岩手の海Ⅱ



岩手の海3 釜石へ


海岸線を歩くと人と出会うことがほんとうに少ない。
もう誰もいないのではないかという時間が長く続く。
大船渡から釜石に向かう途中の沿岸はとくに人がいない。

大船渡市三陸町吉浜の南沿岸から撮撮
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沿岸の被災者はいまは内陸の仮設住宅に移っていることもある。

大船渡市三陸町吉浜の北沿岸から撮撮
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写っている住宅を詳しく調べたわけではないが、
遠目の外見が無事に見えても、住める状況にないことが多い。
一階の壁が抜けても、とりあえず二階に寝泊りでき夜露を凌げるが、
住居の破損の修復、上下水道、電気、地盤沈下などのインフラ復旧が
終わらないと、ここで生活し続けることはできない。
周辺の店などの営業も必要になる、

釜石市唐丹町南沿岸から撮影
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釜石市唐丹町、唐丹湾
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釜石市唐丹町北沿岸から撮影
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釜石市平田
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写真の左上方に、わかりにくいが、
白い観音様の像(釜石大観音という)が、夕空に向かって立っている。

車を停めて、今夜の宿泊先を、カーナビから候補を探し出す
最初の候補は、釜石ベイシティホテル、 
名前からして、沿岸にあり、被災して、廃業かもしない、

これまで沿岸のホテル旅館が廃業しているの幾多目にしている
やってないかもしれないが、携帯で電話を入れると、
営業している、宿泊可能だという返事で、即決。

被災地の宿泊予約は、週末が意外に空いている。
平日は復興関係の仕事で満室が多い
これまで何度かの経験もあり、ホテル関係者にも問い合わせたら、
週末に空室あり! はその通りという返事もあった。
この日は金曜日、週末だ。

夜も更け、ホテルの前にスナックがあるのに気付き出かけてみた。

狭い店内だが賑わっていた。
カウンターでママさんに、旅をしている事情を話すと、
うってつけの人が店にいる、と紹介された。

釜石の沿岸漁業者で釣り人を乗船させる観光船を持っているという、
70歳くらいの方だった。
3艘所有していたが、2艘は大破廃船。
1艘は、なんと内陸の建物の上に乗っかって大した破損もせず、
いまも現役で観光船として釣り人を乗せているという。

陸から海を見てもどうしても見えないものがある、
沖に出て、陸を見ると、ナイアガラの滝の如しだ、
すなわち、リアス式の断崖が大規模に崩落した様子を譬えである。
そりゃーすごい光景なんだろうね、

明日船に乗せてもらい見てみたい気がしたが、
船酔いと先を急ぎたいという気が優先してしまった。
そのあとで、見ておけばよかったという気が起こると、後悔した。

そんなに崩れた崖下で当分ダメかと思ったアワビが採れたんだ、
自然は復活するんだね、と嬉しそう語った。

釜石は、国際都市だという。
製鉄のことなのだが、八幡製鉄より早い。
先の大戦で日本の戦争を支えた製鉄所は、終戦間際、米軍艦の艦砲射撃を受け、
製鉄所ばかりか街も炎上したという、

戦後は隆盛を取り戻し、『鉄は国家なり』という時代を支えた。
釜石の外から日本人ばかりか外国人もたくさん来た。
国際都市のゆえんだ。

そして
いまは主力が、線鉄、棒鉄生産、
火力発電事業(岩手県の4割くらいを担えるらしい)で、
人は少なくなった。(人口1960年代8万人→現在4万人弱)

これは、
この震災で、小中学生の死者がまったくでなかった、
釜石の奇跡といわれる、この背景を尋ねた返事だった。

すなわち
三陸のほかの沿岸の地域は、人の移動は少なく、
家族の中、とくに親が子に津波のの怖さとその時どうするかを
教えているだろうが
国際都市釜石の親子は、外から来て津波の経験もない親もおおく、
子に津波のことが教えらていない、

そこで
昔からの釜石在の住人は、津波の怖さ、どうしたらいいかを、
学校で徹底的に教えるように、要請した、ということ
を言いたかったのだと思う。

昔からの釜石は、野田村だという。
そういえば、釜石市長は野田○○といい、
野田村出身なのか、
昔インドで瞑想したりした人と聞いたことがあるが、
真偽はわからない。

