人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
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憧れの夕張の地に初めて足を踏み入れたのは、90年代後半の頃だったように思う。札幌大通から夕鉄バス急行便に乗り込み、行った。当時、美鉄バスは既に撤退していた。今なら異色際立つ美鉄バスに乗ったかもしれないが、仮にその時分に美鉄バスが撤退していなくとも、あの頃の自分は「夕張なのだから夕鉄バスに乗るべきだ」と考えたであろう。美鉄=美唄鉄道であるわけだから。

往時の繁栄とは程遠い夕張だったが、石炭の歴史村を筆頭に中田鉄治が築き上げた時限爆弾付レジャー帝国は健在、映画のセットになる程度の街並みを維持していた。本町にあるホテルシューパロにて西洋料理のランチを愉しんだように記憶している。今よりは随分マシだったわけだ。札幌への帰りはJRを使った。夕張駅から新夕張、スーパーとかちに乗り換えて札幌。

バリバリに張り切り過ぎた夕張は、ガスが溜まり過ぎて張りに張り、遂に破裂して永遠の思い出の三丁目の彼方へと消えていった。そうして過去ばかりでなく現在からも隔離され孤立化を深めてゆく。嘗てあれほどのルート、バスの便に恵まれていたと云うのに、今や外界から夕張へのアプローチはJRしかなくなってしまったのである。そのJRも新夕張まで。そこから細々と運行される夕鉄バスの市内線に揺られて漸く各所へ到達する。新夕張から見て、市役所のある本町はどん詰まり的立地条件。内陸部にありながらまるで半島の突端にでも位置しているかのようだ。夕張に行く意思が無ければ、夕張に辿り着くことは出来ない。

本年9月いっぱいで中央バスの高速ゆうばり号が廃止される。世の中には京浜・京阪・阪神等、機軸となる2都市間関係性と云うものがある。北海道では札樽がその嚆矢であった。福北こと福岡-北九州間に於いては主に「なかたに」「ひきの」「いとうづ」と3系統の潤沢な高速バス便があるが、札樽間のバスも円山経由と北大経由があり、本数が多い。だが嘗ては「札夕」もまた重要な軸であった。札幌から見て小樽は西方にある。これに対して東方の軸に当たるのが夕張だった。

札夕を巡っては昨年に夕鉄バスが撤退したが「まだ中央バスがあるから何とか…」と云う微妙な安心感も今回のこれで吹き飛んでしまった。手元にある1995年の時刻表によれば札夕のバス便は中央バスが3本、夕鉄バス急行便が10本、夕鉄バス普通便が4本ある。これに加えて美鉄バスの3本もある。夕鉄バス急行便の内の1本、夕鉄バス普通便を除いて札幌都心部発着だ。当時夕張の人口は2万を割り込んでいたが、それでもこの陣容を誇っていたものである。夕張には北から、本町・清水沢・南部などの地区があるが、札夕間輸送については本町は中央バス・夕鉄バス、清水沢は夕鉄バス・美鉄バス、南部については美鉄バスが担い、石炭の歴史村は本町の北にあって中央バスが受け持っていた。これが30年経って全て無となってしまうのだからまさに無の情である。

「愛の鐘」の音を初めて耳にしたのは恐らく1987年の旭川に於いてである。しかしその音色は、町田のそれと同じような鐘の音のような代物ではなかった。エレクトーン演奏の如きバリッバリの電子音で襲いかかってきたのである。自分の中での旭川の印象と云えば、それが一番の強烈さを伴って脳内を支配する。旭川って都会的だなと云う印象が非常にあった。

