骨盤内臓全摘術後の看護 Part 3 | 一条の光~ダブルストーマ(人工肛門・人口膀胱)と日常と

一条の光~ダブルストーマ(人工肛門・人口膀胱)と日常と

大腸がん治療のため骨盤内臓全摘術を受け、人工肛門と人口膀胱(ダブルストーマ)を持つことになった41男が、ストーマや日々のことをつづります。17年11月に局所再発が見つかり、現在そいつと向き合っています。

術後17日目
「おれはいつもより眠れたけど、起きると傷が痛んでいて辛い。でも今日、抜糸の予定。楽になりたい」
「ホチキスが全部とれたよ、31個、痛かったぁ泣」
「傷は腹全体が痛むよ。新たな試練だ。」
正確に言うと、抜鈎ですね。みぞおちから恥骨まで、全部で31個のホチキスの針。その針の真ん中を折り曲げて取る手動の機械で一つ取るたびにすごい痛みが。あまりに痛いもんで数を数えてしまった。
記録によるとこれによって新しい痛みが出たみたい。

18日目
「今日は昨日に増して痛むよ泣。痛み止めでなんとか抑えている。はやく状態が良くなりたい。」
痛み止めはこのときはもうロキソニンだけ。でも痛み止め、なるべく飲みたくないなと思っていて、看護師さんから勧められても生返事だったので、「いつものパターン」とか言いあって笑っていたのを覚えている。

19日目
「今日はへばっていて悪かったね。あと一週間と思って、回復できるよう努力するよ」
どうやら面会の日だったよう。妻も子供の世話や仕事のためにいつも来るというわけにいかず。週末が楽しみで楽しみで仕方なかった。

21日目
予定通り、左の腎臓に留置していたステントを抜いた。

22日目
「体が少しずつ楽になっているのか、過ごすのが楽になってきた。先生たちも、来週退院とか言い始めているから、また進展があったら知らせるね。家への思いが日増しに強くなる。」
「夕日に赤く染まったあの稜線の先でみんなが頑張って生きている。おれも頑張るよ。」
ちょうど12月の末に近く、1年で1番日が短い頃。午後4時半から5時にかけて陽が沈むのを、ベッドからずっと見ていた。日課だった。南にビルの街並み、西に目を移すと多摩の丘陵の先に南アルプスや富士山のシルエットが見える。空の赤い色はほんの一瞬で、上空から紺色に次第に染まっていき、弱まってくる陽の光のためか赤と紺が混じって濃い紫になる。そうなると、星空が見えるまで間もない。
そうして見ている方角が、ちょうど家のある方角だったのです。きれいだったなぁ。

23日目
「最後のドレーンが抜けたよ!楽になるといいなぁ」
これは腹部背面に留置され、右手肋骨下から出ていたドレーン。ずっときれいだと言われていたけど、「主治医は3週間は置いておく、これがとれたら退院だ」、と言って、かなり慎重に取り扱っていた。これが取れたんで、体についている管はウロストーマのバッグのコードだけ。点滴棒はもう面倒くさいので、ズボンのゴムのところに引っ掛けて歩いていた。
ただこれを抜いたあと、留置してあった場所が空いて内臓が動いたのか、動いたりすると骨盤の1番下のところで軽く痛んだり違和感があったりした。それは2、3日で治った。

25日目
「今日はありがとう。元気と勇気をもらって、大分楽になったよ。尿のストマも自分で交換して、この調子で頑張るよ」
これも週末で子供達も面会にきてくれたのだと思う。痛みをこらえて長男と自動販売機にヤクルトを買いに行った記憶がある。

27日目
「おれも早く帰りたいから、少しでも床擦れが良くなるように頑張るよ。」
ああ、痛かった床擦れ。看護師さんに教えてもらって、バスタオルを円形に置いて、褥瘡が床に触れないように寝たりしていたが、それでも痛かった。もうこれは3ヶ月痛むことになる。入院していた病院では、褥瘡の写真を定期的に撮って、形成外科のチームが画像診断してくれていた。その先生方にお世話になるのは退院後の外来だった。

28日目
泌尿器科でウロストーマのチェクと腎臓のエコー検査をした。問題なし。

31日目
無事に退院。忘れられない。

退院後、妻に話した。自分は手術を受けたら赤ん坊に戻るだろう、と。歩くことから生き直すことになるだろう、と。
新しい生き方、新しい考え方をするんだ、と。だから手術の日はわたしの再生の日、退院の日は生後1ヶ月の日。

書き終えて思うのは、2年近く経ったから書けたんだろうな、ということ。
また一歩進めたかな。