これから北に行くというと
それじゃ、行く先に
うのすまい(鵜住居)という地があり、辛いことがおきた、という

その地の人が、津波が来た時、防災センターに避難したのだが、
津波の高さが、その防災センターを超えてしまい、全員が犠牲になった、
可哀相なことになった、と嘆いた。

この方の観光魚業を担う跡継ぎは、いない、、
お子さんは埼玉にいるが戻らないという
この震災を機に魚業からの撤退する方も多いという、

少子化、過疎化、高齢化、・・・・・
沈下した地盤、港、道路、住居移転、すべてのインフラを整備しても
活用し活躍する地元の人がどれほどいるのか、
ハコモノだけで、仏、魂が入らないことにならないか、
と気を揉んでいるようだった。

朝、ホテルからの光景
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山が迫っているが、ホテルは海辺から500mほどの位置にある。

このホテル、津波は1階天井まで襲われ、2ヶ月休業し、
5月に仮営業、7月本営業したという。
復興関係者で満室状態が続いている、という。
ここも週末なら宿泊可能性が高いという。

海は見えないが、海のある東方向を撮る
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前には昨夜話し込んだスナックがある、

隣は私も利用した駐車場。
出入口のチェックはなく、どの車も無料で利用できる。、
無用心ではないか。
改修は必要だが、まだまだ優先順位は上がらないようだ。

街をよくみると、
その前にすることがまだまだたくさんあるように見えてくる。
手が回らないという状況だ。

岩手の海4 鉄の歴史館

釜石というと、昔、強力なラグビーチーム(新日鉄釜石ラグビー部)
があった。
ほかのどのチームの挑戦もすべて退け、
日本の頂点に立ち続け、時代を画した。

それがいつだったか

釜石シーウェイブス(新日鉄釜石ラグビー部の後継チーム)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E7%9F%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%96%E3%82%B9
によると

1978年から1984年・・・・日本選手権前人未到の7連覇を達成。
その圧倒的な強さから「北の鉄人」と呼ばれ、
「炎のジャージ」と呼ばれる赤いジャージを身に纏い、
日本ラグビー史に一時代を築いた・・・・

このころ学園もの青春ドラマTVにはラグビー部が欠かせなかった。
人気スポーツだった。
TVドラマの中では、たくまく格好いい男子 → ラグビー部員 と決まっていた。

それがいつの間にか、この構図が失なわれてしまった。
原因は簡単ではない、
野球サッカーのようにプロ化の道をたどれなかったとか、
海外での活躍が限定されるとか、
筋骨隆々の体型が必ずしも好まれなくなった、とか

大袈裟かもしれないが、
ラグビー部の親会社新日鉄釜石製鉄所の動きと関連していると思える。

新日本製鐵釜石製鐵所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A3%BD%E9%90%B5%E9%87%9C%E7%9F%B3%E8%A3%BD%E9%90%B5%E6%89%80

1950 日本製鉄が富士製鉄(釜石製鉄所が所属)と八幡製鉄に分割、 
1970 2社が合併、新日鉄発足、同社の釜石製鐵所となる。
1980 大形工場休止。
1989 高炉を停止。あわせて転炉・連続鋳造設備なども休止。
2001 新日鉄釜石ラグビー部、社会人リーグを降格、休部。

ラグビー部は、日本経済の高度成長を背景に
釜石製鉄所の展開とともに興隆期となり、
80年代以後の釜石製鉄所の長期的な衰退とともにラグビー部も衰えていったように見える。
「鉄は国家なり」の時代が少しずつシフトを変えていく時代だった。
非鉄金属、レアメタルに重点が移る時代だった。

釜石の町は、ながらく製鉄所に依存してきた、、
依存が語弊があれば、深く係わって存在してきたのだろう。

そんなことがあって、
『釜石市立鉄の歴史館』に寄ってみよう、と思いたち出かけた。


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手前の黒色のモニュメントは、全体で錨(いかり)となっている。巨大タンカークラスのもの。

施設全景がカメラのレンズ枠に入りきらない、

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庭に蒸気機関車がある、

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たくましさはラグビーに通じる、


館内に入ってすぐ広い窓ガラス越しに、
釜石大観音が見え、ベランダに出て、拝した。

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後姿しか見えない観音様だが、釜石湾を出入りする船からは、
観音様が正面から見えるようになっているのだろう、、


鉄の歴史館の展示は、
帰ったあと知ったのだがネット上に
『バーチャル鉄の歴史館』があり、
ほとんど居ながらにして、見る事ができる。
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/va_top_1f.html

しかし足を運ばねば、わからないこともある。

釜石港湾口防波堤の展示解説があった。
バーチャル歴史館には載っていない。

横長の展示掲示物の左側
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釜石湾の海底から堤防を築いている、
港内を津波から守っている、、とか