当時は中心部も賑わっていて西武・丸井今井・マルカツ・エスタ等、百貨店・ファッションビルの類が林立し、西武はA館・B館の2館体制だったが、それぞれの建物にレストラン街があり、町田の百貨店(小田急・東急・大丸プラザビーミー)のそれと比較しても引けを取らない充実ぶりだった。ホテルに至っては雲泥の差である。町田は東京近郊のベッドタウンだから碌なホテルがない。平成になってからエルシィが出来て、図書館併設の建物で話題となったが、ホテル自体は小さかった。一方の旭川には、グランドホテルこそまだ存在しなかったものの、ニュー北海ホテルが君臨し、パレスホテルが出来て、ターミナルホテルもある。東急インも当時あった。ニュー北海ホテルやターミナルホテルのレストランによく会食に連れていってもらったものだ。町田は駅周辺は栄えているが、繁華街の範囲は狭い。それに引き替え、旭川の街は大きかった。旭川の都市としての格・中心部の格の違いに眩暈がした。旭川がそんなだったから、札幌などそれこそ異次元の世界だった。

今でも旭川は大きな町だ。スーパーのチラシなど覗き見ると、それがよく分かる。例えば旭川市内各店に交じって、名寄店・士別店・深川店等の表記が見える。名寄にも士別にも深川にも町は一つしかない。しかし旭川には中心部の他に、永山だったり豊岡だったり春光だったりと色んな町がある。が、中心部については甚だ物足りない。やはり閑散としている印象は免れない。それでもそこまで寂れきってはおらず、新たな建物はどんどん出来ている。日本最北のタワマンが目下建設中だ。日常的に渋谷や池袋に出入りした後の今となっては、札幌中心部のサイズ感・密度のさまがちょうど良い感じになってしまったものである。たとえ昭和末・平成初期の賑わいが今の旭川中心部にあったとしても、物足りなく感じるのかもしれない。私の変化に比べれば、街は今も変わらない。
無邪気だったあの頃。
僕らはきっとあの鐘の音を聞いていたんだ。
でもその時はそれが何の意味か分からずに。
だけどそれは愛の鐘の音だったんだね。

・・・ちょっと浜崎あゆみ風味のリリックを書き連ねてみたのだが、、、
愛の鐘の音と云うものは本当にある…実在するものなのである。

この「愛の鐘」と云う曲は昭和25年に毎日新聞の公募に応じる形で世に出たと云うことらしい。21世紀の町田で「時報」として定着したメロディーだ。もう10年ほど前になるが町田市成瀬でこの曲が愛ある結末をアシストしたことがあった。

相模原で女児を拉致した男が成瀬の家にて監禁する事件が起きたのだ。女児はその後、連れ出され先の茅ヶ崎で保護された。女児監禁場所が成瀬だと何故分かったか、結局はそれで犯人も逮捕されたのだが…それは女児の記憶に「愛の鐘」の音がしっかりと刻み込まれていたからだ。加えて犯人が当時成瀬に店を構えていたローカルな宅配ピザチェーン「ツーウェイピザ」から出前を取ったことも原因となった。大手ではない知らないピザ屋と云うことが女児の記憶に残っていたらしい。まさにローカルネタ尽くしの事件だったわけだが、それにしても防災無線から防犯目的も兼ねて流れるメロディーが事件解決に役立つとは、、、まさかの展開であった。

「愛の鐘」、自分自身にとってもお気に入りの曲である。先述の通り、町田では20世紀末か21世紀になって導入され、それ以前は別の曲が流されていた。流される時刻も、今は季節によって異なってくるが昔は夏も冬も夕方5時であり、通称「5時の鐘」と呼ばれていた。「5時の鐘」が外出先から戻る基準となっていた。

町田の多くの人にとって「愛の鐘」は初めて聞く曲だったのだろうが、私にとってはお馴染みの曲であり、町田で導入されたことにとても驚き、また嬉しく思ったものである。初めて「愛の鐘」に触れたのは旭川、恐らく1987年のことだ。
「ふくしま事件ちゃんねる」と云う今は福島以外の事件も取り扱っている中々マニアックなところがあるのだが、東北新幹線のトンネル内で帰省途上の10歳少女の遺体が発見されたとの中々謎めいた事件が紹介されていた。

