いぶ以前のブログで紹介した本、『逝きし世の面影』の第二章のタイトルは、ずばり「陽気な人々」となっている。
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)/渡辺 京二
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そしてその章の出だしは次の文章で始まっている。

19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックでさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。

それから約1世紀半のときを経て、日本は歴史上かつてなかったほどの物質的繁栄を手に入れ、多少のほころびが出始めているとはいえ、いまだに世界第二の経済大国としての地位を保っている。

にもかかわらず、その経済大国で暮らす人々の幸せ感は、その物質的繁栄とまるで反比例するかのように、次第に薄くなっているように見受けられる。

「豊かになりたい=幸せを手に入れたい」と願い、一生懸命努力した結果がこんな逆説的な不幸せだとしたら、いったいこの150年間(特に戦後半世紀)の働きはいったいなんだったのだろうか。いつ、どこで、途を間違えてしまったのだろうか。

その問いに対する答を探るうえで、この日本人が一般的にハッピーだったと思われる時代にタイムスリップすることは重要な作業に違いない。

上記著作の筆者である渡辺京二さんは雑誌『中央公論』(2007年7月号)の中で、彼らの幸せの背景について、次のように説明している。

この満足感・幸福感の拠ってきたるところは何かと問えば、議論は多少難しくなります。ですが端的に言ってしまうと、それは当時の人々が武士であれ庶民であれ、賢者であれ愚者であれ、自分の生涯に完結した意味を与えることがひとしくできていたからではないでしょうか。

中略

あのころの人々は風景にせよ生きものにせよ、自分を取り巻く環境世界にひとつの物語を見出しておりました。もちろん自分はその物語の織り糸のひとつで、茅屋根を飾る花とも、馬や牛や狐とも、ちゃんと意味のあるつながりがついていたのです。

中略

身分制というのも安心を与える装置のひとつでありました。

中略

なぜなら彼らは百姓・職人・商人という自分の職分に十分な誇りを持っていたからです。そういう職分において一生を過ごすことに何ら異存はなかったからです。一生の意味はそれぞれの職分において保証されていたのです。


上記発言の一つひとつが大きな意味を持っていて、それに対する自分自身のコメントを記すことはとてもできない相談だ。一つだけとり上げるとすれば、最後の「自分の職分に十分な誇りを持っていた」という個所をとりあげたい。

これは、デンマークに関するアメリカABC放送のレポートが伝えていたゴミ収集者の満足した顔、そのものではないか!自分の仕事に誇りを持ち、それに満足し、それを通じた隣人との付き合い、つながりを大切に思う――まさに現代日本人が忘れてしまった江戸期の特徴がそこには見てとれる。

もちろん、デンマークと日本の状況にはいろいろな違いがあるのだろうから、簡単に比較はできない。しかし、少なくともそうしたデンマーク人の仕事に対する誇りを持てるという事実を支えているのが社会の制度なのであり、それについてわれわれが学ぶということは決して無駄なことではないだろう。

いきなり江戸期に戻ることはできないが、その時代のよき部分を復活させるうえで、現代的な方策を採るということは、選択肢の一つとして真剣に考えるべきなのではないだろうか。