今日は、また別な説をご紹介します。

多利思北孤(タリシヒコ)は、押坂人彦大兄であり、天皇として即位していた、というものです。


「 さて、タリシヒコが聖徳太子ではなくて押坂彦人大兄皇子だと私が考える積極的な理由の一つは、 彦人 皇子(ひつぎのみこひこひとの み こ )(用明紀2年4月条)という名前にある。この名前のうち太子彦人のヒトが聞こえずに、タイシヒコがタリシヒコに聞こえた可能性もある。第二には、阿輩{奚隹}(あえ  き  み)という号は、「大兄君(おお え きみ)」だったかもしれない。阿はアーと長音で発音される場合もあるので、アーエならばオオエと非常に似ている。もう少し細かく見るならば、「大」の歴史的仮名遣いはオホであり、h音が入ってくるし、輩にもh音が入ってくる。したがって、アとオが類似してきてイとエが類似してくれば、アハイとオホエは全体としてかなり似てくるのである。※{ }内で一字と見なします。
皇族以外の女性でも君と呼ばれることはあるとは思うのだが、押坂彦人大兄皇子の妻もまた皇族である。糠手姫 皇女(ぬかでひめの み こ )(または宝王・田村皇女)といって、敏達天皇の皇女である。したがって「キミ」と呼ばれるにふさわしい。 そして、太子の和歌弥多弗利(わかみたふり)が、タフリの部分から田村王子(日本書紀では村をフリやフルと読んでいる)と推定できるとするならば、田村王子は押坂彦人大兄皇子の子なのだから、これまた倭王の子という意味でぴったりのポジションになるのである。和歌は若を、弥は美か御を意味するだろう。そして、田村王子の母親がやはり田村皇女というのだから、王子のほうを若をつけて呼んでいたと考えられる。
 後宮の六、七百人は多すぎる気もするが、父の敏達天皇の後宮をそのまま受け継いだと仮定すればよいのだろう。ただし、それがと多すぎるのかどうかは私にはわからない。

 ちょっと出典がはっきりしないのだが、ウィキペディアに押坂彦人大兄皇子の別名として挙げられている「皇祖大兄」というのが少々気になるところだ。これは初代天皇の言っているのに等しい。一つの考え方としては、押坂彦人大兄皇子のときに「天皇」という言葉が成立したので皇祖と呼ばれるようになったという解釈が可能である。私としては607年に隋から国書がとどいて「倭皇」となっていたものを翌年に「天皇」と書き換えたのが天皇の始まりと見ているが、それが推古天皇ではなくて押坂彦人大兄皇子がやったことと仮定すれば、かなり整合性が出てくるだろう。」

http://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/20071213/


なるほど、一理有りますね。名前の根拠も。太子が田村(タフリ)なら、かなり近い感じもします。


おお、こちらにも、人彦大兄が多利思北孤(タリシヒコ)だったのではないか、というブログを発見。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/abenomaro.1.html

人彦大兄=聖徳太子の事績の一部であり、隋の使者は、斑鳩宮に行ったのではないか、というものです。水戸黄門の伝承は実際には門下の佐々木が諸国を廻った事績が、黄門様として伝わったように、人彦王が指示し、廐戸皇子が手足となって寺院を沢山作っていたのではないか、、、と。

《「郊労」とあり、場所の移動は認められます。しかし、あまり離れているという感じではありませんね。本当に小墾田宮が都だったのでしょうか?私は斑鳩宮が出迎えた場所と思っています。難波津から日下津まで船で行き、そこから生駒の暗峠を越えて竜田川を下れば、斑鳩へ通ずる街道へ出ます。このルートなら一日はかからないでしょう。中国人からみれば郊外という感覚の距離です。 》

この方の説は面白く、人彦大兄の子に山代王というのがいるのですが、これが山城大兄王であり、舒明との権力争奪があったというものです。


私も、人彦大兄は聖徳太子と何か関係があるのではないかと思っていました。

①舎人が同じ 迹見赤檮

②寺の建立など、人彦大兄と太子との接点がある伝承有り。


裴世清を出迎えた時のメンバーは、蘇我とは言い難く、むしろ、物部・中臣です。

、「難波吉士雄成、中臣宮地連鳥摩呂、大河内直糠手、船史王平、額田部連比羅夫、阿倍鳥臣、物部依網連抱」(日本書紀)


中臣・物部ともに、最初は人彦王に敵対していたが、寝返ろうとした所、馬子または人彦王(廐戸皇子)の舎人に殺される。(殺されたのは中臣勝海)

馬子・聖徳太子勢力が遣隋使を派遣したのなら、587年に物部氏は蘇我氏に敗れているはずなのに、607年にはもう関係は修繕している事になります。20年後なので、まあ有りえなくもないですが。しかし、中臣・物部にとってはあのにっくき馬子に変わりないと思うのです。迎えたメンバーに額田連があり、推古天皇養育氏族でしょうが、これは人彦大兄が天皇であれば継母となり皇太后筋にはかわりないのでメンバーにいてもおかしくないでしょう。

簡単に言うと、裴世清を出迎えた時のメンバーに、中臣と物部がいるのは可笑しくないですか、という事です。また、その後隋に派遣される小野妹子は、敏達天皇の裔と言われています。


人彦大兄が、初代天皇を名乗った人物だから、皇祖大兄と呼ばれた、という所はとてもよく説明がつき、有りかな、とも思います。まあ、もしこの方が多利思北孤(タリシヒコ)であったのなら、宮は水派宮であり、あの広大な広陵町あたりに女官を沢山囲い込んでいた可能性も有りでしょう。

しかし、私には、推古ー人彦大兄ー舒明と何故すんなり記紀は記述できなかったのかという説明が今一つ納得いきません。


皇祖大兄が人彦大兄でさらに多利思北孤(タリシヒコ)であれば、彼こそは歴史の全面に出てこなければならないと感じます。が、実際には隠しているようにしか見えません。。何故でしょうね。