音羽幼女殺害事件―山田みつ子の「心の闇」 | マリアの憂鬱

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音羽幼女殺害事件―山田みつ子の「心の闇」/佐木 隆三

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当時、事件現場の近くに住んでいた。
たぶんあれは警察が公開捜査に踏み切った日だったのだろう。深夜の帰り道、警察署前に連なる中継車やハイヤーの列、あたりを包む異様な緊張感は今でも覚えている。
それだけじゃない、この犯人、やることも言うことも、今、身近にいるアレと同じなんです。((((;゚Д゚))))

当時は"お受験殺人"だの"母親同士の軋轢"だの騒がれた記憶があるが、それは見当違いだと思う。
確かにこの地域は教育熱心な人が多い。その中には、カフェやファミレスどころか大学の敷地内でさえも我が物顔で、大きな声で、ツッコミどころ満載の育児論に盛り上がるマナーの悪い母親たちもいた。そんな母親たちに囲まれていればさぞかし辛かろう。被害者の母親がそうではなかったと証明するのは難しいし、分かりやすい図式に飛びつきやすい世間の習性も分かる。

しかし、加害者の行動や発言を知った今、
この事件は加害者の未熟な人格が引き起こしたものであり、
むしろ被害者の母親は加害者に温かく接していた方ではないか、
たとえ被害者の母親が聖母のような人だったとしても、この事件は起こったのではないか、
と思わずにいられない。

加害者に似ている人たちを幾人か見てきた。当事者だったこともあるし、傍観者だったこともある。彼らの共通項は、
「自分は絶対悪くない。」
の命題のもとに生きていること。
思い通りに行かないのは、誰かのせい、環境のせい、自分は不運なだけ、もっと認められて良いはず。そんな不満を抱えたまま、自省も成長もなく、未熟なまま生きていく。嘆かわしいことに、こういった人は少なくない。

彼らは、他人を使役の対象か八つ当たりの対象かのどちらかにする。give and take、なんて美しい関係は、彼らの前に存在しない。使役の対象には表面上は媚び諂う姿を見せるが、浅はかな底では、常に過剰な見返りを期待している。また、八つ当たりの対象には生き辛さのすべてを「あの人さえいなければ」と身勝手に転嫁し、不当に攻撃する。
どちらか一方の対象になっただけでも身がすり減る思いだが、恐ろしいことに、彼らはこの使役と八つ当たりを同じ相手にやってのけることもある。身をすり寄せてきたと思えば、苛立ちをぶつけ、その舌の根も乾かぬうちに尻尾を振ってくる醜さは表現しようがない。

たいていの大人は彼らをひっそりと、もしくは露骨に避ける。しかし、できた人ほど未熟な人間を受け入れてしまう。たとえ人格が未熟であっても成長過程にあるのなら、受容は成長につながり、報われることもあるだろう。が、なんせ彼らはいつまでも待っても成長しない。受容はさらなる受容を呼び、いつかは限界が来る。
最初は笑って応じていた見返りもその重さに耐えきれなくなるし、聞かぬフリができていたはずの攻撃も、あまりの理不尽さに凌ぎきれなくなる。
堪えきれなくなった時に彼らの心はこう叫ぶ、
「信じてたのに、裏切り者。傷ついたのはこっちの方だ。」と。

八つ当たりしつつ、「信じてた」とはおかしく聞こえるが、彼らの「信じる」は「自分本位な要求が当然のごとくかなうことを信じて疑わないこと」と考えれば分かりやすい。八つ当たりの対象が傷つき、落ち込んでフラフラになって、妬ましい環境から墜落していく様を期待しているのだ。そしてなぜか、八つ当たりの対象に成り代われると妄信している。

彼らのターゲットは必ず優しい(または優しそうに見える)人。被害者の母親もそうだったのではないか。美点であるはずの優しさが不幸を呼び寄せるとはやりきれない話だが、"未熟な人格を持った人間”の”一方的な期待”や”一方的な妬み"から身を守るスキルも必要なのかもしれない。