文化の権力―反射するブルデュー/藤原書店

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 日本のブルデュー研究者の論稿を編集した『文化の権力』所収、片岡栄美氏の『「大衆文化社会」の文化的再生産――階層再生産、文化的再生産とジェンダー構造のリンケージ』(2003)を読解したので、その記録を残す。著者は関東学院大学文学部現代社会学科教授で、専攻は階層・移動研究、教育社会学であり、東大出版会の『社会階層のポストモダン』にも「文化資本と階層再生産」をテーマにした別の論稿が収録されている。

【日本は文化的に平等か?】

 まず、片岡氏は一般論として未だに信じられている「日本は文化的に平等な国」という神話に、以下のような本質的な問いを用意する。「文化的平等神話はなぜ広がり、文化的再生産はなぜ隠蔽されるのか?」。これには少なくとも以下の三つの理由が考えられる。一つ目は、日本の場合、男性学歴エリートがイコール「文化貴族」ではない、という見方である。二つ目は、現代社会に広く「大衆文化」が広がっており、文化格差など蜃気楼に包まれている、という見方である。そして片岡氏が本論で最も重視するのが、三つ目の「文化消費のジェンダー・バイアス」の問題である。
 以下のテクストは、現代における「ノブレス・オブリーシュ(貴族であることの義務)」とは何かを深く考察する上でも我々にとって極めて有益である。

…日本の調査から判ることは、相対的に女性はハイカルチャー志向が強く、男性は大衆文化志向が強いことである。筆者は、日本の文化消費の特徴の一つとして、「文化の機能や社会的意味が、男性と女性で異なる」ことを明らかにしてきた。特に家庭文化に恵まれて育った女性ほど、成人後も文化的となってハイカルチャーに参加し、文化資本を蓄積するだけでなく、高学歴を得て、更に婚姻においても優位な状況にある。つまり女性の文化資本は階層と強い結びつきを示し再生産されるだけでなく、婚姻を通じて高い経済的資本へと変換されていた。しかし男性では、家庭の相続文化資本が様々なライフチャンスで効果を発揮するというメカニズムは見出せなかった。このようにジェンダーによって、文化資本の働きが異なるのは何故だろうか。(p103)


 片岡氏の調査報告から判ることは、女性の方が文化資本の獲得において卓越化しようとする志向性が男性よりもはるかに高いという事実である。後に明らかになるように、その理由は女性の「結婚戦略」が「文化資本の多寡」と分ち難く結び付いているからであるが、ひとまずこの段階で可視化されるのは、ジェンダーによって階層再生産と文化的再生産が「分業」されているという社会構造である。
 男性がなぜ大衆文化志向が強いのかについて、片岡氏は「文化的オムニボア」というカテゴリーを導入している。それは具体的には以下のように説明されている。

大衆文化が強い日本社会において、多くのホワイトカラー(管理職・専門職・事務職)は、文化的オムニボアとなっている。文化的オムニボアとは、ハイカルチャーも大衆文化にも両方に関与する文化的雑種性を特徴とする人々を指している。言い換えれば、文化的に多面的で、多様な文化に理解を示す文化的寛容性を特徴としている。広い文化的知識を持つ文化的オムニボアは、多様な社会場面で状況に応じて使い分けを行い、自分たち以外の階層集団や社会集団とも交渉したり相互交流することができる。社会のグローバル化が生み出した典型的な中流階級の価値観を表しているともいえよう。(p104-105)


