あくる日の午前中。
菜月(なつき)の自室のドアがノックされた。
「はーい。」
返事をしながらドアを開けた次の瞬間、菜月は表情を曇らせた。
「いやさすがにないわ、いきなり嫌な顔とかすんなって。」
目の前には、首を傾げながら不満をもらす昂希(こうき)がいた。
スーツ姿であることから、休憩中に彼女を訪ねてきたのだろう。
「……何か用?」
警戒心を纏ったまま、菜月は彼に言葉を返した。
「今日休みだろ? だからいつもより、落ち着いて話ができそうだと思ったんだよ。」
「……なんで知ってるのよ。」
「お嬢。」
昂希の一言で、菜月は全てを察した。
「あー………。」
菜月は俯き加減で、力なくうなだれた。
「と、言うわけで、上がるわ。」
昂希は素知らぬ様子でそう言うと、慣れた足取りで部屋に上がり菜月のベッドに腰掛けた。
菜月は無言でドアを閉め、近くの化粧台の椅子に座った。
「隣に来ればいいのに。」
昂希は何食わぬ顔で、菜月に言葉をかけた。
「行くわけないでしょ。」
菜月の態度は依然、頑ななままだった。
「……はいはい。まーったく薄情な嫁さんだねえ。」
多少の嫌味を込めた昂希の言葉に、菜月は彼を睨んだ。
初対面で押し倒された記憶は、菜月の心の内に深く刻み込まれていた。
二人きりの空間で、しばし宙を見つめていた菜月がふいに口を開いた。
「……ねえ、私分からない。」
昂希は菜月のほうを見て、表情を変えることもなく答えた。
「何が。」
「あなたが。」
「まあ、そりゃあ会ったばかりだしな。」
「そうじゃない。 私を憎まないで、お嬢様のことも憎まないで、命令に従えるのって何で? 辛くないの?」
菜月の言葉に、昂希はしばし考え込むように沈黙してから言った。
「……お嬢の屋敷には昔から世話になってたからな。 孤児だった俺を拾ってくれたのは院上寺家なんだよ。」
「……え?」
菜月は思わず、昂希の顔を見た。
昂希の目の奥に、初めて会った日に見た悲しみが甦っていた。
「(私と、同じ境遇……。)」
昂希は菜月を見ずに、静かに言葉を続けた。
「親戚中をたらい回しにされた挙句、施設にぶち込まれるかってときに、院上寺家の奥様が、俺を慈悲深く迎え入れてくれたんだ。」
「………。」
菜月は、かすかに感傷的になっている昂希の横顔を見つめた。
その視線に気づいた昂希ははっとし、すぐにいつもの調子に戻った。
「まあそれに、俺は事勿れ主義なんだよ。 面倒事は嫌い。 お嬢の意向に従った方が楽だからなあ。」
「反旗を翻すよりも?」
「そ!」
「いや、勝手に結婚相手を決められているのに、なんでそんなに簡単に受け入れられるの……?」
昂希の様子に困惑し、菜月は考えこんだ。
「……勝手に結婚相手を決められたのは、お嬢も一緒だからなあ。」
何気ない様子で続けられた昂希の言葉に、菜月はどきりとした。
「もっと言えばお前も、お前の愛する若旦那も。 全員勝手に決められてるじゃん。」
「いや! そうだけど!」
「そうだけど?」
「……それを、どうしてそんなにすんなりと受け入れられるのかが分からないのよ……。」
「……お前、ちょっと傲慢だな。」
その言葉に、菜月は目を見開いて昂希を見た。
対する昂希は、まっすぐに彼女を見つめて言葉を続けた。
「使用人の分際で、屋敷の御曹司と結ばれたいなんて、その夢がなかなかだよな。 身の丈に合ったものを望んだ方が楽じゃないか?」
菜月は昂希の言葉に、一瞬ひるんだ。
この人の言っていることは、一見正しいように思える。
でも、そうじゃない。
「(……私は、私は違う。)」
ぎゅっと目を閉じて、深呼吸して一息ついてから菜月は口を開いた。
「昂希、あなたの考えは分かった。 使用人の鑑ね。 でも、でも私はそんなの無理よ。」
菜月は真剣な眼差しを昂希に向けた。
昂希もかすかに戸惑いながらも、まっすぐに菜月を見つめ返した。
「私は運命に抗いたい。 たとえそれが身分不相応でも。 愛する人を愛していたい。 だってそれは、誰にも縛られるはずのない感情だから。」
菜月の言葉に、昂希は驚きと苛立ちを覚えながら立ち上がり彼女に詰め寄った。
彼がずっと身にまとっていた、今までの平静さは崩れていた。
「……ああ、そうかよ。 お前が誰を好きだろうと構わない。 だけど最低限、俺の妻でいろ。 それだけは絶対守ってもらわなきゃ許さないからな。」
静かなる怒り。
その様子に、菜月は怯えた。
昂希の忠義、意思。
それゆえの怒りがあらわになっていた。
菜月は両手を握りしめた。
逃れられないのは、お互い様であった。
彼女は震えながら、言葉を絞り出す。
「……最低限、なら。」
昂希は冷たい目で菜月を見下ろして言った。
「これは契約だ。 契約は絶対守れ。」
そう言い放ち、昂希は部屋から出ていった。
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一人になった菜月は、しばらく動揺と怒りと、悲しみとにさいなまれすっかり疲弊していた。
そして静かに、涙を流した。
身分不相応なことは禁ずる。
そんな昂希の、刷り込まれた価値観。
どうしたって納得などいかない。
分かり合えもしない。
それなのにこの先昂希とは、夫婦でいなくてはならない。
そして何より、和雄とは一生結ばれないという残酷な現実。
何よりこれが針のむしろのごとく、菜月を苦しめた。
これでもか、これでもかと、打ちのめされ続けたが、神はまだ足りぬと仰せになるのか。
「……花梨那さま。」
不意に口から出た、若旦那夫人の名。
菜月は椅子から立ち上がり、食い入るように頭上を見つめてある決意をした。
To be continued
~追伸~
TATSUさん、メッセージありがとうございます
葬儀、お疲れ様でした。
お悔やみを申し上げます。
家にテレビがないためパリオリンピックは見ていませんが、 話を聞くとなんだか色々と大変そうですね。
選手たちには悔いなく頑張ってほしいです。
皆様
ここまで読んでくださり、ありがとうございます
一途な登場人物ばかり書く自分ですが、
決していい人物はいませんよね(笑)
根っからのいい人を描くのは苦手かもしれません
次回もお楽しみに
浅田瑠璃佳