とも表現されることがある。幼少時代の「母の言語」は、成長した後の個人の話し振りや言葉遣いに決定的な影響を与える。それは「隠そうにも隠し切れない階級性の指標」である。
 また、先述した物語の例は以下のような重要な示唆も与える。少年は自身の出自から「脱出」して、上流階級に参入しようと企図したわけだが、このような「越境」行為もまた「ハビトゥス」が初めから組み込んでいる原理である。すなわち、ハビトゥスには、コードからの逸脱や公式への違反も予めプログラムのモメントとして設定されているのだ。
 ハビトゥスとは何かを定義する際のアナロジーとして有効なのが、以下の図式である。

・modus operandi(作り出す方法)=ハビトゥス
・opus operatum(作り出された作品)=行為者の諸特性、生活様式



 つまり、ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば我々行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。いずれにしても、ハビトゥスは「自我」に統制されることなく、行為者の全ての慣習行動を決定付けていく。この点で、ハビトゥスとはまさに「主体なき実践」であり、ほとんど自動的なメカニズムである。これは即座に「人間は生まれながらに運命を決定付けられている」ことを意味していないが、「構造化する構造」として人間の運命がハビトゥスに著しく左右されることは否定の余地がない。このように、ブルデューの認識論は単なる構造主義の次元を越えた、「生成論的構造主義」の立場を採用していると言われることもある。

「一次的ハビトゥス」

 一次的ハビトゥスとは、「最古層の早い段階でのハビトゥス」を意味し、端的にこれはgoût(味覚)である。ブルデュー社会学の中でgoût(趣味)の概念が極めて重要であることは既に述べたが、この語は同時に「味覚」をも意味する。

habitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)

 ブルデュー自身、農夫の家系からフランス最高の知的養成機関へ進学できたという「奇蹟を受けた者」としての誇り、自信を抱いていたことを『自己分析』で述懐している。こうしたエリートとしての聖別された感覚を、ブルデューはカント派に挑戦を試みたハイデッガーにおいて顕著に見出している。「エコール・ノルマルの時代から、わたしの選択の多くがある種の貴族主義によって決定されていたことを告白しなければならない」(p157)。しかし、ブルデューが身体化した貴族主義とは、「分裂ハビトゥス」に内在する「傲慢であるよりは絶望からくる貴族主義である。何故なら、学力競争にはまってしまったことを振り返って恥じる気持ちと、一時期染まってしまったbon-élèvisme(優等生主義)への反撥とに根ざす貴族主義だからである」(同)。
 ブルデューは、自分の研究スタイルに「分裂ハビトゥス」が顕著に身体化されていると解釈している。例えば、「しばしば、一見卑近な経験的対象に大きな理論的野心を投資する」(p158)。これはおそらく、『美術愛好』で展開されたような、「美術館や劇場へ行く」行為が、なぜ「映画館へ行く」行為よりも顕著に「上流階級」的な文化的パラメータの指標となるのか、といったことを徹底的に暴き出そうとするブルデューの極めて鋭敏な「慣習行動」への分析として顕在化しているだろう。

【pratique(実践、慣習行動)】

 pratiqueとは、ほとんど生活のあらゆる領域にまたがる日常的な行為の数々であり、以下のように規定される。

「性向」×「社会的状況」=「慣習行動」


 我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれているのであり、そうである限り、我々は常に社会的に(再)生産されている。したがって、この「性向」それ自体が実は「歴史」的である。例えば、ある人間がオペラを愛し、実際に何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで、「性向」には「歴史」が身体化している。
 次に、「社会的状況」は諸「界」の構造が齎す現状を意味する。例えば、会社員の場合、朝八時から夕方六時までは少なくとも企業に拘束されるという状況は、彼の「趣味形成」の場としての「余暇」に大きな影響を与える。無論、こうした現状を生産しているのも社会であり、その社会空間を成り立たせている「歴史」である。この歴史は、「身体」と表現される。
 この二つの要素が一体化して、それまで「潜勢態」であった「ハビトゥス」自身が、いわば自己展開し始める。これこそが、我々の「日常行為」であり、ハビトゥスの「顕在化」である。このように、行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続によって身体は逆に歴史化する。行動こそが歴史を展開する限り、この図式は「世界の生成原理」として把捉することが可能となる。それは実は二重の「身体」論であり、部分としての「身体」がそれを取り巻く社会という「身体」に包摂されているという事実を提示しているのである。ブルデューはこれを『パスカル的省察』で以下のように述べている――「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」。