 ここで片岡氏は、「文化的オムニボア」の特徴を述べている。日本のような広く大衆文化が浸透した島国において、特にホワイトカラーに代表されるような成人男性の多くが、「文化的雑種性」を示しているが、これが「文化的オムニボア」の主たる特徴である。彼らは実に日本の成人男性の半数(54.0%)に相当する。文化的オムニボアは特に若年層に多く、とりわけ高学歴男性やホワイトカラー層で顕著に見出される。そして片岡氏はこの雑種性を「寛容性」として半ば肯定的に解釈している。文化的に寛容であることは、例えば営業職で様々な趣味を持つ取引先の社員たちとコミュニケーションを図る上で重要な「社会関係資本」であると言えるだろう。
 因みに、文化的オムニボアの内、「大衆文化」には見向きもしない、いわゆる「文化貴族」(ハイカルチャー・ユニボア)は本論の調査時点で1・9%と、極めて低い数値を示している。ここで言う「ハイカルチャー(文化威信の高い文化活動群)」とは、例えば「クラシック音楽のコンサートに行く」、「美術館や博物館に行く」、「歌舞伎や能や文楽を観に行く」、「華道・茶道・書道をする」、「短歌や俳句を作る」の五項目として、片岡氏が作成した本論中の資料「文化消費パターン」に組み込まれている。続いて「中間文化」とは、「ゴルフ・スキー・テニスをする」、「小説や歴史の本を読む」の二項目である。最後に「大衆文化」とは、「カラオケをする」、「パチンコをする」、「スポーツ新聞や女性週刊誌を読む」の三項目で構成されている。片岡氏は、日本の成人男性の多くが上記で挙げたような「大衆文化」と「ハイカルチャー」の消費を雑種的に行っていると述べているわけである。
 では、「文化貴族」はどのような職種に多く見られるのだろうか? 片岡氏はこの点でブルデューが『ディスタンクシオン』で「文化資本」と「経済資本」の二大再生産原理に基づいて統計を取った社会空間上の分布図から得られる結果に非常に近接した見解を述べている。文化貴族は、上級文化専門職である「大学教授」、あるいは「弁護士」、「芸術家」などに見出すことができる。そして、先に示した二大資本の高い家庭から生まれた子弟の持つ「相続文化資本」が、彼ないし彼女が成人した時に行うハイカルチャー消費の「再生産」へと結実する。片岡氏によれば、「文化貴族の血統性」を保存する社会的ホメオスタシス(恒常性)がより堅固に機能するのは、「女性の高学歴層」においてである。
 文化的オムニボアの所作に見られるように、日本の社会では「排除されないため」にも、大衆文化(カラオケ、宴会など)的な振る舞いが必要になってくる場合がある。文化的エリートは、組織に同調して「自らの文化的優位を隠す」ことで、階層的なルサンチマンを回避すると述べられる通りである。このように、日本では高い文化資本を有する男性であっても、企業内で角を立てずに関係性を維持していくためには、大衆文化への親和性が必要になるという事実は、明らかにブルデューがフランス社会で調査した「文化的排他性仮説」とは異なっている。ブルデューの研究によれば、学歴資本の高い行為者は総体的に高い文化資本、経済資本に結び付く傾向がある。逆に庶民は、例えば『美術愛好』でも述べられていたように、「美術館で居心地の悪さ」を感じたり、ある一枚の絵画を目にした時に「素朴な印象」しか発言できないことが多くなる。『パスカル的省察』では、文化貴族がこのような「素朴な印象」を排して、全て理論に還元していくような主知主義が主たる批判対象となっており、ブルデューは上記のような振る舞いを「スコラ的貴族主義」、あるいは端的に「スコラ的性向」と呼称していた。
 ブルデューの文化的再生産論の基礎にあるのは、文化貴族による「文化的排他性仮説」と呼ばれるものである。片岡氏は彼の立場が「発生論的構造主義」であることを踏まえた上で、エリートがそのまま文化面でも高い資本を有するという彼の理論的定式に留保を加えている。その上で彼女が提示するのは、「排他性」ではなく、「文化的寛容性仮説」と呼ばれるものである。

従って、現代のエリートに求められる資質とは、多様な集団の文化を理解し、文化的に寛容になれるハビトゥスを持つことであると考えられる。この第二の視点を、「文化的寛容性仮説」を呼び、現代の文化資本とは、文化的に排他的であることではなく、文化的な多様性や寛容性を示すことであると定義した。この文化的寛容性仮説が、日本のデータにはよく適合するのである。(p108)


 しかし、片岡氏の調査によれば、「文化的寛容性仮説」はあくまでも世の男性に多い「文化的オムニボア」についての文脈で展開されている概念であることに注意せねばならない。というのは、氏が述べるように、「高学歴女性」では依然として高い文化資本の「再生産」の構造が顕著に見出されるからであり、こうした傾向が男性よりも非常に強いからである。また、片岡氏は本論において「結婚戦略」を女性に限定して展開しているが、これは男性側にも言えるのであって、どれ程経済資本が豊かであっても、夫婦で著しく文化格差が存在している場合、「休日の過ごし方」に齟齬、不満、ギャップが浮上するのは避けられない。女性が高い文化資本を持つ場合、当然のことながら男性の場合も、彼女からの認知資本を増加させるために文化的素養を積むという所作は自然必要になってくるだろう。言い換えれば、大衆文化が広く蔓延している島国であるからこそ、日本で生きる場合、「文化資本」の戦略的な「排他性仮説」を採用するという所作もまた、必要になっているのではないか、ということである。

