新年度が始まって早々、

主人が入院、手術とあわただしい毎日となってしまいました。


幸い、思ったよりも早く退院できて、

今日は、久々の家族そろっての日曜日になりました。


震災以降、様々な困難を乗り越えてきましたが、

病気となると、何か違います。

普段の家族の健康管理はどうだったか・・・

いつもと違う様子はなかったか・・・


一番辛いのは、本人なのに、

こちらまでひどく落ち込んでしまいました。


いつも頼りにしている人たちも、

みんな被災していて、

何でも話せるかというと、

やはり、余計な心配はかけまいと考えてしまいます。


結局、一人でがんばってしまいました。


それでも、子どもに負担をかけないようにするだけでなく、

自分も、無理をしないように気をつけました。


あえていつも通りに過ごすこと・・・


そうすることでずいぶん楽になりました。

自分なりのストレス軽減です。




震災以降、心のケアが大切だといわれています。

自分自身も、今回の事で、

気持ちを支えてもらえることが、

どれだけ必要か感じました。


不安なことが起こると、

震災以降は、どうしても失うことの恐怖が大きいのです。

些細なことでさえ、

もしかして・・・と、

警戒してしまいます。


お年寄りや、子どもだけでなく、

働き盛りの世代も、

働きすぎやストレスで、

いっぱいいっぱいになっています。


もちろん家族が支えあうのですが、

その家族が、ばらばらに生活している事も、

忘れないで欲しい現実です。


いろいろ勉強させられました・・・

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メモを見ると、
3月末の日付の頃から、
自衛隊の炊き出しが始まっています。
初めは、2日くらい駐留して、
また他へ移動というぐあいでしたが、
だんだん常駐してもらえるようになりました。

他県からの支援員の方は、被災者の為の炊き出しだから…と、
最初の頃は食べなかったような記憶があります。
私も並んだ記憶があまりありませんが、
とにかくボリュームが半端なく、メガ盛りの自衛隊飯。
多分子どもと半分こしていたのかもしれません。


メニューは、男手料理の割りには繊細で、
豚汁にゼンマイが入っていたときは、
忘れかけた季節の味を思いがけずに味わうことができ、
大変感動したのを覚えています。
思わず、ゼンマイが入ってましたよね!って、
自衛隊さんに声をかけたのを
覚えています。

自衛隊が常駐するようになって、
暖かいご飯が食べられるようになり、
一日の中で一回でも箸を使って食事をすることは、とても気持ちが前向きになりました。

どん底から、
こうして少しづつ良くなるんだなって思えました。

自衛隊さんは、暖かい食事を作っても、
自分達は非常食のような食事をしていました。
たぶん後で知ったのだと思います。
そういう楽屋裏は、
決して我々には見せません。

様々な炊き出しにお世話になりましたが、自衛隊さんが特別に思えたのは、
彼らは、任務だからと言うかもしれませんが、
任務という義務的な言葉に似合わす、
とても親切で
とても親身で、
家族的な感覚を覚えたからかもしれません。

任務という事を突き詰めると、
そういう姿勢に行きつくのだとしたら、
真面目に一生懸命は、
実に素敵なことです。


笑顔やお愛想が特別にあるわけでもないのに、
黙々と作業する姿は、
子ども達を惹き付け、
いつも誰かが、テントの回りに集まっていました。

そんな様子が、微笑ましいひとこまとして、
とても鮮明に思い起こされます。

感謝の気持ちは今も変わりません。
本当にお世話になりました。

考え事をしてしまい、筆が止まってしまった・・・


震災から3年目に入ってからも、

出来るだけ、普通に、過ごしてきた。

日々を大切にしながら・・・


でも、今の自分の環境が、

やっぱり普通ではないと、気持ちが引き戻される・・・


仮設住宅に入ればよかった・・・

だって、仮設は津波の浸水区域外に作られている。

みなし仮設は、そうではない。

今住んでいるところも、浸水している。

被災した家から引っ越したとは言え、

浸水地区のど真ん中にいるのだ。



わかりきっていたことなのに・・・



急に不安になったのは、

最近国土交通省が設置した「津波情報板」


何気に外出して帰ってくる道で、

必ず、この情報板に出くわす。



そうか!外出していて、津波警報が出たら、

家に帰れないんだ。

仙台からの帰り道、

高速道路の手前にもある。

やっぱり、車にも、非常持ち出し袋積まなきゃないか?

ほんのっちょっとだからって、

子どもを留守番させていたら・・・

避難場所は知っているけれど、

持ち物は、ちゃんと確認していなかった・・・

出かけるときは、

「鍵かけて、知らない人が来ても出ないこと。

あと津波警報のときは、これ持って逃げなさいね」

って声かけないと!

というより、やっぱり留守番はまださせられない。



過剰な反応かもしれないが、

一瞬で、不安が満タンになってしまった。



最近ようやく川の近くの商店街にも、

足を運べるようになったが、

津波到達点の印とか、

津波襲来の地という石碑とか、

避難を指示する看板とかにばかり、

目がいってしまう。



「津波」という言葉や文字が、

いたるところにあるのだ。

仕方のないことなのだが・・・



震災遺稿に反対するのは、こういう気持ちからなのだろう。

50年、100年後には、

その脅威を知らせる意味を発揮するのだろうが、

体験したものにとっては、

この苦難から抜け出そうとすればするほど、

過去に引き戻そうと、

気持ちに絡まりつくものなのかもしれない。




町の此処かしこに「津波」の文字が溢れる町。


そこでこれからも、普通に暮らすのです。



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