【象徴的権力】

 象徴的権力(あるいは象徴的暴力とも表現される)とは、端的に言えば「支配関係の構造を身体化したもの」である。ブルデューは『パスカル的省察』で以下のようにこの権力が行使される原理を規定している。「象徴的暴力は意識と意志を武器とするだけで克服できると考えるのはまったくの幻想である。象徴的暴力の有効性の条件は、性向という形で身体の中に持続的に書き込まれている。この性向が、特に親族関係の場合、またこの関係をモデルとする社会関係の場合、感情あるいは義務の論理の中で表現され体験され、それらの社会的生産条件が消滅した後も、長く生き延びるのである」(p307)。すなわち、象徴的権力とは、我々の全ての社会的行為を産出するファクターである「性向」(ハビトゥスから再生産されたものとしての)の内に書き込まれている(例えば両親の口振り、趣味、小学校時代の教育環境など)ものであり、高度にクリプト化された状態で身体化されているものである。それは、「支配されている」という事実を支配者側によって巧妙に隠蔽化するための原理であるが、ブルデューのこの概念はこうした内幕を曝け出す効力を発揮する。
 象徴的な権力は、ハビトゥスの性向の暗闇の中で発現する。この性向の内部には、行為者の認知システム、それぞれの行動や趣味を生み出す構造が書き込まれている。被支配者側の認知システムの内部に、既に支配者側による「支配の正当化」原理の図式があらかじめ書き込まれている以上、実はこうしたクリプト化された「見えない暴力」は、被支配者側と支配者側の「共犯関係」があって初めて成立すると言うことができる。換言すれば、「支配される」という状況が成立するためには、我々ひとりひとりの認識するフレームと、「国家」権力を最高形態とする、公的に「客観的構造」とみなされているフレームが一致することが必要である。第二次大戦前の日本の社会的状況を鑑みれば判然とするだろうが、強力な「支配の正当化」原理が作動している「界」内においては、プレーヤーが「支配される」という拘束的な感覚を麻痺化させてしまっている現象が見られる。こうした正当化された支配体制は、「界」外に脱出して冷静に分析してみないことには可視化され得ない。ある国家に存在する時、我々は必然的にその国家に特有のイルーシオ、あるいはドクサを身体化してしまっている。これは、例えば作家を目指して「小説を書く」という、一見極めて「自由」に見えるような行為においてすら、「文学」界という固有の場によって既に「小説」というエクリチュールのシステムが各種の「正当化された様式」に染まっているということを我々に思い起こさせる。既成秩序への暗黙裏の服従は、系統発生的な身体としての「集合的歴史」(例えば「文学史」)と、個体発生的な身体としての「個人的歴史」(例えば作家の個人的歴史)が、共通してそれぞれの身体の中に書き込んだ認識構造と、それらの構造の器の役割を果たす「界」(この場合は「文学」界)の客観的構造との間の「一致」の産物に他ならない。
 象徴的権力のメカニズムによる支配は極めて強力である。このメカニズムの本質を、ブルデューは「二重の自然化」、あるいは「二重の共犯」と呼ぶ。つまり、支配層のみならず被支配層も「支配の正当化」原理を身体化し、その内に「界」特有のイルーシオ、あるいはドクサを抱え込んでいるという事実である。換言すれば、既にそのような社会構造が存在しているのであり、これを身体化したものとして行為者の認知システムが生産されるわけだが、社会構造もまたそうした認知システムを刷り込まれた行為者の集合として生成しているという二重性である。

【制度化された視点】

 ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンが『美術史の基礎概念』で展開した認識論的な枠組みとも相関している。ヴェルフリンはその結論部で、以下のようにブルデュー社会学の基礎に存在する認識論を共有していた。

全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている。あるいは――同じ言い回しを繰り返すが――可視的なものは<眼>のためにある種の形式のもとで結晶する。しかし、全ての新しい結晶形式の中で、世界内容の新しい側面も現れ出るであろう。(ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』p336)



「全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている」とは、換言すれば「あらゆる芸術作品は例外なく様式の枠内にある」ということである。

【文化的再生産(cultural reproduction)】

『ディスタンクシオン』で提示された、行為者を社会空間において差異化させる二大差異化原理――すなわち「文化資本」と「経済資本」である。この二つの資本種は、『国家貴族』で理論化された「再生産原理」である「同族型再生産」と「学歴型再生産」によって、親から子へと受け継がれる。

【champ(界)】

 例えば文学という〈界〉ひとつ取り出しても、そこには直木賞寄りの「大衆文学」と芥川賞寄りの「純文学」でそれぞれの〈界〉があり、〈界〉内で更に細かく階層化が起きている。全ての行為者は社会空間上で、あるいは「趣味」の分布図において何らかの〈界〉のプレイヤーとして存在している。

【agent(行為者)】

ブルデュ―社会学における「行為者」とは、pratique(実践、慣習行動)に伴って形成される「過程的な〈わたし〉」である。ブルデューは、このようにデカルト的な伝統的「主体」(sujet)を意味するキーワードを周到に回避し、あえてagentを「主体」の意味で使用する。

【Ancien régime(アンシャン・レジーム)】

 ジョルジュ・ルフェーヴルによれば、Ancien régimeとは、フランス革命以前の16世紀から18世紀において制度化されていた政治体制である。ブルボン王朝の絶対王政はこれに当たる。アンシャン・レジーム下のフランスでは、「聖職者」、「貴族」以外は全て「第三身分」として扱われ、この三つの身分しか存在しないと考えられていた。ブルデューの社会学では、往々にして「支配の正当化原理」を行使する権力装置のメタファーとして登場する。

【aristocrate(アリストクラート)】

 aristocrate(アリストクラート)とは、「貴族」+「高位聖職者」によって構成された社会的階層である。語の使い方としては、aristocratic(アリストクラティック)、制度としての意味で用いるならaristocratie(アリストクラシー)である。アントニムは「デモクラート」であり、この限りでアリストクラートはデモクラートに対立する政治的・社会的な概念である。アリストクラートは自分たちの利権を守るための「支配原理」に貫かれており、かつこの原理を正当化しようとする点で共通する。ブルデューは彼らを「凡庸なホモ・アカデミクズ」や「〈界〉内のスコラ的貴族主義」のメタファーとして用いる。