【調査結果】

 ブルデュー社会学は「対応分析」という手法を用いる。これは、以下の二つのファクターから、行為者のプラティック(行為者の選択が示す立場決定=実践)が生まれるという考え方である。一つは、行為者が属している社会空間内のポジションである。もう一つは、歴史を身体化していると同時に、行為者の身体をも構成するハビトゥスの概念である。片岡氏は、「社会的位置空間」×「ハビトゥス」=「プラティック」という簡潔な図式をひとまず読者に紹介している。
 日本で生活様式空間(ライフスタイル)を分析する上で重要なのは、ブルデューがフランスで行ったように「文化資本×経済資本」の多寡によって分布図を作成することである。この二大資本の交叉配列から片岡氏が明らかにしているのは、「西洋文化趣味」は統計的に、本人と両親の学歴資本が高く、支配階層(管理職、経営者など)と深い相関があるという事実である。ただし、理数系技術専門職の場合、彼がたとえ極めて高い学歴資本を有していたとしても、相応の高い文化資本が比例して見られるわけではない(例えば学歴エリートの敏腕プログラマーが、小学生用のゲームに熱中するなど)。ここでまず見出されるのは、「西洋文化」資本は「学歴資本」の高さと比例関係にあるが、日本古来の「伝統文化」資本は、「経済資本」が豊かな行為者に多く見られるという調査結果である。例えば、歌舞伎、能、文楽、華道、茶道、俳句などの趣味の担い手は、年収九百万以上の人々において比較的多く確認される。逆に、医師、会計事務、教師などの職種では、どちらかというと「西洋文化趣味」を高く示す文化資本の志向性が確認できる。
 では、日本古来の「伝統文化」と「西洋文化」の双方において極めて高い文化資本を有するのは、どのような社会カテゴリーであろうか? 実はこれも片岡氏のデータから可視化されており、それは「文化媒介者」(作家、芸術家、宗教家など)と「大学教員」である。例えばイタリアの現代思想の研究者が、鎌倉時代の仏像についてほとんど教科書的な知識しか持ち合わせていなかったりする現象は多く見られるだろうが、特に「大学教授」クラスになってくると、日本のみならず西洋の歴史、文化、芸術、思想についての極めて高い文化資本を発揮する行為者が現れる。片岡氏は、彼らをまさしく「文化貴族」と呼んでいる。これは換言すれば、「専門外」の分野でも比較的豊かな文化的素養を持つことを意味している。とはいえ、たとえ文化貴族である「大学教授」であっても、ブルデューが図式化したように、相応する貴族的な「経済資本」を伴うわけではない。皮肉なことに、社会空間上では常にある職業と対極的な資本関係にある職種というものが存在しており、教授の場合、企業の「経営者」クラスの行為者がこれに相当する。つまり、「経営者」は極めて高い「経済資本」を持つが、逆に「文化資本」には偏りがあったり、それを消費的に享楽するだけで卓越化した知見を展開したりするケースは稀であることが見られる。いわば、「大学教授」の場合とシンメトリカルなポジションにあるカテゴリーとして、「経営者」は存在している。
 以上のような調査結果を、片岡氏は以下のように要約している。

要約すると経済資本は豊かだが学歴資本の少ない経営者層は伝統文化趣味となり、高学歴の専門職(医師、小中高教員など)を中心に、西洋文化趣味が現れるが、理科系技術専門職は現在の西洋文化消費がやや弱い。また上級文化専門職(大学教授、宗教家)は主に西洋文化趣味を中心としつつも、伝統文化趣味にも近い距離を取り、「文化貴族」となっている。事務や経済資本の少ない管理職は中間文化(パソコン、小説や歴史の本を読む)に関与している。そして大衆文化趣味は、日本では階層横断的な共通文化となっており、労働者階級特有のものとはいえない。(p116)