一番下に
国土交通省東北地方整備局 釜石港湾事務所とある
字が小さく読めないかもしれない、下のHPに同じ内容の記述がある 以下も

展示掲示物の右側
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堤防の深さ63m、釜石大観音が48mなので、
それより15m深い水深から建設されている、、

いったい、この震災津波に、この防波堤は役割を果たしたのか、
すこしも、この展示ではわからない、、

釜石港湾口防波堤
――国土交通省 東北地方整備局 釜石港湾事務所のHP
http://www.pa.thr.mlit.go.jp/kamaishi/port/km04.html

完成は? 平成20年完成、1200億円
整備目的
・・・・来襲津波に対し港内水位を防潮堤天端(T.P+4.0m)より
低い水位に減衰させることで津波を防ぐ仕組みとなっています・・・・

今回の津波でどう役立ったか?、その評価について
このHPはほとんど建設工法などにページがさかれて、
触れていないようにみえる、発見できない

wikipediaで
釜石港湾口防波堤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E7%9F%B3%E6%B8%AF%E6%B9%BE%E5%8F%A3%E9%98%B2%E6%B3%A2%E5%A0%A4
そこに触れている

防波堤自体が津波により被災。
ケーソンの一部が決壊、破損し、
水面にとどまるのは北堤で2割、南堤で半分という状況になった。

・・・・港湾空港技術研究所は浸水を6分遅らせたほか、
沿岸部の津波高を(推定)13mから(実測)7-9mに低減させたという効果を試算している・・・・・

一方で防波堤を破壊した津波は市街地へと押し寄せ、
市街地での浸水など甚大な被害が発生した。
釜石市全体での死者・行方不明者は1,000人以上にのぼる。

他の被災地と比べれば少なくない建物が倒壊を免れ、
街並みの面影が残るなど、
被害を抑えられ一定の効果があったという評価もある一方、
ハード面での防災には限界があることも指摘された。

はて、頭を傾げてしまった。


これは矛盾を内包している

この防波堤が津波に効果があるという説明があり、
多額の予算獲得のため、安全を過度に宣伝しなかったか、、
水深がギネスに世界記録として登録されたらしいのだが、これも宣伝材料になると、
住民の意識には、安全性がはかられているという思いが埋め込まれる。

このことが実際の津波が来た時、防波堤への過信があり、避難の遅れを招き、逆に被災を広げた。
こういった全体として、この防波堤の効果、意味まで探らねばならないのではないか、


湾口防波堤とは
湾の真ん中にダムを築いて、外洋と内湾で区分けしたような構造だ。
ただダムの中央を低くして、外洋と内湾の出入りができ、船舶の航行には支障がない。

津波が来たときはダムの狭い入口から、広い内湾に入ると津波の高さが低くなると説明されている。
今回はダムを乗り越えまたダムをそのものを壊して押し寄せたので、ダムの設計建設時には想定外なのか、


この構造の今ひとつの根本的な問題点は、

釜石湾の注ぐ川からの流れを、陸のダムと似て堰き止めてしまうことにある。


先日のニュース

 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column2/news/20120210-OYT1T00674.htm

〈フォレストヒーローズ〉(森の英雄たち)

・・・・・国連森林フォーラムが2011年の国際森林年を記念してその名の賞を創設した・・・
森林の保全に取り組んだ功績をたたえようというもので、

その第1回受賞者に宮城県気仙沼市のカキ養殖家畠山重篤さんが選ばれた・・・・・・
・・・・もう20年以上も「森は海の恋人」を合言葉に植林運動を続けてきた

豊かな森の養分が川を通じて海へ注ぐ。それがプランクトンを育て、魚や貝の餌になる。

豊かな海は豊かな森があればこそなのだ


湾口防波堤は、この自然のサイクルを堰き止めてしまうのではないか、、

もっと広い視点でみねばならぬのではないか。


岩手の海5 鵜住居へ

「うのすまい」と地名を耳にしたとき
どういう字をかくの?と訊き返した。
「鵜飼の鵜(う)」に「住宅の住」に「居住の居」
それじゃ「住居」だね、、
現地育ちらしい若い人は、あっそうか、
と初めて気付いたような口ぶりだった。

