お墓の疑問38~魚沼の墓標は明治の初めに変化した:小千谷闘牛場隣接墓地~ | のめしこき日記

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 小千谷の角突き見物の合間に隣接する墓地も見てきました。

 

 変なものに興味がある? そうなのです。興味があったら読んでみてください。

 以下の文で、

 

個人墓…一人の戒名が彫られた墓標。

夫婦墓…夫婦と思われる二人の戒名が並記された墓標。

家墓・・・○○家之墓と刻まれた墓標

 

 を意味しています。

 では、始めます。

 

 新潟県魚沼地方の墓標は独特で、「○○家之墓」というのは極わずかで、ほとんどは「先祖代々之墓」「萬霊塔」「南無阿弥陀仏」などと彫られていることに気づきました。

 小千谷の老人に聞いたところ、「先祖代々之墓」「先祖累代之墓」「萬霊塔」などは禅宗の墓で、「南無阿弥陀仏」は浄土宗 or 浄土真宗の墓、過去碑は置かない、塔婆はすぐに片づけるとのことでした。

 群馬県では江戸時代から現代にかけて、個人墓→夫婦墓→家墓の流れがあります。魚沼地方の墓標でも、江戸時代には個人墓→夫婦墓の変遷がありました。いつから群馬県は家墓になり、魚沼地方は「先祖代々之墓」「萬霊塔」「南無阿弥陀仏」などとなったのかそれを調べるためです。

 ですから、闘牛場隣接墓地の中で古そうな墓標を調べてみました。

 1873年(明治6年)の夫婦墓。法名とありますから、浄土真宗の墓でしょうか。

 

 1893年(明治26年)の南無阿弥陀仏。浄土真宗または浄土宗のお墓でしょう。

 1913年(明治46年・大正2年)の累代墓。明治46年と彫られていますが、正確には大正2年です。明治45年と大正元年が1912年ですから。

 1925年(大正14年)の累霊舎利塔。

 同じく1925年(大正14年)の累世舎利塔。

 

 このあたりが古い墓標でした。従って、明治の初めころまでは夫婦墓(1873年)だったけれど、明治20年代(1893年)には今の魚沼の墓標に変わったということができそうです。

 もっと数が増えないと確実ではないと思いますが、一応そんなことが言えるかなと思っています。