 ここでやや奇妙なのは、「上級文化専門職」のカテゴリーに、「大学教授」と並んで「宗教家」が隣り合って並んでいる点であろうか。宗教家の場合、文化に強力な宗教的意味賦与を行う「権力」が、彼ないし彼女を教祖とする宗教団体内部において働くので、教授や文化媒介者と同列で論じることには違和感が拭えない。むしろブルデューが「上級文化専門職」として挙げていたのは、「芸術家」、「作家」などであった。
 片岡氏の上記の要約から改めて判然とするのは、「階層横断的な共通文化」(いわば下地文化)として、「大衆文化」が存在しているということである。無論、両親が漫画やゲームで遊ぶことを禁ずる厳格な文化資本に貫かれた家庭も存在するので一概には言えないわけだが、少なくともここで浮かび上がるのは「文化の同心円構造」であり、文化資本の貧しい行為者ほど「大衆文化」という中心の小円から出られないという事実である。エリートがハイカルチャーへの志向性を示しつつ、余興的に大衆文化にも一定の理解を示す所作とは根本的に異なるスタイルという他ない。また、更に明らかになるのは、「学歴資本」を「文化資本」に交換していく比率(ブルデューが『国家貴族』で理論化した「資本種の交換」の概念に相関)は、理科系より文科系の方が多いという事実である。
 
【女性はなぜ男性よりハイカルチャー志向が強いか?】

 今や明らかになったのは、我々が暮らすこの日本という国における「文化資本」の実態である。
 片岡氏の調査から判ったように、男性は高卒・大卒共に「大衆文化」スコアが高い現状である。一方、女性の場合、男性よりも「文化的階層差」が顕著である。忘れるべきでないのは、女性の方が「ハイカルチャー」を幼少期から多く摂取する傾向が高いという調査結果である。「文化資本」を、「読書文化資本」と「芸術文化資本」に分別して考えた場合、後者のタイプで女性の方が男性をはるかに上回る傾向が存在する。ここで想起されるのは、『美術愛好』でブルデューが調査した統計結果から導き出される一つの図式である。それによれば、高学歴女性ほど、卒業して働くようになっても永続的に美術館、博物館、オペラ、コンサートなどに足を運ぶことが多い。印象的だったのは、こうしたハイカルチャー志向の女性の文化的洗練を、ブルデューが「大学教授」や「文化媒介者」が足繁く画廊に赴くという事実と同軸上で紹介していたということである。つまり、ハイカルチャー摂取の所作という点において、女性は本質的に「文化貴族」的だという事実である。
 一方、男性が企業の人脈を円滑化するために、自ら所有する文化資本を「隠す」というエリート的な所作が、無論文化資本の高い女性社員の場合にも妥当する。「出る杭は打たれる」というのが、「和」という観念で欺瞞的に踏襲されているこの国の文化的実態に他ならない。ゆえに、経済資本を維持していくためには、「大衆文化を〈纏う〉」という所作を余儀なくされることがあり得るのである。
 女性の中でも、特にハイカルチャー志向が強いのは、意外なことに「専業主婦」であると片岡氏は指摘する。特に高学歴で、職場からも一時退いている場合、彼女たちは「大衆文化を排除する戦略」を自然に身体化している場合が多い。ハイカルチャー志向が強いのは、なにも上級文化専門職に限定されてはいないという事実である。
 では、何故そもそも女性の方が男性より高い文化資本を求めているのだろうか? 片岡氏によれば、日本では昔から子女に対して「文化的洗練性」を美徳として教育する傾向が強く、これが成人後の彼女の「結婚戦略」にとって大きな武器となるからである。興味深いことに、統計調査結果では、文化資本が高い女性ほど、社会的地位が高くなる(あるいは夫の社会的ポジションが高い)。しかし、男性の場合、文化資本がどれ程高くても、社会的地位がそれと比例して高いという相関性は見られない。
 片岡氏は「女性と文化資本」について、以下のようにその統計の核心を述べている。

婚姻市場においては、同じ学歴ならば高い相続文化資本を持つ女性の方が、配偶者の経済資本(年収、世帯財産)が有徳に高くなり、男性では差異がなかった。たとえばSSM調査データで、大卒女性を芸術文化資本が上位三分の一のグループと下位三分の一のグループに分けて配偶者の年収を比較すると、約160万円程度の差があった。(p122)


