さて、
土倉鉱山の歴史に、
話題をもどそう。
昭和9年(1934)、
日本窒素肥料株式会社傘下の
朝鮮鉱業開発株式会社が、
土倉鉱山を買収し、
土倉-木之本間に空中索道(ケーブル)を設置し、
設備を近代化して、増産に取り組んだ。
空中索道は長さ13km余あり、
杉本に原動所を置いて、
木之本-杉本、
杉本-土倉の二区間にわけて駆動した。
つまり、
このことによって、
土倉鉱山からの鉱石の搬出は、
杉本隧道-中ノ郷駅ルートから、
空中索道による木ノ本駅ルートに
変更されたということになる。
【写真の中央上に、
稼働する空中索道が見える。
背景は選鉱場の全景】
『伊香大観』より
昭和14年、
雪害によって23人の死者を出したので、
全長1700mの大通道を開削し、
昭和15年に
奥土倉から出口土倉に事業所を移転した。
【大通道か?】
『伊香大観』より
【大通道か?】
上の写真の現在地に該当するか?
昭和17年、
機械選鉱場を完成して、
さらなる増産に取り組んだ。
【選鉱場跡】
【選鉱場跡】
【選鉱場跡】
昭和20年の終戦により、
在外会社の制限を受けて、事業を縮小。
昭和25年、
日窒鉱業株式会社に改組して経営を引き継いだ。
昭和29年の統計によれば、
従業員数256人、
出鉱量18,253トンで、
その品位は銅3.08%、硫黄26.36%であった。
当時
土倉の戸数105戸、人口468人で、
日用品の売店、共同浴場、映画館、診療所、
小学校分校(1~4年)もあった。
また金居原の戸数176戸、人口900人で、
国民健康保険組合の直営診療所、農協支所が置かれていた。
こうして繁栄した土倉鉱山も
昭和40年に鉱脈の老化等により閉山した。
【現在の奥土倉への道】
先日の大雨により、
途中で土砂崩れがあり、
自動車ではこれ以上、先に進めない。
【現在の出口土倉】
選鉱場跡の右手に広がる谷間の草原に
鉱山集落が繁栄した。
金居原の集落を4分して呼ぶとき、
出口土倉を堀近と呼ぶという。
(堀近のほかは堀出、清水、下出)
【現在の金居原】
たぶん下出付近