走行中の車内から飛び降りてしまったのかと思いきや、原因は動画内でも触れられているように、子供たちは先に東北新幹線古川駅ホームに降り立ったのだが、帰省と云うことで大きな荷物を抱えていた母親がこれをうまく処置することが出来ずに中々ホームに現れない…そこで不安になった兄が車内の様子を見に戻ったところ列車が発車してしまい、妹がホームに取り残されてしまった…こう云う状況に陥ってしまったものである。そして妹は何と列車を追いかける形で線路脇を歩いてしまい…と云う経緯でこの惨事が起きてしまったわけである。

問題はこの動画のコメント欄にある。母親の兄が「新幹線のドアがもっと長く開いていれば母親も降りられたのに」と云うことを述べているわけだが、それに対する批判で渦巻いているような状況になっている。要するに自業自得だろう、他人のせいにするなと云うことである。【A】

母親がもっと早くに荷物を下ろすことをしていれば良かっただけであって、それを責任転嫁して新幹線の停車時間の短さを槍玉に挙げるなと、マァこう云うことになるわけである。こんな予想外の悲劇に見舞われて、泣き言恨み言の一つ二つ言いたくもなるよねと私は大いに同情を寄せるものであるが。

この、相手に完璧を求める姿勢こそ、日本社会を大いに疲弊させている要因となっているのは周知の通りである。少しの失敗も許されず、泣き言・恨み言の一つも言えば叩かれることになるわけで、そりゃあ出生率も下がるよね、親になることが負担にしか感じられないよねと云うことになるわけでもある。バスの運転手が水を飲んでいれば通報、消防署員がコンビニに立ち寄っていたら通報…母親や母親兄の行動言動を批判する人は如何にもそう云うことをしそうな趣である。「いや、私はそんなことはしない。どんどん水分補給してください」と反論・反発してきたところで別の場面、例えば車椅子ユーザーから上がる不平不満に対しては全力で叩き潰すであろうこと請け合いである。こうして何としてでも不平不満を抑えつけて保身、現状維持を図ろうとする…その結果が「失われた30年」であるわけだ。まさに彼らが大好きな「自業自得」「因果応報」そのものである。


【B】閑話休題。なぜこうも簡単に、単純に、母親の「失態」を責めることが出来るのだろう。まことに想像力の欠如と云うものを痛感するところである。例えばこう云った状況が考えられ得る。親子が乗車していたのは指定席車だったようだが、帰省シーズンと云うことであるから通路に立ち客が居たとしても不思議ではない。そうなると荷物を下ろすのは中々難しくもなろう。或いは通路の反対側にいた客が大きな荷物を先だって下ろし始めがために到着直前まで荷物が下ろせなかったのかもしれない。或いは子供に構っている内に存外早く古川駅に到着してしまったのかもしれない。また或いは疲労によりついつい到着直前までウトウト寝てしまっていたのかもしれない。状況も分からない中、決して単純に、母親がもっと早くに荷物への対処をしていれば良かったのだなどと切り捨てることなど出来ないのである。

「もっと停車時間が長かったなら」との言もまた的外れとは云えないものがある。【C】例えば中国の高速鉄道は大きな駅ではなくとも3分程度の停車時間を設けている。また、日本の特急に相当する在来線の直達特快列車は7-8分程度停車する。日本の在来線は基本的に最高時速130kmだが、中国の場合は160kmに達する。それでも7-8分停車する。軒並み30-45秒停車の日本の事情とは大きく異なるわけだが、【D】日本とて嘗てはもっと長時間にわたって停車していた。本件は大宮発盛岡行き列車にて発生した。東京駅はおろか上野にすら東北新幹線が達していない開業直後の出来事だったわけだ。したがって母親の中には、より緩やかに走行していた在来線特急・急行列車の感覚が濃厚に残っていた可能性もある…結果、本人の中ではあっという間に目的地に着いてしまった、あっという間に発車してしまったと云うことになったのかもしれない。

