セントアンナの奇跡 | 元レンタルビデオ屋店長の映画感想

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元レンタルビデオ屋店長の映画感想-セントアンナの奇跡
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社会派の名匠スパイク・リー監督が史実をヒントに綴られた同名小説を映画化した戦争ドラマ。第二次大戦下、イタリア・トスカーナに送られた米軍黒人部隊“バッファロー・ソルジャー”に焦点を当て、皮肉な境遇に置かれた黒人兵の葛藤と彼らが体験したひとつの奇跡を、史実を織り交ぜミステリアスかつ感動的に描き出す。出演は「きみの帰る場所/アントワン・フィッシャー」のデレク・ルーク、「7つの贈り物」のマイケル・イーリー。
 1983年のニューヨーク。ある日、郵便局に現われた男性客を定年間近の郵便局員が射殺する事件が発生。そして犯人の男ヘクターへ殺人の動機や被害者との関係を追及する中、彼の部屋では歴史的に重要なイタリアの彫像が発見される。そんな不可解な事件の謎を解く鍵は、1944年のイタリアまで遡るのだった――。第二次大戦下、アメリカ軍の黒人だけで組織された部隊“バッファロー・ソルジャー”は、イタリアの最前線でナチスと戦っていた。そのさなか、無線兵でイタリア語が堪能なヘクター、リーダーのスタンプス、自分勝手なビショップ、心優しいトレインの4人は、アンジェロという少年を救ったため部隊とはぐれ、敵陣で孤立してしまう。やがて、アンジェロの手当てのため、トスカーナの小さな村へ身を寄せる4人。そこで、彼らと村人たちとの間には、人種や言葉の壁を越えた交流が芽生えていくのだった。だが、そんな心休まる時も束の間、村がナチスの大軍に襲撃されてしまい…。


歴史的な真実とミステリーも交えながら、スパイク・リー監督らしい米軍黒人部隊バッファロー・ソルジャーを題材にした戦争ドラマ。ミステリーもあるので、とても引き付けられこの作品の映画の根底にあるものに考えさせられるが、どこか現実味がなく寓話のようで曖昧な感じがある。それが悪い訳ではなく、ストーリーも人間の本質を描いていて興味深い。スパイク・リー監督だからこそ差別の会話を観ていられたが、これが違う監督なら少し辛かったかも知れない。


元レンタルビデオ屋店長の映画感想-セントアンナの奇跡

-第92師団-

映画の時点である第二次大戦時は、露骨な差別が日常的だった時代。
バッファロー・ソルジャーと呼ばれる部隊の黒人兵がこの映画の主人公なわけだが、当時アメリカ軍では黒人と白人の混成部隊はなかった。黒人部隊はあったが、その大部分は戦闘部隊ではなく、道路や空港建設、武器弾薬輸送などの後方支援部隊。わずかに存在した黒人兵の戦闘部隊のひとつが、ここに登場する第92師団。

元レンタルビデオ屋店長の映画感想-セントルイス

-セント=アンナ虐殺事件-
パルチザンの攻撃に対するドイツ軍の報復は凄まじいものだった。44年3月、ローマ市内でドイツ兵33名が仕掛けられた爆弾で殺されると、反ドイツ、反ファシズムの政治犯やユダヤ人など330人が報復として処刑された(アルテアティーネの虐殺)。ドイツ兵の死者1名に対して10倍の報復として330人が殺された。この事件以外にも、ドイツ軍が見せしめや報復として一般民衆を処刑する事件は数多く起きた。映画の背景となったセント=アンナ虐殺事件もその一つ。


元レンタルビデオ屋店長の映画感想-MIRACLE AT ST. ANNA
-パルチザン-
ドイツ軍による占領を見越して、ドイツ及びファシストに対抗しようとするイタリア人の自発的な動きも生まれていた。バドリオ政権が休戦を発表した段階で、各政党指導者達が集まってローマで国民解放委員会を結成。この組織は、バドリオ政権逃亡後、ドイツ軍への抵抗運動を組織。また、イタリア軍の兵士の中には、休戦のニュースを知った段階で、ドイツ軍と戦うために部隊を離脱し、武器を持ったまま山中にはいる者が少なからずいた。武器を持ちドイツ軍とファシスト勢力に対して武装闘争をおこなう人々をパルチザンいう。元兵士以外にもパルチザンに加わる人々は多く、その数はドイツ軍の敗北までどんどん増えつづけていった。

元レンタルビデオ屋店長の映画感想-MIRACLE AT ST. ANNA
-髑髏師団-

映画の中でドイツ兵のドクロのマークががアップされるが、トーテンコプフはドイツ語で骸骨、髑髏(どくろ)を意味することと、この師団の構成員が強制収容所維持管理及び警備を担当する親衛隊髑髏部隊。


師団は前線から戻り、オーストリアのインスブルック で降ろされ、車輌の補充を受け、アルプスを越え北イタリアへ向かった。師団は1943年8月8日 にポー川平原へ到着した。

LSSAHは、トレント-ヴェローナ地域の重要な道路と連絡駅の警備を命令された。この地域での数週間の作戦行動の後、師団はパルマ-レッジョ地域へ移動した。この期間中、師団はパルチザンとの幾つかの小戦闘を行った。 1943年9月8日 のイタリアの崩壊で、師団は近くのイタリア部隊の武装解除 を命令され、9月9日パルマ に駐屯するイタリア部隊との短い衝突を除いて、順調に進んだ。9月19日 までにポー川平原の全てのイタリア軍隊は武装解除された、しかし、OKWはフランス国境の近くのピエモンテで、イタリア第14軍の部隊が再編成を行っているとの報告を受け懸念を抱いた。それに対して、パイパーSS少佐のLSSAH第2装甲擲弾兵連隊第III大隊が、武装解除の為に派遣された。クーネオに到着すると同時に、パイパーはイタリア軍将校と会った。彼は、パイパーの部隊が直ちにクーネオ県 から撤退しなければ攻撃すると警告した。パイパーはこれを拒絶した。それはイタリア軍を攻撃に駆り立てた。パイパー大隊の歴戦の兵は、イタリア軍を制圧し、更に地域内に残るイタリア軍部隊を武装解除していった。これらの軍事行動により、LSSAHは大量のイタリア軍の軍服とドイツがイタリア海軍に供与したUボート乗組員用の革製ジャケットを押収した。これらの押収品を着用したLSSAH将兵がノルマンディー上陸作戦時の記録写真のフィルムに残されている。

イタリアの崩壊と降伏により、パルチザンの活動は、各地で活発となった。LSSAHはイストリア半島 に送られ、対パルチザン作戦に従事した。イタリアにいる期間に、LSSAHは完全な装甲師団に刷新され、第1SS装甲師団ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(1.SS-Panzer-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と改称した。11月初め、東部戦線の情勢悪化により師団をロシア戦線に送ることが決まり、11月中旬、ジトーミル に到着した。映画の時代は1944年。

※ウィキと、こちらから引用。

世界史講義義録