別の社会で生きるということ | O.S.D.さり オフィシャルブログ powered by Ameba

別の社会で生きるということ

ひとまとまりのコミュニティがあって、それをインドではSocietyと呼ぶ。

同じ建物も、Society。
もう少し広がったエリアもたぶんSociety。

このSocietyは一昔前であったら、きっとカーストやなんかが大きく関わっていたんだろうけれども、
ここムンバイはインドの中でもダントツに都会で、
インド中の色んなところから人々が集まっていることや、
年々豊かになっていく特に若い人たちの考えは、
私たちが社会科の授業で習ったなんかよりもう少し進んでいる。

本当はもっと根深い何かのあるのかもしれないし、
単純にその人の考え方に依存するのかもしれないし。

ただ、私の住むSocietyは、
とても快適で広くて新しいんだけれども、
隣人がインド人に多いベジタリアンでいたく厳しいヒンドゥー信者らしい。

毎日ゴミ集め担当の彫りの深いオジサンが、
各戸のドアの前に置かれたゴミを収集してくれるのだけれども、
私たちの捨てるお肉とか、ビールの空き瓶、
見たこともない様などこかの国のスパイス・・・
それに苦情が出て、私たちは家の前のドアには捨てられなくなった。

と言っても、家の目の前の空き地、50mも歩かない場所に
ゴミ集積場みたいのがあって、
そこに行けばいいだけだし、
そもそも毎日捨てられるだけで、日本に比べたって便利だし全然いいじゃん、と思っていたんだけれど、
フラットメイトのブラジル人は「It's NOT fair!」と発狂している。
今でも。

機嫌の良い日は、全く別の社会にお邪魔させてもらっている、という謙虚な気持ちで、
鼻歌まじりに同居人の分までゴミを捨てに行くし、
虫の居所が悪ければ「あーめんどくさーそんな保守的やからいつまでもこんなんやねん!」
と意味不明の悪態をついてみるし、
道端で眠る家族を横目に自分の悩んでいることがしょーもないなーって反省する日もあれば、
その人たちのがちゃんと家族を構成して遺伝子を残して私何してんだろうって、
得意のメンヘラ全開スイッチを押すこともあるし。

まだまだ小さいな。
と思う。

で、別に何でもかんでも受け入れる気ももうなかったりする。

大音量の深夜のクラクションや音楽、早朝のコーラン、
道端に唾液を吐きかけること、爆竹、
そんなのは全然気にならないのに、
他人のゴミには苦情をっていうことを、奇特やなぁって思いつつ、
糾弾する気もないし、
ましてや外国人だし、私、
そんなもんなんかいなぁってなんとなく認めて、
別の社会で生きていくことについて、考えたりなかったりする。



最近お気に入りのANOKHI

ひとつひとつ手押しのブロックプリント。
ちょっとかわいい。

次回帰国時のお土産はこれにしようと思っています。



ちょっと久しぶりに打ち込みやりすぎた。
ここからはしばらく読書モードに入るところ。


凍える様な熱帯夜