 ここから片岡氏は「階層再生産と文化的再生産のジェンダー構造」という本論の要諦について、以下のように述べる。

このように全体として、社会的再生産は男性に任せ、文化的再生産は女性に任せるという構造が成り立つ。ジェンダーにより文化的再生産と社会的再生産が分業されるこの構造を、筆者は「階層再生産と文化的再生産のジェンダー構造」と呼んでいる。これは単にジェンダーによって差異があるという消極的な意味ではなく、男性の社会的再生産と女性の文化的再生産が婚姻によって相互に補完し連携する関係にあることを意味している。(p124)


 片岡氏の考察の特徴を一つ挙げるとすれば、それは男性学歴エリートは会社に入ると大衆化する傾向が強く、文化資本においては卓越化の強度が女性より弱い反面、経済資本が増加するという点がまず一つである。そして、こうした男性が文化資本の高い高学歴女性を結婚相手に選ぶことで、日本の社会は二大資本が「婚姻」によって結合し、「再生産」していく下地となっていくという事実である。「文化資本」は「婚姻」を通じて相続されていき、その上で「母」から「娘」へという形で受け継がれていく、と彼女は述べている。

【「客観化のメカニズムを再客観化する思考」の必要性】

 ここで注意しておきたいのは、片岡氏が「文化資本の再生産」の担い手を、徹頭徹尾「女性」に設定しているという、ある種の強いバイアスが働いた見方である。常識的に考えて、母親の文化資本が「息子」に相続されるということはよく見受けられるし(例えばマルセル・プルーストは文化資本の点で衛生医学の権威である父よりも教養豊かな母親から多大な影響を受けたことが知られている)、一家における経済資本の担い手を男性のみに定める見方は、封建社会の父権的構造を再踏襲しているようで、どこか説得力に欠ける点は否めない。確かに母親の持つ文化資本の役割が大きいことは間違いないが、むしろブルデューが重視していたのはエリート校で「知識」ではなく、「勉強する性向」そのものを身体化した「学校貴族」たちがその後「聖別」されたという優越的な意識を維持しつつ、文化資本を増大させカリスマ化していくという、ある種のイニシエーションの過程であった。性差は無論重要なテーマであるが、文化資本は本来性差に関与せず教育によって獲得されるものであり、家庭内の「相続文化資本」のみが決定的なファクターとなるわけではないだろう。
 文化資本の相続を女性に帰するという恣意的な意味賦与は、女性の役割を家事に押しつけ、男性は外で働くことを「自然」とみなす保守的な父権的家族集団への退行と解釈することも飛躍した批判とは言えないだろう。統計結果を重視し、そこから何か「社会的法則」を導出しようとする意図が、逆に読者に統計を再度読み返して著者の結論に疑義を呈することを促すような事態になってしまっている。文化の創出を担う芸術家たちの活動を、片岡氏の言うように「女性向きの女らしい活動」とする位置付けは、例えばサルトルの書いた小説は本質的に「女性読者」を想定しているとか、ボルヘスを愛読するのは会社員の男性ではなく専業主婦であるとか、挙げ句の果てにはフランシス・ベーコンの芸術は「芸術文化資本」と相関するものである以上、「女性」が彼女の娘にその知識を伝えていくのだ――などという極端な帰結を導いてしまいかねない。
 上記のような一方通行的な帰結に片岡氏が至ったのは、おそらく「文化的オムニボア」を日本社会の主たる構成員であると策定しているからである。あるいは、実のところ男性の学歴エリートが中心となっている大学〈界〉の中で教職者として生きることの過酷さを、論文の中で反転させ、あらかじめ用意した結論に沿った統計を事後的に配置した可能性も薄らと感じられる。つまり文化貴族は実は男性に多いという社会的現実への対抗戦略が、本論の一見客観的なデータに基づいた論理的思弁から透けて見えてくるのであり、これを一言で言えば、まさに著者自身の「男性学歴エリート=文化貴族」という、ブルデューが繰り返し述べた再生産構造のメカニズムに対する女性の文化貴族の葛藤の産物ではないか、と考えることもまた可能なのである。
 私は以前から、ブルデューを読解しそこから新たに論を成す人間には彼ないし彼女が持つ「コンプレックス」が顕著に見られるのではないか――しかも彼らはブルデュー論を展開する過程で、それをブルデュー的なキータームを用いて巧妙に正当化、理論化しつつ隠蔽するのではないか――と感じてきた。いわば、この社会学者を読む過程で感じた「苛立ち」や、「傷付けられる感覚」が、逆に論述テクストの呈を纏って「抑圧されたものの回帰」(フロイト)として再現前しているのではないか、という命題である。
 現代思想からの注目が高まっているベルギー出身の文芸批評家ポール・ド・マンがいみじくも述べたように、厳格な論文形式のテクストであれ、修辞的構造が言語の本性である以上、「叙事詩」と本質的に変わることはない。片岡氏の書いた本論を「小説」として読み直した場合、主人公のヒロインは「母親の文化資本」を神聖視し、逆にクラスメイトの優等生の男の子や父親の「芸術的素養の欠損」にある種の軽蔑を抱いている。しかしこの主人公も学歴エリートであるので、いわば興味の対象は世俗化した「会社員のお兄さん」たちにも向かっていく。彼らの文化資本が世俗化してしまっているのを知って、「文化貴族」に志向性を見出している自分はいよいよ安心するという極めて独特な心理に貫かれている。こうしたヒロインの「洞察」とは逆に、我々読者は彼女の「盲目」になっている点――すなわち彼女が何故これほど「女性こそが文化の担い手として相応しい」と再三主張しなければならなかったかを、冷静に考えてみても良いだろう。それは結局、皮肉なことに男性学歴エリートがやはり正真正銘の文化貴族になっているという現実の中(片岡氏は大学教授なので、大学〈界〉を意味する)にいるからこそ、彼らの威信を「大衆化」された社会集団を仮設することで横滑り的に「無化」し、逆に威信が弱い女性としての立場を正当化するというものである。まさに「女の子を虐めた賢い男の子を批判するために、その虐められた女の子がいかに男の子より優れているかを強調する」タイプの情動性である。あるいは、女性の文化相続に価値の比重を移転させることで、女性読者たちに対して「文化資本を高める」ようなインセンティブの向上を期待しているとも考えられる。
 このような短絡的なスコラ的性向に基づいた単線的な結論付けは、どれ程統計資料を駆使してもやはり最初から準備されているであろう歪んだ自説の補強をしているに過ぎない。つまり本論は統計調査の客観的科学性に比して著者の結論が一次元的であると同時に説得的ではなく、あくまでもある時点における、特定の社会集団を仮設した上での「幻想」(ブルデューはこれを「凡庸なホモ・アカデミクス」、あるいは「スコラ的幻想」などと『パスカル的省察』で批判する)であることが浮かび上がるのである。
 片岡氏は結局、以下のように文化資本をジェンダー化して把捉している。その結果、「文化資本」の内実が何一つ説明されないまま、いわば全ての文化の担い手、享受者は徹頭徹尾「女性」のみとなる。

