会津旅行その4~鶴ケ城・隠された十字に思いを馳せる | おたるつ

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モノホンのおたくにジャンルは関係ねえはずだ!
ってわけで、おたくのるつぼ。略しておたるつ

会津ひとり旅2日目。
やっぱり大河イヤーに巡るのはおすすめ。
なんと言ってもしっかり予習できるし、ドラマ館あるし、
いろんな施設の開館時間が長くなったりと巡りやすいのです。

宿泊した旅館で記念品をもらって鶴ケ城へ。

もちろん大河ドラマ館は押さえてます!
でも、清盛の時のほうがゴージャスだったなあ。


鶴ケ城もガイドさんをお願いしていました。
ガイドさんには恥ずかしがらずに
ある程度のことは勉強してきていることを伝えるのが私のおすすめです。
そうすると当たり前の部分は省いてマニアックなガイドをしてくれる。
これがあるから1対1がやめられない。


ロケにも使われた鉄門。


今回、早々にヲタクであることを白状し、マニアックポイントを教えてもらう。
まずは石垣をよく見ると、要所要所に十字が掘られている。


鶴ヶ城を近代的な城郭にしたのは蒲生氏郷。
そう、「たぶん利休七哲」のサビで一番最初に登場する蒲生氏郷。
おかげで会津滞在中、なんどもあのメロディが頭に流れた。
もう頭の中が利休七哲すぎて、
追いやるために「暦の上ではディセンバー」をあえて口ずさんだほどに。

蒲生氏郷はキリシタン大名。
なるほど、だから十字が掘られているのか。

そこで疑問が沸く。
あとの時代でキリスト教が禁止された時に、よくこのまま残ったな。

会津でもキリシタンの弾圧はあった。
しかし、ガイドさんいわく勤勉な会津藩はキリスト教も勉学の1つとして
受け入れている一面があったのではないかと。

八重も戊辰戦争が終わり京都へ行った後、入信している。
異国の文化や言語を抵抗なく受け入れた下地には、
会津とキリシタンの関係が影響していたのかもしれない。

この建物にも十字が隠れている。



話は会津戦争に戻る。
維新軍が鶴ケ城に向かってアームストロング砲を打ち込んだ小田山の一角は
今も場所がわかるように整備されており城から見える。
かつて走り櫓があった土手を歩くと、大砲を設置するために整備した跡も見られる。

そして、穴が開いて崩れかけた鶴ケ城の悲惨な写真を見る。
あまりにも有名な写真ではあるが、1つ1つ攻防の跡を辿ってから見ると
なぜこんなになるまで……と言葉を詰まらせずにはいられない。

天守閣に上るとかつて降伏式が行われた甲賀町通がまっすぐに見える。
その場所は、西郷頼母邸のほぼ隣にあたる。
すでにこの時、頼母は会津の地にいない。
家族連れの旅行者たちが城下町を一望しはしゃぐ中で、
なんだか泣きそうになってしまった。


他にも鶴ケ城には【荒城の月】の碑がある。


私、恥ずかしながら【荒城の月】の城が鶴ケ城を指すことを知りませんでした。
会津戦争でボロボロになった鶴ケ城を見て作られたという。
知らないなりに、以前ブログで現代超訳してるほど、この詩が好きだ。
鶴ケ城のことだと知って、もう涙なしでは聴けない曲になってしまった。

鶴ケ城のレポはここまで。
なんとガイドさんが特別に城下町の資料をくださったので
天守閣や土手を歩く時に大変参考になった。
より堪能したいと思うなら、やっぱり古地図はマストアイテム。

次回は松平容保から近藤勇、斎藤一まで怒涛の墓めぐり!

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