作為の無い作為 | Hanaoyaji オヤジでも花とアロマ好き

作為の無い作為



さくい【作為】

あることに見せかけようと、わざと人の手を加え手直しをすること。ことさらに手を加えること。つくりごと。


若いデザイナーやクリエイターは派手なことやアバンギャルドなこと、目立つことをしたがります。

まあ若い内はそのくらいで暴れるくらいのもの作りの方が良いのですが、歳と共に作為を見せない作為になって行きます。


子供の頃はまだピカソの描く簡単な線画のどこがいいか分かりませんでした。

若い頃のピカソは写実的な絵画から青の時代、赤の時代、キュービズムへと移って行きますが、なぜどんどん分かりにくい絵になっていったのか、なぜ最晩年に線画を多く描いたのかが分かりませんでしたが、今ある年齢に私もなり、自然と分かる様になっています。

今見るとピカソの描く線描の向こう側に骨格やボリューム、空間までを意識(無意識の中で自然と出る)して描いています。

とても真似出来ません。


また京都の20代続く庭園作家の井上 剛宏先生とは何度か仕事をさせていただき、庭園の解説を聞かせて貰っています。

井上先生も若い頃は派手な人のしないデザインを幾つもやられていますが、晩年の作品ではあたかも深山の風景を切り取って来た様な空間を何もない更地に作られています。


作為を感じさせ無い作為はある種究極の造形でもあります。

陶芸でも生け花でも


今回枝の先に折花を付けて感じたのは、枝には人間に媚びるような作為は全く無く、あるがままに成長して変化しています。

その動き伸びやかさはとても真似出来るものではないのですが、シンプルな折花を組合せることでお互いの良さの相乗効果が生まれています。

実は今回の枝の折花をレイアウトした際に、無造作に何も考えず適当に置いた時が一番美しく、その後何度も並べ直したのですが、小賢しい作為が透けて見えてしまっています。


作為の無い作為は私のある種求める世界でもあります。

まだまだ修行中です。


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