北辰社 妻垣神社

 

まず、北辰社は、

 

宇佐 小椋山 北辰殿

<<上宮(上の社・本殿)は、宇佐神宮でのほとんどの儀式や祈りが行われる場所です。ここでは、応神天皇 (日本の伝説的な第 15 代天皇)の神格化された姿である八幡神と、応神天皇の母である神功 皇后、そして比売大神と呼ばれる三女神という、主要な三柱の御祭神を祀っています。>>

<北辰殿 は 小 椋 山 に お け る先住 の 神 で , 諸 地方 に 移 る こ と な く当初 か ら地 主 神 とな っ て い た とい う。 同縁 起 に は ま た北辰舞 を神官 が舞 ワ た な ど と も記 され る 。 元 来 , 北辰 は 北極星 を指 した が ,中国か ら 口本 に 伝 わ る と 北 辰 権 現 ,北辰 明神 と し て 尊敬 され た 上 , 宇佐宮 で の 北 辰 は ト占の 神 と し て 特 に 尊 信 され た とい う。宇 佐 三 神 の 鎮座す る小 椋 山 に は ,三 神の 他 に夫 々 の 脇殿 が 杷 られ る が ,第 〒 殿 の 脇殿 と し て 春 目社 , 第二 殿 に北辰社 ,第三 殿 に住 吉社 が所属す る 。 春 目 ・住吉両社が 中央神 な の に対 し て 北辰 は 地 方神 だが , 実質的 に は 北辰社 が 何 か に っ け て 重 要 視 され , 一番 活躍 し て い る こ と も,北辰 が地 主 神 と し て 古 くか らそ の 土 地 に 密着 し て い る こ と を示 す も の で あ ろ う>

 

上記の記事等から、五十猛は、筑紫神社→香春岳→宇佐・北辰社と足跡を残した。そして、三女伸の中の誰かと結婚した、と思われる。誰かといえば、イチキシマヒメだと思われるが、そうなると、イチキシマ姫が結婚したのは、徐福ではなく、その長子の五十猛、だった事になる。(出雲王家伝承ではイチキシマ姫が結婚したのは徐福で、その息子はヒコホホデミミ)

五十猛が足跡を残した、香春岳には、天香山だと俗説がある三ノ岳がある。

この人物かその息子が、天火明として出雲にあらわれ、イソタケル(天香語山)を生んだか。>>

 

宇佐家伝承 ④ 三女神  月読  天種子 より

p241

<宇佐家の伝承によると、イチキシマ姫は、月読(宇佐氏の始祖タカミムスビの八世孫オモイカネ=初代宇佐津彦)と結婚し、初代ウサツヒメとなり、宇佐島で日の神、天照オオミカミをまつった。宇佐国の拠点が安芸国タケリノの宮に移ると、後イチキシマ姫(後ウサツヒメ姫)は、祭祀の場所をタケリノ宮に近い厳島に移した。>

 

上記より、

 

徐福の長子・五十猛は、宇佐のイチキシマ姫と結婚(入り婿)し、宇佐に北極星(月神)信仰を持ち込んだ。五十猛は初代宇佐津彦。

 

で、小椋山は、当初からある地主神。

 

一方の妻垣神社は、

 

妻垣神社HP由緒より、

<今より2650年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、この宇佐の地「妻垣」に立ち寄られました。その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に記されています。

翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に母后玉依姫命(比咩大神)の御霊をお祀りするため、自ら祭主となり、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えしました。その大石は「足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)」と名付けられました。>

 

と書かれており、神武(崇神)に関連がありそうですが、、、、。

 

以下も、宇佐氏伝承より、

p243

<宇佐家の伝承では、妻垣神社の鎮座する丘陵は、ウサツヒコの命の墳墓で、その古墳の上にヒメオオカミが、ウサツヒコの妻として祀られた>

 