このように日本では、文化資本はジェンダー化し、女らしさの象徴資本となっている。また男性にとっては、芸術に関わることは女らしいことだと理解される危険性があるので、それを避けるために大衆文化的となる。(p128)


 とはいえ、片岡氏が締めくくりで述べる以下の「ジェンダー秩序の再生産」という視座には、やはり一定の参照価値があると考えられる。

このように文化的実践がジェンダー化する背景には、文化を評価するハビトゥス(近く認識図式)がジェンダー化して理解されている事実がある。ジェンダー・ハビトゥスや女らしさの文化的理解は、我々の実践や行為を規定している。それとともに、文化資本がジェンダー化してジェンダー資本となり、女性を通じた文化的再生産メカニズムを作り出している。このように文化活動の実践レベルでのジェンダー・バイアスは、ハビトゥス・レベルでのジェンダー化に支えられているだけでなく、構造レベルでは、「階層再生産と文化的再生産のジェンダー構造」として分業化されることで維持されている。より広い観点に立てば、文化という領域を通じて、ジェンダー秩序が維持され、構築され、再生産されている。(p128~129)


 ブルデュー社会学を基礎にして、ハビトゥスの概念に「ジェンダー・ハビトゥス」という視点を導入している点はやはり依然重要である。問題なのは「女性の文化再生産の役割」と、「男性の大衆文化への親和性」を強調し過ぎるあまり、ラディカル・フェミニズムに近いヒステリックな側面が否応なく感じられてしまう点ではないだろうか。ブルデューのように、自身の立場をも批判的に客観化する所作――いわゆる「客観化のメカニズムを再客観化する思考」――は、本論には皆無である。