釜石市街から鵜住居に向かって移動し始めると
電車が通りかかった。


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電車? 動いてる!
ずっと沿岸を見てきて
沿岸の線路・レールがないとか、橋の崩落、駅舎が流されているとか、
惨状を目にしてきたので、動いているのが意外な気がした。
この電車は、釜石と遠野や花巻を結んでいるJR釜石線で
津波の被害は少ない内陸を走っている。
それに対して北の沿岸を走っているJR山田線はやはり不通だった。
釜石ー宮古間の鉄道路線の復旧は断念するという報道もる。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111119-OYT1T00467.htm
三陸の鉄道旅は夢になりつつある。

リヤス式の海岸線は
太平洋に突き出て半島となり、
内側に入り込んで入江となり良港となる
この港を結ぶ幹線道路(国道45号線)は、
半島の付け根を通す山道となる。ときにはトンネルとなる。
釜石市街を抜けると、トンネルに入り1キロあまり走ると、
半島の付け根を通リ抜け、次の入江の両石町、両石湾を見て、
すぐに再び山道に入る。

入江から300m余り登った場所。
周辺の津波禍も大きい。
山の中腹に目が行った。

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狭い山間で津波のエネルギーが集中し、高さを上げてくるのか
津波高は海抜でいえ30-40mはありそうな気がする。

この山の中腹にある神社は、月読神社という、
津波はこの神社には届いていないようだ。

月読(ツキヨミ)尊が祭神、
高潮とか満潮とかに係わり、水害にも関係するらしい、
天照アマテラスが太陽神ならば、ここは月神。
ツキヨミはアマテラスの弟でスサノオの兄だという。

神社は京都が本社らしいがその元は隠岐らしい。
そもそも渡来の神なのか、
この釜石には月読神社が複数ある。
いずれも海に近い山の中腹にある。

茨城の沿岸から北に伸びてきた鹿島神(タケミカツチ)の影響は
石巻の日和山に痕跡がある切り、見出せない。

この岩手の沿岸には、大和や京都の政権あるいはその地方からの
直接の影響のほうがよくみられるように思える。

太陽神や月神は、文明の祖形ともいえ、言葉や形が違っても、
その根源的に意味するところは変わらない、ということもある

沿岸の漁労に携わる人々が津波や高潮の被害、海での遭難、こうした安全と、
干満や潮流による豊不漁、、祈りや願望を受けとめる神として
月神ツキヨミがあり続けた。
太陽神アマテラスは、農耕民の神なのか、

月読神社をあとにして、数分、再び海が遠望でき、そこが鵜住居だった。
海に近くて大きな3階建ての建物が目に付いた。

これが防災センター?
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写真を撮った時点では、何の建物かわからなかった。

後日、地図で調べると、
この建物は、教員住宅となっている。
この建物の先の川の対岸に釜石東中学校と鵜住居小学校がある。
この写真の右下から左上に、JR山田線が通っている。

この鵜住居地区には
悲劇のあった防災センターがあるはずだ。
どこか、
すると、消防署の前に出た。

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消防車はあるが、消防署のなかには誰もいないようだ。
シンとしている。

そこへ盛岡ナンバーの乗用車が通りかかったので
声をかけた、なかには女性がふたり。
知らないという、旅の者らしい、、
私と同じように巡礼(?)しているようだ。

20mほど先の路地がにぎやかそうに見えた。
車が時折、そこで止まる。
行くと弁当屋さんだった。

私も弁当を買い、ついでに防災センターの所在を尋ねた。
弁当屋さん、ひまができると、外に連れ出て、教えてくれた。
・・・・・2階建ての防災センターは当時、150~200人の市民が避難したが、
津波は2階まで押し寄せ、生存者は26人にとどまった。
防災センターの問題について野田市長は「特に力を入れて検証したい」と話した・・・・・

大変だ、、ご冥福を祈ります

あとで気付いたのだが
防災センターは消防署を横から撮ったもので、同じ建物だった。
それを気付くのにずいぶん時間がかかった。
教えられた時、初めての土地、別の建物と信じてしまうと、なかなか抜けきれなくなる。

しばらくゆくと、
瓦礫の処理が終わった土地に
多数の車、乗用車、作業車も駐車している
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しかし人がいない
どこか近くにいるはずだと、周りを探すが見当たらない。
海辺に出ているのか、、
どこかで次の復興の段取りを、相談している?

車中でニュース、釜石港へ繋がるベルトコンベアが動き始めた、と聴いた。
輸入鉄鉱石や石炭を陸へ運ぶ?
発電所稼動や棒鉄の生産に結びついていく。、

詳しくはわからなかったが、
日々の手順がすこしずつこなされ、あるとき
目に見えて復旧復興していく日がくるのだろうか

※岩手の海Ⅲ