で、同ページ、

<宇佐神宮ニ之御殿の祭神ヒメオオカミは三女神ではなく、八幡大神すなわち応神天皇の后妃である>

 

p15~

<宇佐族は、月読命を祖神としてアマツコヨミ(天津暦)・ツキヨミ(月読)・ヒジリ(日知・聖)などと呼ばれて、自然科学・社会科学特に、天文学・気象学・地理学・農学・医学などを、シャマニズムによっておこなってきた日本で最も古い北方系の先住民族であるとする>

<その族長は、男性シャマンをもってする男系族長であり、代々宇佐津彦命を襲名し、祖神の象徴である「月」にウサギがいるという太古からの口伝によって兎狭を氏族の称号として名乗ってきた>

 

同巻p58

ウサツヒメを天種子とメアワセてウサツオミが産まれた。(中臣氏の)天種子は本当は天皇(神武)だったが、この事実ははばかられたので、天種子という人物を創作した。

 

1巻p59

<ウサツヒメが生んだウサツオミは、宇佐氏系図の稚屋と同一人物で、母系の神別から父系の皇別になったと言われている。>

 

以上より、

 

月読(五十猛)--初代ウサツヒメ(宗像三女神のイチキシマヒメ)

 

との婚姻があり、その男性族長を宇佐津彦と呼んだ。

何代か後のウサツヒコの時、神武がきて、後ウサツヒメと結婚させた。その子をウサツオミとした。

 

また、小椋山は、

宇佐氏によると、別な引用で、

<宇佐家古伝によると、本当の応神天皇は神武天皇(西暦181年-248年)の皇孫で、神武天皇が東遷する時(204年出発)、菟狭(宇佐)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや、足一騰宮)に4年間滞在し、菟狭津彦の妹(実は妻)の菟狭津媛を娶って、宇佐津臣亦の名は宇佐稚家(わかや)が生まれた。

宇佐稚家が越智宿祢の女(むすめ)常世織姫(とこよのおりひめ)を略奪して娶って宇佐押人(おしと)が生まれたが、宇佐稚屋は越智氏に恨まれ、戦闘の中で負傷し、27才で亡くなったと云う。

宇佐稚屋は宇佐の小椋山(おぐらやま、亀山)に葬られた。宇佐押人は西日本を統一して中央(大和国)に進出し、応神天皇となって国家が成立したと云う。(略)

菟狭津媛は多祁理宮の南西20kmにある伊都岐島(広島県佐伯郡宮島町厳島)に宇佐族の母系祖神・市杵島姫命を祀っていた。推古天皇の時代に社殿が造営され、平清盛が安芸国守護職となってからは社殿が大きく拡充整備された。

狭津媛は間もなく亡くなり、神武天皇も1年後に亡くなったと云う。二人は伊都岐島(厳島)の御山(弥山、みせん、530m)山上の岩屋に葬られたと云う。

上記引用先は、

宇佐家伝承① : 古代史探訪 (exblog.jp)

 

出雲伝承にすりあわせると、

崇神天皇(204年出発)、後ウサツヒメ(宇佐の卑弥呼)と結婚、宇佐津臣(宇佐若家)が生まれる。彼は豊来入彦、という事になり、この人が小椋山に眠っている。

 

(また、応神天皇になった高葉瀬は、話がちょっとずれるが、

子 - 八綱田
孫 - 彦狭島王
三世孫 - 御諸別王
四世孫 - 荒田別、鹿我別奈良別真若(賀表乃真稚命)?
五世孫 - 竹葉瀬(多奇波世、竹合)田道、現古

 

五世孫となる。上記引用元の記事で年代が合わない、とされているので一応、補足してみた)

 

北辰社のある亀山に月読が眠っていそうですが、宇佐神宮成立の仮定や宇佐氏伝承によると違うようです。ま

では、妻垣神社に眠っているウサツヒコは、月読命(五十猛)という事になりますでしょうか。(後ウサツヒメと崇神は広島に葬られたようなので)

で、初代ウサツヒコ(月読)は皇神ではなく天神とされており、のち、神武(崇神)の男系がはいる事により(宇佐津臣)により、皇別、とされるようなった。天火明(ニギハヤヒ)は天神、崇神(中臣氏、ピカ、徐福の弟?)は皇別、というはっきりした違いが実はありそうです。