ところで本件は未解決事件ではない。未解決事件ではないのだが、ここまで述べてきた説明は、未解決事件の真相に達し得る推理をする上で重要な事柄を含んでおり、その点をうまいこと、説明しているのである。未解決事件を巡る推理には「〇〇なら△△に違いない、××であることなど有り得ない」と云った、理屈立てる場面がよく見られる。本件では【A】に相当する部分だ。しかし事件の当事者(犯人や被害者)はしばしば私たち外野の人間から見て不可解な行動に走る。けれども何らかの事情を抱えていた当事者からすれば、それは不可解でも何でもない合理的な行動なのである。本件では【B】に相当する部分となる。この部分は真相に達する上で非常に重要なところなのだが、【B】にて披露したような具体的な場面を想起する必要性がある。【A】は「マクロ的」であり、「理屈」であるのに対し、【B】は「ミクロ的」であり、より「感情」的なのだと云うことになる。当事者の立場になって「理屈」と「感情」を融合させることが真相に迫る中では重要である。

例えば私たちは泣く・涙を流すと云う現象に遭遇することがある。悲しい時に泣く。悔しい時に泣く。泣くと云うのはネガティヴな要素に彩られた行為・現象である。したがって例えば「被害者はその時泣いていたのだから悔しかったのだ。喜んでいたのなら涙は流さないはずだ」などと推理するわけである。だが…お気づきのように涙には別の要素が含まれることがある。即ち、「嬉し涙」と云う代物である。私たちはポジティヴな場面でも泣くことがあるわけである。しかし【A】にばかり捉われていると【B】は中々見えてこない。母親が荷物の処置に手間取った背景を推理したように、ここで想像力を如何に働かせられるかが重要となる。


あの「室蘭女子高生失踪事件」で被害者は、14時過ぎにパン屋の本店を訪れることになっていた。被害者はその時間に間に合うようにバスに乗り込んだ。ところがパン屋最寄りのバス停を素通りし、もはや待ち合わせ時間を過ぎていると思われるのに、パン屋から些か距離のある商業施設の中に於いて時間潰しをしているが如き行動に出た。そしてあたかも15時に間に合わせるかのような恰好で商業施設を出た。そこで【A】的に理屈立てて考えてみるならば、本当は待ち合わせ時間が14時なのではなく15時だったのではなかろうかと云うことになってくるわけである。実は最初から14時ではなく15時だったのか、或いは途中で14時から15時に変更されたと云った具合に。

しかし大事なのは【B】的な発想・想像力だ。そこで私は普段、通学の際に被害者がこのバスを始発から終点まで乗り通していることに着目した。終点まで乗っていると云うことは寝過ごす心配がないと云うことだ。したがって被害者は普段、バスの中で居眠りしているであろうことを考えた。しかしこの日は普段と勝手が違った。途中のバス停で降車しなければならない。だがいつものクセがついつい出てしまい、終点近くまで居眠りしてしまったのだろうと想像したわけである。この被害者は几帳面な性格だったと云うことだから、寝過ごしが発覚した際には「やっちまったー!」との強い念に襲われたことだろう。折角、間に合うように家を出てきたと云うのに。テンションが下がった被害者にはもう一度気持ちを作り直してテンションを上げる時間が必要だった…そこで商業施設内を特に目的もなくうろうろしていたのではあるまいか。眠気覚ましをしたい意図もあったろう。つまり、時刻変更の類はなく最初から最後まで待ち合わせ時間は14時過ぎだったと云うことである。

因みに【C】は他の事例との比較検討、【D】は当時の時代状況・時代背景から見た分析、と云うことになる。真相に迫る上で私たちは、現在の日本の事情・現在の日本人の感覚に捉われないようにしなければならない。如何に当時の当事者に寄り添って骨(=【A】)を肉付けする(【B】+【CD】)ことが出来るかが事件像を明らかにする、即ち真相を究明するために不可欠となるわけである。